官立綿糸紡績工場の女工哀史 第6話:川面に流した涙(終)
作者のかつをです。
第十三章の最終話です。
主人公ハツは、悲しい結末を迎えました。
しかし、彼女のささやかな恋と生きた証は、確かにそこにあったのだと信じて。
そんな祈りを込めて、物語を締めくくりました。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
ハツが、最後にたどり着いた場所。
それは、工場のすぐ脇を流れる瀬野川のほとりだった。
川面が、夕日に照らされてきらきらと輝いている。
そのあまりの美しさに、彼女はただ涙を流した。
故郷の、小川を思い出す。
妹のスミと、よく水遊びをしたあの懐かしいせせらぎ。
もう、帰れない。
あの、温かい場所へは。
彼女は、懐からあの赤いリボンを取り出した。
そして、それをそっと川の流れに乗せた。
(スミ、ごめんな……。姉ちゃん、約束、守れなかったよ……)
赤いリボンは、小さな船のようにゆっくりと川下へと流れていく。
まるで、自分の短い人生が流れていくかのようだった。
彼女は、その場に崩れるように座り込んだ。
咳が、止まらない。
意識が、遠のいていく。
その時だった。
「……おい、大丈夫か」
聞き覚えのある、声。
顔を上げると、そこに正一が立っていた。
「お前……。ハツ、じゃないか。どうしたんだ、その顔色は……。それに、その咳は」
ハツは、何も言えなかった。
ただ、首を横に振るだけだった。
正一は、すべてを察したようだった。
彼は、何も言わずに自分の羽織を脱ぐと、ハツの冷え切った肩にそっとかけた。
「……馬鹿だな、お前は」
その声は、震えていた。
「俺……。待ってたんだぞ。お前が、休みの日、町に出てくるのを。今度こそ、勇気を出して声をかけようと……」
その思わぬ言葉に、ハツの目から再び涙があふれ出した。
それは、もう悲しみの涙ではなかった。
自分の、ささやかな想いは確かに届いていたのだ。
自分は、一人ではなかったのだ。
ただ、それだけのことが彼女の冷え切った心を、温かく満たしていった。
その後の、ハツがどうなったのか。
それを、知る者は誰もいない。
ただ、瀬野川のほとりで短い生涯を終えた名もなき女工がいた、という風の噂だけが残されている。
◇
……現代。瀬野川のほとり。
かつて、紡績工場があった場所は、今では静かな住宅地へと姿を変えている。
川辺の公園で、子供たちが楽しそうに遊んでいる。
その一人の少女の髪に、赤いリボンが風に揺れていた。
歴史は、華やかな成功物語だけを記録する。
しかし、その礎の下には、ハツのように名もなきまま、その夢を、命を捧げた無数の人々がいた。
私たちは、その声なき声の上に今の平和な暮らしを築いている。
そのことを、決して忘れてはならない。
(第十三章:水音と糸車の唄 了)
第十三章「水音と糸車の唄」を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
日本の近代化は、こうした多くの犠牲の上に成り立っていました。その光と影、両方を知ることこそが、歴史を知るということなのかもしれません。
さて、悲しい物語が続きました。
次なる物語は、少し趣向を変えて、一人の風変わりな文化人の足跡を追います。
次回から、新章が始まります。
**第十四章:乞食と俳句と瀬野の柿 ~種田山頭火、十六句の風景~**
「分け入っても分け入っても青い山」
自由律俳句の巨匠、種田山頭火。
彼が、放浪の旅の途中、この瀬野の地に足跡を残していました。
引き続き、この壮大な郷土史の旅にお付き合いいただけると嬉しいです。
ブックマークや評価で応援していただけると、第十四章の執筆も頑張れます!
それでは、また新たな物語でお会いしましょう。




