官立綿糸紡績工場の女工哀史 第5話:糸が切れる時
作者のかつをです。
第十三章の第5話をお届けします。
今回は、この物語の最も悲しい場面を描きました。
過酷な労働環境がいかに、若い女性たちの命と夢を奪っていったのか。
その紛れもない歴史の事実に、目を背けずに描きました。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
幸せな時間は、長くは続かなかった。
ハツの身体は、知らず知らずのうちに蝕まれていたのだ。
工場の中は、常に細かい綿埃が舞っていた。
それを、毎日毎日吸い込み続けた結果、彼女は肺の病を患ってしまった。
「肺結核」である。
当時は、まだ有効な治療法のない死の病だった。
最初は、ただの風邪だと思っていた。
しかし、咳は一向に止まらない。
夜になると微熱が続き、身体は鉛のように重くなっていった。
そして、ある朝。
彼女は、自分の布団に鮮血が飛び散っているのを見つけた。
喀血だった。
その瞬間、彼女は自らの運命を悟った。
病のことは、すぐに監督に知れた。
伝染を恐れた工場は、彼女に荷物をまとめるように命じた。
もはや、ここに彼女の居場所はなかった。
働けなくなった女工は、ただの厄介者でしかなかったのだ。
わずかばかりの見舞金を渡され、彼女は一人工場の門を出された。
あんなに焦がれていた、外の世界。
しかし、その世界はあまりにも冷たく彼女を迎えた。
故郷に、帰るわけにはいかない。
病を、うつしてしまうわけにはいかない。
そして、何よりこんなみじめな姿を家族に見せるわけにはいかなかった。
彼女は、あてもなく瀬野の町をさまよった。
桜の木が、満開だった。
しかし、そのあまりの美しさが、逆に彼女の心を締め付けた。
自分は、もう来年の桜を見ることはできないのだろうか。
最後に、一目だけ。
彼女は、工場の裏手へと足を向けた。
機械の整備を終えた、正一が出てくるかもしれない。
しばらく待っていると、思った通り彼が仲間たちと笑いながら出てきた。
その元気そうな姿を見て、ハツはほっとした。
そして、同時に涙があふれてきた。
自分と、彼とでは住む世界が違うのだ。
彼女は、声をかけることなくそっとその場を離れた。
懐には、妹に渡せなかった赤いリボンと、そしていつか嫁入り道具を買うために貯めていた、わずかばかりのなけなしの金が残っているだけだった。
彼女の、ささやかな夢の糸は、ぷつりと音を立てて切れた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
紡績工場は、その劣悪な労働環境から「女工の墓場」と揶揄されることもありました。特に、空気の悪い工場内で蔓延した肺結核は、多くの若い命を奪ったと言われています。
さて、すべてを失い死を待つだけとなったハツ。
彼女が、最後にたどり着いた場所とは。
次回、「川面に流した涙(終)」。
第十三章、感動の最終話です。
物語は佳境です。ぜひ最後までお付き合いください。




