官立綿糸紡績工場の女工哀史 第4話:ささやかな夢
作者のかつをです。
第十三章の第4話をお届けします。
今回は、主人公ハツの淡い恋模様を描きました。
過酷な日常の中にある、ささやかなときめき。
そんな少女の純粋な心を、感じていただければ幸いです。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
ハツの灰色の日々に、ほんの少しだけ彩りが生まれた。
工場の機械の整備を担当している、一人の若い職工。
名を、正一という。
彼は、他の監督たちのように女工たちを怒鳴りつけたりはしなかった。
いつも黙々と、しかし丁寧に機械の調子を見て回っている。
時折、ハツが糸の扱いに困っていると、何も言わずにそっと手助けをしてくれることがあった。
そのぶっきらぼうな優しさに、ハツの胸はかすかにときめいた。
正一が近くを通りかかるだけで、心臓がどきどきと音を立てる。
彼と一言でも言葉を交わせた日は、一日中幸せな気分でいられた。
ハツは、夢を見るようになった。
いつか、この工場を辞めてささやかな家庭を持つ。
そこには優しい夫がいて、可愛い子供たちがいて……。
その夫の顔は、いつしか正一の顔に重なっていた。
それは、あまりにも儚いささやかな夢。
しかし、その夢があるだけでハツは辛い仕事を乗り越えることができた。
いつか、きっと。
そのいつかが来ることを信じて。
月に一度の、休みの日。
女工たちはわずかな給金を握りしめ、瀬野の町へと繰り出すことが許されていた。
それが、彼女たちにとって唯一の楽しみだった。
ハツは、町の小さな店で紅を買うか簪を買うか、真剣に悩んでいた。
そんな彼女の前に、偶然正一が通りかかった。
「……よお」
正一は、少し照れたように声をかけてきた。
工場の外で会うのは、初めてだった。
「……こんにちは」
ハツの顔が、りんごのように赤くなる。
二人の間に、気まずい沈黙が流れた。
何を、話していいかわからない。
「……その、なんだ。あまり、無駄遣いするなよ」
正一は、それだけ言うと足早に去っていってしまった。
後に残されたハツは、その場にしばらく立ち尽くしていた。
嬉しかった。
彼が、自分を気にかけてくれている。
ただ、それだけのことが飛び上がるほど嬉しかった。
彼女は、結局紅も簪も買わなかった。
その代わりに、妹のスミのために約束の赤いリボンを一つだけ買った。
そして、残りの金は大切に懐にしまった。
いつか、この夢が叶う日のために。
ささやかな嫁入り道具を買うために。
彼女の心は、希望でいっぱいだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
工場内での男女の恋愛は、もちろんご法度でした。しかし、同じ屋根の下で青春時代を過ごす若者たちの間に恋心が芽生えるのは、ごく自然なことだったでしょう。そこには、きっと数多くの切ないドラマがあったはずです。
さて、ささやかな夢を見つけたハツ。
しかし、時代の、そして工場の現実は彼女に優しくは微笑みませんでした。
次回、「糸が切れる時」。
彼女の儚い夢は、無残に断ち切られます。
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