「セノハチ」と瀬野機関区の男たち 第1話:魔の8パーミル
作者のかつをです。
本日より、第三部「近代・現代編 ~鉄道と戦争の記憶~」の連載を開始します。
その幕開けとなる第十一章は、鉄道ファンなら誰もが知る、伝説の急勾配「セノハチ」の物語です。
蒸気機関車が主役だった時代、この難所を支えた、瀬野機関区の男たちの熱いドラマにご期待ください。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
広島市安芸区瀬野。この町の風景とは、切っても切れないものが二つある。
一つは町の真ん中を貫くように走る、山陽本線の線路。
そしてもう一つは、今も昔もこの土地の象徴であり続ける、急峻な「坂」である。
明治時代、山陽鉄道の建設が進められた際、当時の技術ではどうしても避けることができない、最大の難所があった。
瀬野駅から隣の八本松駅へと続く、連続した急勾配。
その坂は、いつしか二つの駅の名を取って、「セノハチ」と呼ばれるようになった。
これは、蒸気機関車の時代、その「セノハチ」という名の魔物と戦い続けた、名もなき鉄道員たちの汗と誇りの物語である。
◇
大正の世。瀬野駅に隣接する、瀬野機関区。
煙と油の匂い、そしてけたたましい金属音が、その場所のすべてだった。
若き機関助手の健太は、巨大な蒸気機関車の足回りで油まみれになりながら、点検ハンマーを振るっていた。
「健太! まだ終わらんのか! まもなく、下関からの急行が到着するぞ!」
先輩機関士である、源さんの怒声が飛ぶ。
「へい! もう少しです!」
健太は、この仕事に憧れていた。
巨大な鉄の塊を自らの手足のように操り、多くの人々と荷物を運ぶ。
機関士という仕事は、子供たちの羨望の的だった。
しかし、現実は甘くはなかった。
一人前の機関士になるためには、まずこの機関助手として何年もの下積みを経験しなければならない。
仕事は、過酷を極めた。
灼熱の機関室で石炭をくべ続け、ボイラーの圧力を管理し、そして機関車のあらゆる部分の整備を行う。
一瞬の気の緩みが、大事故に繋がる責任の重い仕事だ。
そして、この瀬野機関区には他の場所にはない、特別な使命があった。
「セノハチ」の、後押しである。
瀬野駅から八本松駅までの勾配は、最大で22.6パーミル。
1000メートル進む間に22.6メートルも登る、というとんでもない急坂だ。
本務機と呼ばれる、列車を牽引する機関車だけでは、この坂を登りきることは到底できない。
そのため、この瀬野機関区には「補助機関車(補機)」と呼ばれる、後押し専用の力自慢の機関車たちが常に待機していた。
健太たちの仕事は、坂を登るすべての列車の最後尾に連結し、その巨体を文字通り後ろから押し上げることだった。
「来たぞ!」
遠くから、汽笛の音が聞こえてきた。
健太はハンマーを置くと、機関室へと駆け上がった。
これから、魔の坂との戦いが始まる。
彼の心臓は、恐怖と、そして武者震いで高鳴っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
第十一章、第一話いかがでしたでしょうか。
「セノハチ」は、その厳しさから日本の鉄道史における数々のドラマの舞台となってきました。まさに、鉄道員たちの腕と誇りが試される場所だったのです。
さて、主人公・健太の初めての後押し業務。
彼を待っていたのは、教科書通りにはいかない厳しい現実でした。
次回、「後押しの蒸気機関車」。
蒸気と汗と男たちの怒号が、機関室に渦巻きます。
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