吉田松陰、一夜の漢詩 第5話:暁の旅立ち(終)
作者のかつをです。
第九章の最終話です。
吉田松陰の悲劇的な最期と、しかし彼の遺したものが、いかにしてその後の歴史に大きな影響を与えていったのか。
そして、その記憶が現代のこの瀬野の地にどう繋がっているのか。
壮大な歴史のロマンを感じていただけたら幸いです。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
駕籠が、ゆっくりと動き始めた。
東の空が、白み始めている。
秋の朝の、冷たい空気が肌を刺すようだった。
一行は、大山峠へと向かって静かに進んでいく。
松陰は、駕籠の中から遠ざかっていく、間宿「出見世」の家並みを振り返った。
それは、朝霧の中に静かに沈んでいくようだった。
わずか、一夜の滞在。
しかし、この瀬野の地で過ごした静かな夜は、彼にとって忘れられないものとなった。
この場所で、彼は死への最後の覚悟を固めたのだ。
この時から、わずか一ヶ月余り後。
安政六年十月二十七日、吉田松陰は、江戸伝馬町の牢でその三十年の短い生涯に幕を閉じた。
彼の、過激な思想と行動は、ついに実を結ぶことはなかった。
歴史の、敗者。
そう言うこともできるのかもしれない。
しかし、彼が松下村塾で、そしてその短い生涯を通じて蒔き続けた「種」は、決して死ぬことはなかった。
彼の死は、むしろ門下生たちの魂に激しい炎を燃え上がらせるきっかけとなった。
高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋……
彼らは、師の悲劇的な死を胸に刻み、その遺志を継いで倒幕への険しい道を突き進んでいく。
そして、やがて時代を大きく動かす原動力となっていくのだ。
松陰自身は、その新しい時代の到来を目にすることはできなかった。
しかし、彼が瀬野の暁に詠んだあの漢詩。
その変わらぬ老松に託した、揺るぎない「至誠」の魂は、確かに弟子たちに受け継がれ、明治という新しい日本の礎の一つとなった。
◇
……現代。瀬野。
かつて本陣があったとされる場所には、今、その面影を伝える小さな石碑がひっそりと立っているだけである。
その石碑の前で、一人の歴史好きの青年が足を止めている。
彼は、知らない。
今自分が立っているこの場所が、日本の夜明け前、最も暗い時代に、一人の男がその命を燃やし尽くす覚悟を決めた、その聖なる場所であったということを。
しかし、もし彼が静かに耳を澄ませば。
聞こえてくるかもしれない。
遠い幕末の暁の空に響き渡った、一人の志士の力強い詩の声が。
(第九章:瀬野の月、松陰の影 了)
第九章「瀬野の月、松陰の影」を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
瀬野に残る吉田松陰の漢詩の石碑は、彼の不屈の精神を今に伝える貴重な歴史の証人です。この物語を読んで少しでも興味を持たれた方は、訪れてみてはいかがでしょうか。
さて、幕末の緊迫した物語でした。
次なる物語は、同じく江戸時代ですが、少し毛色の変わった痛快な伝説の物語です。
次回から、新章が始まります。
**第十章:盗人岩の義賊伝 ~山賊岩伝説異聞~**
大山峠に、その名を残す「盗人岩」。
そこに、本当に盗賊はいたのでしょうか。
もし、いたのだとしたら、彼らはただの悪党だったのでしょうか。
そんな、歴史のifに迫ります。
引き続き、この壮大な郷土史の旅にお付き合いいただけると嬉しいです。
ブックマークや評価で応援していただけると、第十章の執筆も頑張れます!
それでは、また新たな物語でお会いしましょう。




