吉田松陰、一夜の漢詩 第4話:月下に詠む
作者のかつをです。
第九章の第4話、物語のクライマックスです。
今回は、吉田松陰が実際にこの瀬野の地で詠んだとされる、漢詩「廣島曉發」を題材にしました。
彼が、どんな思いでこの詩を詠んだのか。その背景にある心のドラマを、想像しながら描きました。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
すべての迷いを振り払い、死ぬ覚悟を決めた松陰。
彼の心は、一点の曇りもない鏡のように澄み切っていた。
夜明け前、鶏の鳴き声が遠くで聞こえた。
出発の支度が始まる、気配がする。
松陰は、昨夜から向かっていた文机の上で、すらすらと筆を走らせた。
この瀬野の地を発つ、今の心境。
それを、漢詩に託しておきたかった。
彼は、窓の外に目をやった。
まだ薄闇が残る、街道。
その脇に、一本の巨大な老松が、まるで天を突く龍のようにその枝を広げている。
何百年もの間、この場所で風雪に耐え、行き交う人々を見守り続けてきたのであろう、その堂々とした姿。
松陰は、その老松の姿に、自らの在るべき姿を重ねていた。
時代が、どう変わろうと。
自分の身に、どんな運命が待ち受けていようと。
この国の未来を想う、自分の「至誠」の心だけは、この老松のように決して変わることはない。
その揺るぎない決意が、彼の筆先に力を与えた。
『廣島暁發』
鶏鳴侵早發 (鶏鳴 早きを侵して発す)
*夜明けを告げる鶏の声に急かされるように、まだ夜のうちに出発する。*
驛路儼嶇尊 (駅路 儼として嶇尊たり)
*これから向かう道は、どこまでも厳しく、険しい。*
老松蟠龍勢 (老松 龍の蟠る勢い)
*道端の老松は、まるで龍がとぐろを巻いているかのように、威厳がある。*
不改古今容 (改めず 古今の容)
*その姿は、昔も今も、決して変わることがない。*
詩を書き終えると、松陰は静かに息をついた。
この詩を、誰が読むことになるのかわからない。
あるいは、誰の目にも触れることなく、歴史の闇に消えていくのかもしれない。
それでも、よかった。
ただ、この瞬間の自分の偽らざる心を、言葉として残しておきたかったのだ。
やがて、障子の向こうから、「先生、ご支度を」と声がかかる。
松陰は、静かに立ち上がり、夜明け前の冷たい空気の中へと足を踏み出した。
駕籠に、乗り込む。
彼の、最後の旅が再び始まろうとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
この漢詩は、松陰の旅中の日記に実際に記されています。変わらぬ老松の姿に、自らの揺るぎない信念を重ね合わせた、彼の覚悟の詩として読むことができるでしょう。
さて、ついに瀬野の地を後にする松陰。
彼の運命は、そして彼の遺した思いはどうなるのでしょうか。
次回、「暁の旅立ち(終)」。
第九章、感動の最終話です。
物語は佳境です。ぜひ最後までお付き合いください。




