吉田松陰、一夜の漢詩 第3話:死の覚悟
作者のかつをです。
第九章の第3話、お楽しみいただけましたでしょうか。
今回は、吉田松陰が死への恐怖を乗り越え、「覚悟」を決める荘厳な瞬間に迫ってみました。
彼の思想の核心に触れる、重要な回です。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
夜が、更けていく。
虫の音だけが、静かに響いている。
松陰は、文机を離れ、縁側に立った。
ひやりとした夜気が、火照った身体に心地よかった。
見上げると、月は中天にかかっていた。
その冷たく澄み切った光が、瀬野の山々の稜線を黒々と浮かび上がらせている。
彼は、その静謐な光景に心を奪われた。
都の喧騒も、萩での葛藤も、そして江戸で自分を待つ過酷な運命さえも。
この雄大な自然の前では、すべてがちっぽけな人間の営みに思えてくる。
人は生まれ、そして死ぬ。
草木が芽吹き、そして枯れていくように。
それは、抗うことのできない天の理だ。
ならば、自分は何を恐れているのだろうか。
死ぬことは、怖くない。
自分の名が、歴史から忘れ去られることも怖くない。
ただ、一つ心残りがあるとすれば。
それは、この国が異国に蹂躙され、その気高い魂を失ってしまう未来。
それだけは、どうしても見たくなかった。
自分のささやかな命と引き換えに、この国の輝かしい未来が約束されるのなら。
喜んで、この首を差し出そう。
その時、彼の心は不思議なほど静かに凪いでいた。
死は、終わりではない。
蒔かれた種は、いつか必ず芽吹く。
自分の死が、門下生たちの魂の肥やしとなり、やがて日本という国に大きな花を咲かせるための一助となるならば。
それもまた、本望ではないか。
覚悟は、決まった。
彼は部屋に戻ると、再び筆をとった。
しかし、彼が書いたのはもはや家族への未練の言葉ではなかった。
自らが死んだ後、門下生たちがどう生きるべきか。
その道筋を示す、力強い言葉だった。
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留置まし 大和魂」
有名な、辞世の句である。
この句に、彼は自らのすべての想いを託した。
肉体は、滅びる。
しかし、この日本を想う魂だけは、永遠にこの国に留まり続けるのだ、と。
瀬野の、静かな夜。
その夜、一人の男は死を超越し、永遠の魂を手に入れた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
この「身はたとひ〜」の辞世の句は、松陰が江戸へ送られる道中、あるいはその直前に門下生たちに遺した『留魂録』という書物の中に記されています。彼の強烈な愛国心と、門下生への深い愛情が感じられる名句ですね。
さて、ついに覚悟を決めた松陰。
いよいよ彼が、この瀬野の地で漢詩を詠むその瞬間が訪れます。
次回、「月下に詠む」。
物語は、クライマックスを迎えます。
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