吉田松陰、一夜の漢詩 第2話:間宿「出見世」の灯
作者のかつをです。
第九章の第2話をお届けします。
今回は、吉田松陰の内面的な葛藤に深く迫ってみました。
死を前にした、一人の人間としての恐怖と無念。
そして、それを乗り越えようとする思想家としての強い意志。
その心の揺らぎを感じていただければ幸いです。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
今宵の宿と定められたのは、西国街道の本陣を務める山中家だった。
罪人とはいえ、護送は長州藩士の手で行われ、道中の扱いは思いのほか丁重だった。
立派な門構えの屋敷に通され、案内された部屋は清潔で、ほのかな墨の香りがした。
すぐに、温かい湯と食事が運ばれてくる。
「先生、何かご不自由はございませんか」
護送役の、若い藩士が案じるように問う。
松陰は、静かに首を振り、微笑んでみせた。
「何一つ。かたじけない」
その、あまりにも穏やかな態度が、逆に若い藩士の心を締め付けた。
この人は、本当に死を覚悟しているのだ、と。
食事を終え、一人になると、松陰は文机の前に静かに座った。
窓の外からは、虫の音が聞こえる。
昼間の街道の喧騒が嘘のように、宿場町は静まり返っていた。
彼は、筆をとった。
萩に残してきた父母、妹たち、そして松下村塾の塾生たち。
彼らに宛てた別れの書は、すでに道中で書き綴ってきている。
今宵は、ただこの胸に去来する様々な思いを、言葉にしておきたかった。
三十歳という若さで、死ぬことへの恐怖がないと言えば嘘になる。
しかし、それ以上に志半ばで倒れることへの無念さが、心を苛む。
日本の、あるべき姿。
天皇を中心とした、強く気高い国。
そのためには、今の腐敗した幕府を打ち倒さねばならない。
その燃えるような情熱が、自分をここまで駆り立ててきた。
しかし、その情熱は時にあまりにも過激で、現実から遊離していたのかもしれない。
老中暗殺計画。
今思えば、あまりにも無謀で稚拙な計画だった。
(俺は、道を間違えたのだろうか……)
その問いが、何度も何度も彼の心をよぎる。
もし、もっと穏やかなやり方があったのではないか。
もっと、多くの仲間と手を取り合う道があったのではないか。
後悔が、波のように押し寄せてくる。
しかし、彼はその波に飲み込まれまいと、必死で抗っていた。
(いや、違う。俺の信じた道は、間違ってはいない)
たとえこの身は滅びようとも、この「至誠」の心は必ず誰かが受け継いでくれるはずだ。
高杉が、久坂が、あの血気盛んな若者たちが、きっとこの国の新しい時代を切り拓いてくれる。
自分の死は、終わりではない。
彼らの魂に、火を灯すためのささやかな松明なのだ。
そう思うことで、彼はかろうじて心の均衡を保っていた。
窓の外、澄んだ夜空に月が静かに輝いている。
彼は、その清らかな光をただじっと見つめていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
松陰の思想の根幹には、「至誠にして動かざる者は、未だ之れ有らざるなり」という孟子の言葉がありました。誠を尽くせば、必ず人の心は動かせる、という彼の純粋でまっすぐな信念が、多くの若者たちを惹きつけたのです。
さて、自らの死の意味を問い続ける松陰。
瀬野での静かな夜が、彼の心にある「覚悟」をもたらします。
次回、「死の覚悟」。
物語は、クライマックスへと向かっていきます。
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