吉田松陰、一夜の漢詩 第1話:囚われ人の駕籠
作者のかつをです。
本日より、第九章「瀬野の月、松陰の影 ~吉田松陰、一夜の漢詩~」の連載を開始します。
今回の主役は、幕末の動乱期を駆け抜けた思想家、吉田松陰。
彼が、その最期の旅の道中、この瀬野の地で一夜を過ごしたという史実を基に、その胸の内に迫ります。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
広島市安芸区瀬野。かつて西国街道の間宿として栄えたこの土地に、幕末の志士・吉田松陰が、その短い生涯の最期に、一夜の宿を取ったという史実が残されている。
江戸の伝馬町牢屋敷へと送られる、囚われの身として。
これは、死を覚悟した一人の男が、瀬野の月を見上げ、何を思い、何を感じたのか。その、歴史の行間に埋もれた、一夜の心の軌跡を辿る物語である。
◇
安政六年(1859年)九月。
秋の日は、つるべ落とし。茜色に染まった西国街道を、一丁の駕籠が静かに進んでいた。
中の男は、吉田寅次郎――世に言う、吉田松陰である。
安政の大獄。
幕府の大老・井伊直弼による、苛烈な弾圧の嵐。
松陰もまた、幕政を批判し、老中暗殺を企てたとして罪人となった。
故郷・萩の野山獄から、江戸の牢屋敷へと送られる、長い長い旅の途中だった。
駕籠の狭い窓から見える景色は、ただゆっくりと後ろへ流れていくだけ。
もう、ひと月近く、この揺れに身を任せている。
(俺の志は、ここで潰えるのか……)
自問自答が、彼の胸を苛む。
日本の未来を憂い、身分の隔てなく若者たちに学問を教えた。
黒船の衝撃に、この国が目覚めることを願った。
しかし、現実はあまりにも非情だった。
志は藩に聞き入れられず、計画は水泡に帰した。
そして今、自分は罪人として死地へと向かっている。
おそらく、二度と萩の土を踏むことはあるまい。
松下村塾の、塾生たちの顔が次々と脳裏に浮かぶ。
血気盛んな、高杉は。
怜悧な頭脳を持つ、久坂は。
あの若者たちは、この国の未来を正しく導いてくれるだろうか。
彼らに、もっと多くのことを伝えたかった。
自分の言葉は、果たして彼らの魂に届いているのだろうか。
駕籠の揺れが、ふと止まった。
「……着きました」
供の者の、低い声が聞こえる。
松陰は、ゆっくりと目を開けた。
西国街道が、難所・大山峠を控える間宿「出見世」。
今宵の宿に、着いたのだ。
駕籠の戸が開けられ、秋の冷たい空気が彼の頬を撫でた。
見上げると、澄んだ夕闇の中に刃のように鋭い三日月が、白く浮かんでいた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
第九章、第一話いかがでしたでしょうか。
安政の大獄で捕らえられた松陰が、江戸へ護送されたのは、数え年で三十歳の時でした。まさに、これからという時の、あまりにも早すぎる悲劇でした。
さて、囚われの身として瀬野の宿場に降り立った松陰。
彼は、この地で何を思うのでしょうか。
次回、「間宿『出見世』の灯」。
歴史の喧騒から離れた、静かな夜が彼を包みます。
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