広島藩御用達・瀬野の油搾り 第7話:せせらぎに消えた音(終)
作者のかつをです。
第八章の最終話です。
時代の変化と共に、失われていく一つの風景。
しかし、その場所にあった人々の営みの「記憶」は形を変えて、確かに次の世代へと受け継がれていく。
そんな静かな希望と共に物語を締めくくりました。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
父を、弔った後。
正吉は、一人で仕事場の後片付けをしていた。
もう、誰も使うことのない油船や臼を、隅へと片付けていく。
その一つ一つに、父と、そしてそのまた父である祖父の代からの、汗と油が深く染み込んでいる。
それらを、ただのガラクタとして処分してしまうことが、彼にはどうしてもできなかった。
彼は、ふと仕事場の隅に小さな木箱が置かれているのに気づいた。
開けてみると、中には父が若い頃に使っていたのであろう、小さな手彫りの水車の模型が入っていた。
精巧に作られたその小さな水車は、指で弾くとカラカラと可愛らしい音を立てて回った。
正吉は、その木箱を大切に懐にしまった。
彼は、油屋を継がなかった。
父の言いつけ通り、彼は百姓としてこの瀬野の地で生きていくことを選んだのだ。
何十年という、歳月が流れた。
正吉もすっかり年老い、可愛い孫に囲まれて穏やかな隠居生活を送っていた。
かつて油屋があった場所は、今では青々とした稲が育つただの田んぼに戻っていた。
ある晴れた日の縁側。
正吉は、孫の小さな男の子にあの木箱を見せていた。
「じいちゃん、これ、なあに?」
「これはな、昔この村にあった水車というもんじゃよ。川の水でぐるぐる回ってな、夜の灯りになる油を作っていたんじゃ」
正吉は、昔を懐かしむようにゆっくりと語り始めた。
父のこと、水車の音のこと、そして自分たちが作っていた油が広島で一番だと言われていたこと。
孫は、目を輝かせながらその話に聞き入っていた。
「じいちゃん、その水車の音、聞いてみたいなあ」
その無邪気な一言に、正吉はふっと笑った。
「そうじゃのう。もう、聞くことはできん音じゃ」
そう言って、彼は孫の頭を優しく撫でた。
水車の音は、もうない。
油の香ばしい香りも、もうない。
しかし、父が、そしてご先祖様たちがこの土地で誠実にものづくりと向き合ってきた、その「心」だけは確かに自分の中に、そしてこの孫の中に受け継がれていくのかもしれない。
そう、思えた。
◇
……現代。瀬野川のほとり。
川辺には公園が整備され、子供たちの楽しそうな声が響いている。
かつて水車があった面影は、どこにもない。
しかし、もしあなたがその川のせせらぎに静かに耳を澄ませば。
聞こえてくるかもしれない。
遠い江戸の昔、この場所で休むことなく回り続け、人々の暮らしを灯し続けた巨大な水車の、力強いあの音が。
(第八章:水車の音は消えず 了)
第八章「水車の音は消えず」を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
瀬野川沿いには、油搾りだけでなく米を搗くための「米搗き水車」なども数多く存在していたそうです。まさに、川の恵みが人々の暮らしを豊かにしていたのですね。
さて、穏やかな職人の物語でした。
次なる物語は、時代が大きく動く幕末へと舞台を移します。
次回から、新章が始まります。
**第九章:瀬野の月、松陰の影 ~吉田松陰、一夜の漢詩~**
日本を変えようとした男、吉田松陰。
彼がその志半ばで、囚われの身となってこの瀬野の地を訪れていました。
歴史のifに迫る物語です。
引き続き、この壮大な郷土史の旅にお付き合いいただけると嬉しいです。
ブックマークや評価で応援していただけると、第九章の執筆も頑張れます!
それでは、また新たな物語でお会いしましょう。




