広島藩御用達・瀬野の油搾り 第1話:瀬野川の水車
作者のかつをです。
本日より、第八章「水車の音は消えず ~広島藩御用達・瀬野の油搾り~」の連載を開始します。
今回の主役は、江戸時代、瀬野川の水力を利用して、暮らしの灯りである「油」を作っていた職人たちです。
父から子へ、受け継がれていく技と、時代の変化。
一人の若者の、心の成長を通じて、失われた瀬野の原風景を描いていきます。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
広島市安芸区を流れる、瀬野川。
その穏やかな流れのほとりには、かつていくつもの水車がゆっくりと回り、人々の暮らしを支えていたという。
米を搗き、粉を挽き、そして夜の闇を照らす「灯り」を生み出していた。
これは、瀬野川の水音と共に生き、その恵みである「油」を作り続けた、名もなき職人たちの物語である。
◇
文化文政の世。世の中が、爛熟した町人文化に沸いていた頃。
瀬野の郷は、まだのどかな田園風景が広がる、静かな場所だった。
しかし、その瀬野川の岸辺に、昼夜を問わずゴットン、ゴットンと力強い音を響かせる一角があった。
油搾り職人、吉兵衛の仕事場である。
彼の仕事は、川の流れを見つめることから始まる。
「よし、今日の水の勢いなら、上出来だ」
瀬野川から引き込まれた水が、巨大な水車をゆっくりと、しかし確実に回していく。
その力が太い杵を力強く持ち上げては、落とす。
臼の中には、菜種が。
何度も何度も搗き砕かれ、やがて香ばしい香りを放つ黄金色の液体――菜種油――へと姿を変えていくのだ。
吉兵衛は、この仕事に誇りを持っていた。
自分たちが作る油がなければ、夜、人々は書物を読むことも針仕事をすることもできない。
自分たちがこの村の、そして広島城下の夜を灯しているのだ。
その自負が、彼を支えていた。
彼の息子、正吉は、そんな父の背中を少し離れた場所からじっと見つめていた。
齢、十五。彼もまた、いずれこの水車を継ぐ運命にあった。
しかし、彼の心は複雑だった。
父の仕事は尊敬している。
だが、この毎日毎日変わることのない単調な日々に、時折息が詰まりそうになるのだ。
川の流れ、水車の音、油の匂い。
そのあまりにも穏やかで、閉ざされた世界。
(俺の人生も、この水車のように同じ場所をぐるぐると回り続けるだけなのだろうか……)
外の世界への漠然とした憧れ。
まだ見ぬ城下の賑わい。書物でしか知らない江戸や、京の都。
そんな思いが、彼の心をかすかに揺さぶっていた。
水車は、今日も変わらないリズムで回り続ける。
その音は、正吉の耳には父が守る伝統の響きであると同時に、自分をこの土地に縛り付ける運命の音のようにも聞こえるのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
第八章、第一話いかがでしたでしょうか。
江戸時代、菜種油は照明用として最も一般的に使われる重要な生活必需品でした。瀬野川の豊かな水量は、水車を使った製油業に非常に適していたと言われています。
さて、父の仕事に複雑な思いを抱く、若き正吉。
そんな彼に、父はこの仕事の「魂」を教えようとします。
次回、「秘伝の製法」。
油搾りの奥深い世界が明かされます。
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