磐座の巫女と東からの旅人 第5話:背の地、勢の地
作者のかつをです。
第一章の第5話です。
物語のクライマックス。
ついに、「瀬野」という地名の由来になったとされる、二つの伝説が語られます。
一人の旅人が、この土地に与えた「名」の物語です。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
幾日かが過ぎ、イツセの腕の傷は、すっかり癒えた。
彼の仲間たちもまた、村人たちの温かいもてなしを受け、長旅の疲れを取り、その顔には生気が戻っていた。
旅立ちの前夜。
イツセは、ヒナタを、磐座の下へと呼び出した。
満月が、巨大な岩肌を青白く照らし、周囲には虫の音が静かに響いている。
「巫女殿。この度の恩、生涯、忘れぬ」
イツセは、深々と、頭を下げた。
その表情には、ここへ来た時のような悲壮感はなく、未来を見据える力強い決意だけがみなぎっていた。
「最初にここへ来た時、私は、この地を『背の地』と呼んだ」
イツセは、天を仰ぎ、静かに語り始めた。
「敵に、背を向け、敗走してきた場所。これ以上進めず、しばし羽を休めるためだけの、後ろ向きの土地。正直に言えば、そう、思っていた。我らの旅も、ここまでかと…」
ヒナタは、黙って、その言葉を聞いていた。彼の声には、敗者の屈辱が滲んでいた。
「だが、それは間違いだった」
イツセは、顔を上げ、ヒナタを真っ直ぐに見つめた。その瞳は、月の光を反射して、強く輝いていた。
「ここは、ただ傷を癒す場所ではない。お前たちの温かい心と、この土地の力のおかげで、我々は、再び立ち上がり、前へ進むための、大きな力を得ることができた。仲間たちの目に、再び闘志の火が灯った。我らにとって、ここは、希望への『勢の地』となったのだ」
勢の地――セノチ。
その力強い響きが、ヒナタの胸に、温かく染み渡った。
自分の下した決断が、この人々の心を救った。その事実が、彼女に、巫女としての、そして一人の人間としての、静かな誇りを与えてくれた。
「いつか、我らが夢を成し遂げたなら、必ずや、この恩に報いよう。そして、この『勢の地』の名を、後世に語り継いでいこう。我らが、絶望の淵から、再起を誓った、始まりの場所として」
それは、イツセが、この土地と、ヒナタに贈る、最大級の賛辞だった。
敵に背を向けた場所が、勢いを盛り返す場所へと変わる。
「瀬野」という地名に込められた二つの意味が、今、この瞬間に一つになったのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
「背」「勢」という二つの由来伝説は、実際に、瀬野の郷土史に伝えられています。この物語では、その二つを、イツセの心境の変化として、ドラマチックに描いてみました。
さて、土地に、新たな名を与え、再起を誓ったイツセ。
いよいよ、別れの時が迫ります。
次回、「東への旅立ち」。
彼らの未来に、何が待ち受けるのか。そして、残されたヒナタは。
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