間宿「出見世」の茶屋看板娘 第4話:訳ありの浪人
作者のかつをです。
第七章の第4話をお届けします。
今回は、街道を行き交う様々な人生の「影」の部分に光を当ててみました。
誰もが、人には言えぬ物語を背負って生きている。
そんな人生の哀愁を、感じていただければ幸いです。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
冷たい雨がしとしとと降り続く、ある日の午後。
茶屋の客足もぱったりと途絶え、おはなは店先でぼんやりと雨に煙る街道を眺めていた。
その時、一人の男が雨を避けるように、店の軒先へと駆け込んできた。
身なりは、みすぼらしい浪人風。
顔には深い笠をかぶり、その表情を窺い知ることはできない。
ただ、その肩は雨に濡れ、寒そうに小さく震えていた。
「……あの、旦那様。中へどうぞ。火で、お身体を温めてくださいな」
おはなが声をかけると、男は少し驚いたように顔を上げた。
笠の隙間から見えたその目は、まるで手負いの獣のように鋭く、そしてどこか悲しげだった。
男は何も言わずに店に入ると、一番隅の席に腰を下ろした。
そして、ただ黙って湯呑の茶をすすっている。
その背中からは、「誰も、俺に構うな」という人を寄せ付けない冷たい空気が漂っていた。
おはなは、少し怖かった。
父の源助も何かを察したのか、黙って厨房で自分の仕事に徹している。
気まずい沈黙が、店の中を支配していた、その時だった。
一匹の痩せた野良猫が、雨を避けて店の土間へと迷い込んできた。
そして、浪人の足元でか細い声で、ミャアと鳴いた。
おはなは、追い払おうと腰を上げた。
しかし、それよりも早く浪人が動いた。
彼は懐から小さな魚の干物を取り出すと、その身を細かくほぐし、猫の前にそっと置いたのだ。
猫は、夢中でその干物に食らいついた。
浪人はその姿を、優しい慈しむような目で見つめていた。
その横顔は、先ほどまでの人を寄せ付けない雰囲気とはまるで別人のようだった。
おはなは、その光景を柱の陰からじっと見ていた。
この人にも、きっと何か守りたいものがあったのだろう。
そして、それを守れなかった深い悲しみを、背負っているのかもしれない。
やがて、雨が上がった。
浪人は黙って勘定を置くと、何も言わずに店を出ていった。
おはなは、その後ろ姿を見送った。
彼の旅がどこへ続くのか、知る由もない。
しかし、その背中が先ほどよりもほんの少しだけ温かく見えたのは、気のせいではなかっただろう。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
江戸時代、主家を失った「浪人」は数多く存在しました。彼らの多くは再仕官の道を求めて、諸国を流浪したと言われています。この物語の浪人も、そんな一人だったのかもしれません。
さて、穏やかな日常が続く出見世の茶屋。
しかし、遠い江戸の海から時代の嵐がすぐそこまで迫っていました。
次回、「黒船の噂」。
おはなの耳にも、不穏な報せが届き始めます。
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