間宿「出見世」の茶屋看板娘 第3話:お伊勢参りの老人
作者のかつをです。
第七章の第3話、お楽しみいただけましたでしょうか。
今回は、武士の世界とは対照的な、江戸時代の庶民の大きな夢であった「お伊勢参り」に光を当てました。
名もなき人々の、ささやかな祈りの姿を感じていただければ幸いです。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
大名行列の興奮がまだ冷めやらぬ、数日後のこと。
一組の年老いた夫婦が、茶屋の前で足を止めた。
背中には小さな風呂敷包みを背負い、その手にはすり減った木の杖。
一目で、長い長い旅の途中であることがわかった。
「お嬢さん、茶を一杯もらえんかのう」
老人のしわがれた声に、おはなは笑顔で応えた。
「はい、どうぞ。遠い所から、お疲れ様でございます」
おはなが差し出した茶を、夫婦は実に美味そうにすすった。
その喉の動き一つにも、旅の渇きと安堵の色が滲み出ていた。
「どちらまで、おいでなされなさるのですか?」
おはなの問いに、老婆の方が少し照れたように答えた。
「お伊勢様に、お参りに行くのですよ。生まれて初めての、お伊勢参りでございます」
江戸の小さな村から、何ヶ月もかけて歩いてきたのだという。
「一生に一度は、お伊勢参り」。
それは、当時の庶民にとって最大の夢であり娯楽だった。
老夫婦は、目を輝かせながら旅の道中の話を、おはなに聞かせてくれた。
初めて見る富士の山の雄大な姿。
京の都の華やかさ。
そして、道中で出会った親切な人々との温かい交流。
その話は、おはなにとってまるでおとぎ話のように聞こえた。
自分は、この茶屋から一歩も出たことがない。
この道の先に、そんなきらびやかで心躍るような世界が広がっているのか。
「あんたも、いつか行くといい。お伊勢様は誰でも、優しく迎えてくださるからのう」
老人はそう言うと、懐から小さな木の札を取り出した。
「これは、道中のお守りだ。あんたにあげよう。達者でな」
そう言って、夫婦は再び杖を頼りにゆっくりと歩き始めた。
その小さな背中は、決して力強くはなかった。
しかし、そこには確かな希望と揺るぎない信仰の光が満ちあふれていた。
おはなは、手の中に残された木の札を強く握りしめた。
その、ざらりとした感触が不思議と温かかった。
大名行列のような華やかさはない。
しかし、あの夫婦の旅もまたこの道が繋ぐ、尊い一つの人生なのだ。
おはなは、その日改めてそう思った。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
江戸時代、「伊勢講」という村ごとにお金を積み立てて代表者がお伊勢参りに行く、というシステムが全国的に普及しました。それほど、お伊勢参りは人々にとって特別な旅だったのです。
さて、華やかな大名、信心深い庶民。様々な人々が行き交う中に、ある日少し影のある男が現れます。
次回、「訳ありの浪人」。
おはなは、彼の背中に何を⾒るのでしょうか。
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