西国街道・大山峠と瀬野馬子唄 第8話:別れの峠
作者のかつをです。
第六章の第8話をお届けします。
今回は、清太と愛馬・黒王との悲しい別れを描きました。
生きるための苦渋の決断。
馬子が、馬子でなくなる時。そんな、彼の人生の大きな転換点です。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
お妙が嫁いでいってから、清太は抜け殻のようになっていた。
峠を越えても、もうあの茶屋に寄ることはない。
楽しみを失った峠道は、ただひたすらに辛く厳しいだけの場所に戻ってしまった。
そして、追い打ちをかけるように黒王の衰えは誰の目にも明らかになっていた。
もはや荷を運ぶことはおろか、峠を越えることさえままならなくなっていたのだ。
父が、清太に静かに告げた。
「清太。もう、潮時だ。黒王を、手放そう」
馬喰に売れば、わずかな金にはなる。
その金で、新しい若い馬を買う足しにするしかない。
それが、馬子として生きていくための唯一の道だった。
清太は、何も言い返せなかった。
それが、最も正しい判断であることはわかっていたからだ。
数日後。
清太は、黒王を連れて最後の峠越えに向かった。
八本松の宿場にいる、馬喰の元へ連れていくためだ。
その日の黒王は、不思議なほど足取りが軽かった。
まるで最後の務めを理解しているかのように、一度も立ち止まることなく峠の頂上まで登りきった。
頂上で、清太は足を止めた。
眼下には、自分が生まれ育った瀬野の郷が広がっている。
「黒王……」
清太は、黒王の首筋に顔をうずめた。
物心ついた時から、いつも自分の隣にはこの馬がいた。
嬉しい時も悲しい時も、この温かい身体が自分を支えてくれていた。
「……すまねえ。俺が、ふがいないばかりに……」
涙が、あとからあとからあふれ出てきた。
黒王は、何も言わずにただじっとその涙を受け止めていた。
どれだけの時間が経っただろうか。
清太は、顔を上げた。
そして、黒王の手綱を解いた。
「行け、黒王」
彼は、黒王の尻を力いっぱい叩いた。
「行け! どこへでも好きな所へ行くんだ! もうお前は荷を運ばなくていい。誰かを乗せなくていい。自由に生きろ!」
黒王は、驚いたように主の顔を一度だけ振り返った。
そして、ゆっくりと向きを変えると、峠の向こう側へと駆け出していった。
二度と、振り返ることはなかった。
清太は、その姿が見えなくなるまで、ただじっと立ち尽くしていた。
彼は、馬子であることをやめた。
かけがえのない相棒を、金に変えることだけはどうしてもできなかったのだ。
彼の、馬子としての人生が終わった瞬間だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
年老いた役馬のその後の運命は、様々でした。多くは食肉用や皮革用として売られていったと言われています。清太の決断は、馬への最後の愛情だったのかもしれません。
さて、すべてを失った清太。
彼の人生と彼が生み出した唄は、どこへ向かうのでしょうか。
次回、「唄だけが残った(終)」。
第六章、感動の最終話です。
物語は佳境です。ぜひ最後までお付き合いください。




