西国街道・大山峠と瀬野馬子唄 第7話:届かぬ想い
作者のかつをです。
第六章の第7話です。
今回は、主人公・清太の淡い恋の結末を描きました。
叶わぬ恋と、それでも通い合っていた心の繋がり。
そんな切ない人間模様を感じていただければ幸いです。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
その日、峠の茶屋はいつもより少しだけ華やいだ空気に包まれていた。
お妙が、結納を交わしたという噂が旅人たちの間で囁かれていたからだ。
相手は、八本松の宿場の大きな呉服屋の若旦那だという。
人柄も良く、羽振りも良いと評判の男だった。
清太は、その噂を茶屋の隅で黙って聞いていた。
心臓が、まるで氷の塊になったかのように冷えていくのを感じた。
(そうか……。そうだよな)
わかっていたことだ。
自分のような貧乏馬子と彼女とでは、住む世界が違う。
彼女が幸せになるのなら、それでいいじゃないか。
頭では、そう思おうとした。
しかし、心は正直だった。
胸が、張り裂けるように痛かった。
そんな彼の元に、お妙がお盆を持ってやってきた。
その顔は、いつもより少しだけ赤いように見えた。
「清太さん……。その、噂は本当です。私、嫁に行くことになりました」
お妙の声は、蚊の鳴くようだった。
清太は、何も言えなかった。
どんな言葉を返せばいいのかわからなかった。
ただ、「おめでとう」と一言だけ絞り出すのが精一杯だった。
お妙は、そんな清太の顔を悲しそうに見つめていた。
そして、小さな声で言った。
「私……。いつも楽しみにしてたんです。清太さんが峠を越えてここへ来てくれるのを。そして、あの物悲しい素敵な唄を聞かせてくれるのを」
その思わぬ言葉に、清太ははっとした。
彼女は、聞いていてくれたのだ。
自分の、あの誰にも届かないと思っていた独り言のような唄を。
「あの唄を、もう一度聞かせてもらえませんか。最後に、もう一度だけでいいから」
お妙の瞳が、涙で潤んでいた。
清太は、こみ上げてくる感情を必死でこらえた。
そして、震える声で歌い始めた。
「峠越えりゃ 茶屋が見える……」
その日の唄は、いつもよりひときわ物悲しく、そして切なく茶屋の中に響き渡った。
それは、彼の初恋の終わりを告げる鎮魂歌のようだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
身分違いの恋は、江戸時代の物語の定番の一つです。そこには、封建社会の厳しく、そして切ない現実が反映されています。
さて、恋に破れた清太。
そして、彼の愛馬、黒王の運命もまた最後の時を迎えようとしていました。
次回、「別れの峠」。
清太は、大きな決断を迫られます。
物語は佳境です。ぜひ最後までお付き合いください。




