西国街道・大山峠と瀬野馬子唄 第5話:口ずさむ旋律
作者のかつをです。
第六章の第5話をお届けします。
今回は、物語のもう一つの主役である「瀬野馬子唄」が、いかにして生まれたのか、その原初の瞬間を創作してみました。
唄は、人々の言葉にならない想いから生まれるのかもしれませんね。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
茶屋で、束の間の休息を取った後。
清太は、再び黒王の手綱を曳き、帰路についた。
日は、すでに西の山に傾きかけている。
峠道は、行きよりも帰りの方が寂しかった。
荷を降ろし、身軽になったはずなのに、心は鉛のように重い。
源爺の言葉が、何度も頭の中で反響する。
(そろそろ、楽にさせてやる時期……)
わかっている。
黒王を、これ以上無理やり働かせるのは酷だ。
だが、黒王がいなければ、自分は……。
ぐるぐると、同じ思考が堂々巡りをする。
答えの出ない、問い。
そして、お妙のあの心配そうな顔。
彼女は、自分のことをどう思っているのだろうか。
ただの哀れな貧乏馬子だと、思っているだけだろうか。
夕暮れの、薄暗い峠道。
聞こえるのは、自分の足音と黒王の疲れた息遣いだけ。
そのあまりの静けさが、彼の孤独感をさらに増幅させた。
その時だった。
彼の口から、無意識のうちに一つの旋律が漏れ始めたのは。
それは、まだ歌詞にもなっていない、ただのハミングのようなものだった。
即興で、その場の物悲しい気持ちを、ただ音に乗せただけのもの。
しかし、不思議なことだった。
声を出すと、ほんの少しだけ心が軽くなるような気がした。
歩く足取りも、ほんの少しだけ力強くなるような気がした。
彼のハミングに合わせて、黒王の歩くリズムもどこか安定してきたように感じられた。
(唄……か)
馬子仲間の中には、馬を曳きながら大声で故郷の民謡を歌う者もいた。
辛い仕事の気を紛らわせるため。
そして、馬のリズムを整えるため。
しかし、清太が今口ずさんでいるのは、そんな陽気な唄ではなかった。
もっと切なく、哀愁を帯びた旋律。
この辛い仕事のこと。
老いた黒王のこと。
そして、決して届くことのないお妙への恋心。
そんな、誰にも言えない胸の内のやるせない思いが、自然と音になってあふれ出てきたのだ。
彼は、誰に聞かせるともなく、その名もなき旋律を繰り返し繰り返し口ずさみながら、夕闇が迫る峠道を下っていった。
それは、やがて「瀬野馬子唄」と呼ばれることになる、哀切な唄のささやかな産声だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
労働歌は、世界中のあらゆる場所に存在します。辛い労働のリズムを整え、仲間との連帯感を生み、そして心を鼓舞する。唄は、人々にとって生きるための重要な知恵だったのです。
さて、無意識のうちに唄の原型を生み出した清太。
その名もなき旋律が、やがて多くの人々の心を動かしていくことになります。
次回、「馬子唄の誕生」。
彼の唄が、一つの「文化」へと昇華する瞬間です。
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