空海が見た谷 第6話:夜明けの悟り(終)
作者のかつをです。
第五章の最終話です。
若き空海が、この谷での体験を経ていかにしてその後の偉大な道を歩み始めたのか。
そして、その記憶が現代の私たちとどう繋がっているのか。
壮大な歴史のロマンを感じていただけたら幸いです。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
龍神との対話を終え、真魚は谷を後にした。
彼の足取りは、ここへ来た時とは比べものにならないほど軽く、そして力強かった。
彼は、もう迷わない。
進むべき道は、はっきりと見えている。
彼はこの後、都へと戻り、そして当時世界の文化の最先端であった唐の国へと渡ることを決意する。
そこで密教の真髄を学び、それをこの日本に持ち帰るのだ。
すべては、苦しむ人々を救うというただ一つの目的のために。
彼が、弥山谷の入り口で一度だけ振り返った。
朝日が谷を黄金色に染め上げていた。
木々の葉が、岩肌が、そして川面が、まるで仏の光を浴びたかのように神々しく輝いている。
彼は、その光景を生涯忘れることはなかった。
この谷で、彼はすべてを得たのだ。
迷いを断ち切る覚悟を。
人々を救うという使命を。
そして森羅万象あらゆるものの中に、仏は宿るのだという揺るぎない確信を。
彼はこの谷に深く一礼した。
そして、二度と振り返ることはなかった。
彼の前にはどこまでも道が続いていたからだ。
◇
……現代。弥山谷。
ハイキングコースを、一人の若者が歩いている。
彼は滝壺のほとりで足を止め、その美しい景色に見入っていた。
彼は、知らない。
今自分が立っているこの場所に、千二百年以上も前に一人の若き天才が同じように立っていたということを。
彼が人生の迷いを乗り越え、そして世界を変えるほどの大きな使命をその胸に抱いたという、その事実を。
歴史は書物の中だけにあるのではない。
私たちが何気なく歩くこの小道の上に、この谷川のせせらぎの中に、確かに息づいているのだ。
若者は大きく深呼吸をした。
澄んだ空気が胸いっぱいに満ちていく。
明日からまた頑張ろう。
そんなささやかな力が、湧いてくるのを感じた。
それは、もしかしたら千二百年の時を超えて、この谷に宿る若き天才の力強い祈りの名残なのかもしれない。
(第五章:空海が見た谷 了)
第五章「空海が見た谷」を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
空海は、この後、遣唐使として唐に渡り密教の正統な後継者として膨大な経典と共に日本に帰国します。そして高野山に金剛峯寺を開き、真言宗の開祖となりました。
さて、神秘的な伝説の時代から、物語は再び人々の暮らしの息遣いが聞こえる江戸時代へと移ります。
次回から、新章が始まります。
**第六章:俺の唄が聞こえるか ~西国街道・大山峠と瀬野馬子唄~**
西国街道一の難所と呼ばれた峠道で、旅人を運び、そして唄を歌った馬子たちの物語です。
彼らの汗と涙、そして恋。その哀愁にご期待ください。
引き続き、この壮大な郷土史の旅にお付き合いいただけると嬉しいです。
ブックマークや評価で応援していただけると、第六章の執筆も頑張れます!
それでは、また新たな物語でお会いしましょう。




