空海が見た谷 第4話:岩窟の護摩
作者のかつをです。
第五章の第4話をお届けします。
今回は、物語のクライマックスの一つ、「護摩焚き」の場面を幻想的に描きました。
炎と向き合い祈りを捧げる中で、主人公が自らの使命を見出していく。
そんな彼の力強い決意を感じていただければ幸いです。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
迷いが晴れた真魚の顔には、以前のような悲壮な苦悩の色はなかった。
そこにあるのは、澄み切った湖面のような静かな覚悟だけだった。
彼はこの谷への、そして自分を導いてくれた名もなき老人への感謝を形にしたいと思った。
そしてこの地で得たささやかな悟りを、仏への祈りに変えたいと願った。
彼は、滝の裏手にある小さな岩窟を見つけた。
そこを即席の祭壇とすることにした。
何日もかけて、彼は儀式の準備を整えた。
乾いた薪を集め、祭壇の中央に円形に積み上げる。
森で採れた香りの良い木の葉や木の実を、供物として捧げる。
そして、すべての準備が整った月夜の晩。
彼は岩窟の中で静かに火打石を打った。
散った火花が乾いた木々に燃え移り、やがてパチパチという音と共に勢いよく燃え上がった。
「護摩焚き」の始まりである。
彼は、炎の前で経を唱え始めた。
その声は、もはや迷いを帯びてはいない。
力強く、そして慈愛に満ちた響きが、谷間に朗々と響き渡る。
炎は、彼の声に応えるかのように激しく天へと燃え上がった。
岩窟の壁に、揺らめく炎の影がまるで生きているかのように踊っている。
彼は、炎の中に見た。
人々の苦しむ姿を。
病に倒れる者、飢えに苦しむ者、そして欲望の業火に身を焼かれる者。
そのすべての苦しみを、この炎が焼き尽くし浄化していくようだった。
彼は、祈った。
すべての人々が、すべての生きとし生けるものが安らかであれ、と。
このささやかな祈りの炎が、いつか世を照らす大きな光となりますように、と。
どれだけの時間が経っただろうか。
夜が明け、炎が静かに鎮まった頃。
彼の全身は汗と煤で真っ黒になっていた。
しかし、その心は今までにないほどの清々しい喜びに満たされていた。
彼は、この谷でようやく自分の進むべき道を見つけたのだ。
山にこもり、ただ自分の悟りのためだけに修行をするのではない。
この祈りの炎を、苦しむ人々の元へと届けること。
それこそが自分が生涯をかけて為すべきことなのだ、と。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
護摩は、密教における最も重要な儀式の一つです。炎を仏の口と見立て、そこに人々の煩悩や願いを投げ入れることで、それらを浄化し成就させるとされています。
さて、自らの使命を見出し谷を去る決意をした真魚。
しかし、彼が谷を去る前にこの谷の「主」がその姿を現します。
次回、「龍神との対話」。
物語はクライマックスを迎えます。
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