空海が見た谷 第3話:谷川の導き
作者のかつをです。
第五章の第3話、お楽しみいただけましたでしょうか。
今回は、若き空海が迷いを乗り越え、一つの「悟り」に近づくその精神的なプロセスを描きました。
不思議な老人との出会いが、彼の運命を大きく動かします。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
老人の後をついていくと、やがて小さな炭焼き小屋が見えてきた。
中ではパチパチと心地よい音を立てて、火が燃えている。
その温かさに、真魚の凍えていた心と身体はゆっくりと解きほぐされていった。
老人は多くを語らなかった。
ただ焼いた芋と、木の器に入れた温かい白湯を彼に差し出した。
その素朴な味わいが、彼の空っぽの胃の腑にじんわりと染み渡る。
「若いの、お主の顔には深い『迷い』が見える」
老人は火を見つめながら、静かに言った。
「書物も修行も、それだけでは足りぬ。答えはお主の外にはない。お主の内にあるのじゃからな」
その言葉は、まるで彼の心の中をすべて見透かしているかのようだった。
真魚は何も言い返せなかった。
夜が明け、真魚が目を覚ますと、そこに老人の姿はなかった。
ただ囲炉裏の火が、静かに燃え残っているだけ。
まるで、すべてが夢であったかのようだった。
しかし、彼の心は不思議なほど軽くなっていた。
老人の言葉が暗い森を照らす松明のように、彼の進むべき道を示してくれている気がした。
(答えは、俺の内に……)
彼は炭焼き小屋を後にした。
不思議なことに、あれほど迷った森の道が今ははっきりとわかる。
彼は迷うことなく、あの美しい滝壺へと戻ることができた。
彼は改めて、滝壺の前に立った。
そして自分自身の内側へと、深く深く潜っていく。
これまでの人生で学んできた儒教も道教も仏教も、そのすべての知識を一度空っぽにする。
そして、ただ感じる。
水の音を。風の匂いを。岩の冷たさを。
自分とこの大自然とが一体となっていくような、不思議な感覚。
その時だった。
彼の耳に、声が聞こえた。
それは老人の声でも、ましてや神仏の声でもない。
それはこの谷そのものが発する声なき声。
あるいは彼自身の魂の奥底から響いてくる、声だったのかもしれない。
「あるがままを、受け入れよ」
その声に、彼の全身が打ち震えた。
涙が、とめどなく頬を伝う。
長かった迷いの森のその先に、確かな出口の光が見えた瞬間だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
空海の思想の根幹には、「即身成仏」――すなわち、この身このままで誰もが仏になれるという考え方があります。今回の物語で彼が得た「答えは、内にある」という気づきは、その思想の原点とも言えるかもしれません。
さて、迷いを振り払った真魚。
彼はこの谷で、ある特別な儀式を執り行うことを決意します。
次回、「岩窟の護摩」。
谷に、祈りの炎が灯されます。
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