空海が見た谷 第2話:迷いの森
作者のかつをです。
第五章の第2話をお届けします。
今回は、若き空海の、内面的な葛藤を描きました。
どんな偉人にも、迷い苦しんだ冬の時代があったはずです。
そんな彼の人間的な側面に、光を当ててみました。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
真魚は、その谷に小さな庵を結び、修行の日々を始めた。
朝は冷たい滝の水で身を清める。
昼は森に入り、木の実や草の根を食み命を繋ぐ。
そして夜は月明かりの下で、ひたすらに経を唱え座禅を組む。
俗世との関わりを完全に断ち切った、孤独な日々。
しかし、彼の心は晴れなかった。
むしろ修行を積めば積むほど、心の闇は深く濃くなっていくようだった。
(俺は、何をやっているのだ……)
自問自答が、彼を苛む。
こんな山奥で独りよがりの修行をして、何になるというのか。
都では人々が病に苦しみ、貧困に喘ぎ、そして醜い権力争いに明け暮れている。
その現実の苦しみから、自分はただ目を背けているだけではないのか。
書物を捨て、山に入った。
しかし結局、自分はまだ答えを見つけられていない。
それどころか、自分が進むべき道さえも見失いかけていた。
彼の心は、出口のない暗い森の中をさまよっているかのようだった。
ある日の午後。
彼はいつものように食料を探して、森の奥深くへと足を踏み入れた。
しかしその日はどういうわけか、方角を見失ってしまった。
気づくとそこは、見たこともない木々が鬱蒼と生い茂る昼なお暗い場所だった。
焦りが、彼の心を支配する。
進めど進めど景色は変わらない。
まるで森そのものが、彼を拒絶しているかのようだった。
疲れ果て、彼は巨大な木の根元にへたり込んだ。
空腹と疲労で、意識が朦朧としてくる。
(俺は、ここで死ぬのか……)
諦めが心をよぎった、その時だった。
どこからともなく、一人のみすぼらしい身なりの老人が現れた。
手には一本の杖。その顔には深い皺が刻まれているが、瞳だけが子供のように澄んでいた。
「若いの、道に迷ったか」
老人は、優しい声で語りかけた。
真魚は驚いて身を起こした。
「……あなたは?」
老人はにこりと笑って答えた。
「わしか。わしは、この山のただの炭焼きよ。さあ、こっちへ来なされ。火でもあたっていくといい」
老人はそう言うと、杖を頼りにゆっくりと歩き始めた。
その頼りない後ろ姿を、真魚はまるで何かに憑かれたようにふらふらと追いかけていった。
この出会いが彼の運命を大きく変えることになるとは、まだ知らずに。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
空海は、その超人的なイメージとは裏腹に、多くの苦悩や挫折を経験した人物だったと言われています。そうした人間的な葛藤こそが、彼の思想をより深いものにしていったのかもしれません。
さて、迷いの森で不思議な老人と出会った真魚。
この老人は一体、何者なのでしょうか。
次回、「谷川の導き」。
老人は真魚を、ある場所へと導きます。
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