空海が見た谷 第1話:若き日の僧
作者のかつをです。
本日より、第五章「空海が見た谷 ~弥山谷の護摩と龍の伝説~」の連載を開始します。
これまでの、血なまぐさい戦国時代から少し趣向を変えて、若き日の空海を主人公とした、幻想的な物語をお届けします。
彼が、この瀬ноの地で、何を感じたのか。その、精神世界の旅にご期待ください。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
広島市安芸区瀬野。その北部に、瀬野川へと注ぐ弥山谷と呼ばれる美しい渓谷がある。
夏は涼やかな風が吹き抜け、秋は燃えるような紅葉が谷を彩る憩いの場所。
この谷に、かつて日本仏教史上最大の天才が訪れたという伝説がひっそりと残されていることを、ご存じだろうか。
これは、若き日の弘法大師・空海がまだ何者でもなかった頃、この谷で出会った不思議な体験の物語である。
◇
延暦の世。
一人のまだ若い修行僧が、安芸国の山中を独り歩いていた。
名を、真魚という。後の世に、空海の名で知られることになる青年である。
彼は、都の大学での学問に飽き足らなかった。
書物の中に記された難解な言葉の羅列。それは、彼の渇いた心を潤してはくれなかった。
本当に人々を苦しみから救う道はどこにあるのか。
その答えを求めて、彼は大学を飛び出し、名もなき山僧として諸国を巡る厳しい修行の旅に出ていた。
その日、彼は陽射しを避けるように、うっそうとした森の中を歩いていた。
何日もまともな食事は取れていない。身に纏う衣はぼろぼろだった。
しかし、彼の瞳だけは飢えや疲れをものともしない、尋常ならざる光を放っていた。
森羅万象、あらゆるものに仏は宿る。
彼は、木々の囁きに、岩のたたずまいに、そして名もなき草花の一輪にさえ宇宙の真理を見出そうとしていた。
ふと、彼の耳にこれまで聞こえてこなかった音が届いた。
水の音だ。
それもただのせせらぎではない。もっと力強い、岩を砕くような響き。
彼はその音に導かれるように、獣道を下っていった。
視界が開けた。
次の瞬間、彼は息を呑んだ。
目の前に、これまで見たこともない壮麗な光景が広がっていたのだ。
巨大な一枚岩の上を清流が滑るように流れ落ち、深い深い滝壺へと吸い込まれていく。
滝壺の水は、神秘的な翠色に輝いていた。
周囲には天を突くような巨木が生い茂り、岩肌には苔が緑の絨毯のように張り付いている。
そこは、まるで俗世から切り離された神々の庭のようだった。
俗世の汚れも人の苦しみも、ここには何一つ存在しないかのような清浄な気に満ちあふれていた。
真魚は、その場に立ち尽くした。
彼は、この谷が自分を呼び寄せたのだと直感した。
ここでなら自分が求め続けた答えの、その一端に触れることができるかもしれない。
彼は滝壺のほとりに静かに座を下ろした。
そして、ゆっくりと目を閉じ、水の音に意識を溶け込ませていった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
第五章、第一話いかがでしたでしょうか。
若き日の空海が、山林修行を行っていたことは史実として知られています。この物語は、その修行の地の一つが、もしこの瀬野の弥山谷であったならという想像の翼を広げたものです。
さて、美しい谷に導かれるようにやってきた若き僧、真魚(空海)。
彼はこの神秘的な場所で、何を見出すのでしょうか。
次回、「迷いの森」。
彼の内なる葛藤が描かれます。
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