古代山陽道・大山駅の駅子日誌 第5話:許されぬ恋文
作者のかつをです。
第三章の第5話をお届けします。
今回は、少し趣向を変えて若き主人公の、淡い恋心と小さな冒険の物語です。
歴史の大きな流れだけでなく、こうした名もなき個人のささやかなドラマもまた、歴史の一部なのだと感じていただければ幸いです。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
その日、タケルが任されたのは隣村の名主の家へ、一通の文を届けるという簡単な使い走りだった。
しかし、その文を託してきたのはいつもと違う人物だった。
名主の家に都から滞在しているという、美しい姫君の侍女だという。
「これは、姫様からの大切なお文にございます。決して誰にも見られぬよう、奥方様ではなく若君様に直接お渡しください」
侍女はそう言うと、タケルの手にそっと文を握らせた。
その文からは、高貴な花の香りがふわりと立ち上った。
タケルの胸が、高鳴った。
これはただの文ではない。
村で評判の凛々しい名主の若様と、都の姫君との間で密かに交わされる恋文なのだ。
身分の違う、許されぬ恋。
その甘くそして危険な香りに、タケルの心は浮き足立った。
隣村への道すがら、彼は自分のことを考えていた。
自分の村にも気になっている娘がいる。機織り小屋で働くおさげ髪の、笑顔が愛らしい娘だ。
しかし自分はしがない駅子。彼女と話すきっかけさえ掴めずにいた。
(俺も、いつかあの子にこんな文を渡せる日が来るのだろうか……)
そんなことを考えていると、道の脇の茂みから突然数人の男たちが現れた。
見慣れない顔。その目には、ならず者特有のいやらしい光が浮かんでいた。
「おう、小僧。どこへ行く。持っているものを全部、置いていきな」
タケルは、はっとした。
この辺りでは珍しいことではない。旅人を狙った追い剥ぎだ。
彼は懐にしまった姫君からの文を、強く握りしめた。
自分の持ち物ならくれてやる。
しかし、この文だけは渡すわけにはいかない。
ここには二人の大切な心が、込められているのだ。
「いやだ!」
タケルは叫ぶと同時に駆け出した。
背後から男たちの罵声が飛ぶ。
足がもつれる。心臓が張り裂けそうだ。
しかし彼は必死で足を前に進めた。
名主の若様のあの凛々しい顔。そしてまだ見ぬ姫君の、美しいであろう面影。
その二人のために。
どれだけ走っただろうか。
気づくと追い剥ぎたちの声は聞こえなくなっていた。
彼はぜえぜえと息を切らしながら、その場にへたり込んだ。
手の中には汗で湿った、花の香りがする文が確かに残っていた。
彼はただの使い走りではなかった。
今、確かに二人の恋を守り抜いたのだ。
その事実が彼の胸を、誇らしい気持ちで満たした。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
駅の重要な仕事の一つに、公的な文書を運ぶ「伝馬」の制度がありました。タケルが運んだのは私的な手紙でしたが、その責任の重さは公的なものと何ら変わりはなかったはずです。
さて、小さな冒険を乗り越え少しだけ大人になったタケル。
しかし、彼の暮らす駅家に今度は目に見えない静かな恐怖が忍び寄ります。
次回、「疫病の報せ」。
駅家は孤立することになります。
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