古代山陽道・大山駅の駅子日誌 第2話:早馬の鈴
作者のかつをです。
第三章の第2話をお届けします。
今回は、都で起きた大事件が、瀬野の駅家にまでいかにして伝わってきたかを描きました。
情報がいかに重要で、そしていかに人々の心を揺さぶるものだったか。その緊張感が伝われば幸いです。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
昼餉を終え、うだるような暑さの中で誰もが気怠い空気に包まれていた、その時だった。
チリ、チリリ……
西の峠道の方角から、かすかな、しかし鋭い鈴の音が聞こえてきた。
その音に、駅家の空気が一変した。
「早馬だ!」
駅長である父の、緊張した声が響く。
早馬――それは、国家の非常事態を告げる特別な伝令。
通常の駅馬とは違い、途中の駅ではほとんど休息を取らず次の駅までひたすらに駆け抜ける。その馬の鞍には、聞く者の心に警鐘を鳴らす特別な鈴が付けられていた。
タケルも他の駅子たちと共に、慌てて厩舎から飛び出した。
すぐに一番元気の良い馬を選び出し、鞍を置き、水桶を用意する。
やがて、鈴の音は急速に大きくなってきた。
峠道を、一頭の馬が砂埃を巻き上げながら転がるように駆け下りてくる。
馬上の男は髪を振り乱し、その顔は疲労と使命感で蒼白になっていた。
「次の馬を! 一刻も早く!」
馬から飛び降りるなり、男はかすれた声で叫んだ。
その手には、紫色の紐で固く封じられた一通の木簡が握りしめられている。
一目でそれが、極めて身分の高い者からの急を要する文であることがわかった。
父が男に水を手渡しながら、尋ねる。
「都で、何があった」
男は水を一気に飲み干すと、ぜえぜえと息をしながら途切れ途切れに答えた。
「……藤原の、仲麻呂様が、乱を……。これ以上は言えぬ。この文を、大宰府まで陽が落ちる前に届けねばならんのだ」
藤原仲麻呂の乱。
その言葉に、父の顔がこわばった。
タケルにはそれが何を意味するのか詳しくはわからない。
しかし、都でとんでもない政変が起きているということだけは肌で感じ取れた。
すぐに、新しい馬に男が飛び乗る。
「かたじけない!」
男は一言だけ残すと、再び東の道へと鞭を当てた。
チリリ、チリリ……
早馬の鈴の音は、あっという間に遠ざかっていく。
後には、緊張した沈黙と巻き上げられた土埃だけが残されていた。
タケルは、その場に呆然と立ち尽くしていた。
ほんの数分の出来事。しかし彼は、確かに触れたのだ。
この瀬野の田舎道が都の政と、そして国の運命と確かに繋がっているという厳然たる事実に。
退屈だと思っていた自分の仕事が今、歴史の大きなうねりのその一部を担っている。
その事実に、彼の心は恐怖と、そしてかすかな興奮で打ち震えていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
藤原仲麻呂の乱は、奈良時代の764年に起きた大規模な内乱です。この乱の結果、孝謙上皇が勝利し道鏡が権力を握るなど、その後の政治に大きな影響を与えました。
さて、初めて歴史の大きな動きに触れたタケル。
そんな彼の元に、今度は都から一人の尊大な役人がやってきます。
次回、「都から来た男」。
タケルは都の「光」と「影」を同時に見ることになります。
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