昭和水害と落合道標の奇跡 第2話:黒い雨
作者のかつをです。
第二十章の第2話をお届けします。
自然災害の恐怖と、それに立ち向かう人々の必死の姿。
戦争の傷跡も癒えない中で起きた悲劇を、主人公の視点から描きました。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
九月十七日。
雨は、バケツをひっくり返したような、という表現では追いつかないほどの激しさになっていた。
屋根を叩く音で会話もままならない。
山々の木々は強風に煽られ、悲鳴のような音を立てている。
健一は、消防団の一員として川の見回りに出ていた。
懐中電灯の光が切り取る瀬野川の姿に、彼は息を呑んだ。
普段は清らかなせせらぎを見せる川が、今は茶色く濁った怒涛となって渦巻いている。
水かさは、堤防のギリギリまで迫っていた。
「こりゃあ、いけんかもしれん……」
団長の悲痛な声が、風にかき消される。
上流から、見たこともない大きさの流木や、家の建材らしきものが次々と流れてくる。
それは、上流の村ですでに被害が出ていることを物語っていた。
健一の脳裏に、一ヶ月前の広島市内の光景がフラッシュバックした。
あの時降ったという「黒い雨」。
今、目の前で降っている雨もまた、この国を洗い流そうとする黒い涙のように見えた。
「避難じゃ! 低い土地の者は、高台へ逃がせ!」
半鐘が鳴り響く。
健一は、泥に足を取られながら家々を回った。
「逃げてください! 川が溢れます!」
雨戸を叩き、叫ぶ。
家財道具を守ろうとする老人を、無理やり背負って走る。
恐怖が、町を覆い尽くしていた。
戦争が終わって、やっと平和になったはずなのに。
なぜ、神はこれほどの試練を与えるのか。
「龍神様……。どうか、お鎮まりください」
誰かの祈る声が聞こえた。
しかし、その祈りをあざ笑うかのように、風雨はさらに勢いを増していく。
そして、運命の瞬間が訪れた。
深夜、ドーンという腹に響くような地響きと共に、堤防の一部が決壊したのだ。
「切れたぞーっ!」
絶叫と共に、濁流が生き物のように町へととなだれ込んでくる。
それは、すべてを飲み込む絶望の波だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
枕崎台風の際、瀬野川流域では多くの堤防が決壊し、橋が流失しました。当時は情報の伝達手段も限られており、夜間の避難は困難を極めたと言われています。
さて、決壊した堤防。
町は濁流に飲み込まれてしまいます。
次回、「龍の怒り」。
水が引いた後に残されたものは、あまりにも残酷な景色でした。
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