昭和水害と落合道標の奇跡 第1話:終戦の夏
作者のかつをです。
本日より、いよいよ最終章となる第二十章「龍神の涙、人の祈り ~昭和水害と落合道標の奇跡~」の連載を開始します。
終戦直後の混乱期、広島を襲った「枕崎台風」。
戦争と天災、二重の苦難に見舞われた瀬野の人々が、いかにして復興への道を歩み始めたのか。
実在する史跡「落合道標」を軸に描く、魂の物語です。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
広島市安芸区瀬野。
この町を流れる瀬野川は、穏やかな清流として人々に親しまれている。
しかし、その川がかつて牙を剥き、この町を泥の海へと沈めた悲劇があったことを、今の静かな水面からは想像することも難しい。
昭和二十年(1945年)九月。
あの忌まわしい戦争が終わってから、わずか一ヶ月後のことである。
原子爆弾の傷跡も生々しい広島の地に、追い打ちをかけるように襲来した「枕崎台風」。
これは、絶望の淵に立たされた人々が、濁流に飲み込まれた故郷で、一つの「道標」を頼りに再び立ち上がろうとした、再生の物語である。
◇
昭和二十年、八月十五日。
長い戦争が終わった。
瀬野の農家の三男坊、健一は、復員兵として故郷の土を踏んだ。
南方の激戦地から奇跡的に生還した彼の目に映ったのは、広島市内の壊滅的な惨状と、辛うじて戦火を免れた瀬野の変わらぬ山河だった。
「帰ってきたんじゃな……」
健一は、瀬野川にかかる落合橋のたもとに立ち、川面を見つめた。
そこには、古くから旅人の道案内をしてきた「落合の道標」と呼ばれる石柱が立っていた。
『右 西条』『左 熊野』
風雨にさらされ、角が丸くなったその石柱。
子供の頃、この周りで鬼ごっこをして遊んだ記憶が蘇る。
何もかもが変わってしまった世の中で、変わらない故郷の景色だけが、健一の荒んだ心を慰めてくれた。
しかし、その平和な時間は長くは続かなかった。
九月に入ると、空の機嫌が怪しくなっていった。
連日の雨。
湿った南風が、谷あいの町に不穏な空気を運んでくる。
村の古老たちは、空を見上げて呟いた。
「龍神様が、荒れとる」
瀬野川の上流、中倉神社の境内には、水を司る龍王社がある。
古来より、この地の人々は川の恵みに感謝すると同時に、その恐ろしさを「龍」の姿に重ねて畏怖してきたのだ。
健一は、胸騒ぎを覚えた。
戦争で多くの仲間を失い、ようやく掴んだ命。
しかし、運命はまだ彼らに試練を与えようとしているのか。
雨脚は、次第に強くなっていった。
それは、まるで天が日本の悲劇を嘆き悲しんでいるかのような、終わりのない涙のようだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
第二十章、第一話いかがでしたでしょうか。
戦争が終わった直後の九月に起きた枕崎台風は、広島県だけで2000人以上の死者・行方不明者を出す大惨事となりました。原爆の被害と合わせて、広島にとってはまさに受難の年だったのです。
さて、不穏な空気に包まれる瀬野の町。
雨は、やがて見たこともない豪雨へと変わっていきます。
次回、「黒い雨」。
自然の猛威が、人々に襲いかかります。
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