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九回目の春に、凍った愛が溶ける

作者: 川奈あさ


 

 光が差し込んで、エリシアは瞳を開く。

 澄んだ水色の瞳に陶器のような白い肌。薄紫の髪の毛は少し乱れている。

 素肌にひんやりとした冷気がまとい、エリシアは毛布を引っ張り上げる。白い日差しの窓には、朝霜がきらめいていた。


「ああ、また戻ってきてしまった……」


 エリシアは肩をさすりながら、八回目の朝にため息をこぼす。

 ベッドに彼の姿も温度ももうないが、シーツの皺が彼がいたことの証だ。腰に鈍痛もある。確かに同じ夜を過ごした。

 ()()は間違いなく、あった。

 

 ベッドを抜け出して窓の外を見ると、使用人たちが雪かきをしていて、その息子たちが雪だるまを作っていた。

 エリシアの結婚を祝して、夫婦のように寄り添った雪だるま二つ。何度も見た光景。

 ――間違いなく、八回目の朝だ。


 侍女のミアが入ってきて支度を整えてもらう。この時にミアがつまづき、転びかけた腕を取るのも毎度のこと。


(ミアが転ぶのを助けられるようになったのは三度目から)

 

 支度をしながら、エリシアはぼんやり思った。


(もしかしたら今回の彼は違うかもしれない……。)


 祈るような気持ちでエリシアは食堂へ向かうと、夫であるゼファー・アルディオンは既に席についていた。

 朝の光に照らされて、銀色の髪の毛がさらさらと揺れる。整った鼻梁に切れ長の瞳、座っているだけで絵になる。


「おはようございます」

 

 エリシアは緊張しながら、ゼファーに声をかける。

 薄紫の瞳がちらりとエリシアを捉え、温度のない瞳はさっとそらされた。


(ああ、やっぱり……。今回もそうなのだわ……)


 エリシアは落胆しながらも、気持ちを振り払う。


(でも今回また時戻りをしたら、やってみようと思っていたことがあるの……!)



 ◇◇


 ふたりは幸せな夫婦――のはずだった。


 ごくありふれた貴族同士の政略結婚。同格の家柄で同じ年齢の二人は、幼い頃から婚約者として付き合い成人を迎え結婚をした。

 政略結婚といえど、エリシアは確かに幸せだった。

 ゼファーはその美しさから一見冷ややかに見える。あまり口数も多くないし、声を出して笑うことなど人前ではほとんどない。

 けれど十の時に出会ってから十年間、彼はずっと誠実でエリシアを大切にしてくれていた。

 エリシアはゼファーのことが好きだったし、彼もきっと同じなのだと疑わなかった。


 実際、冬に結婚して春を迎えるまではふたりは幸せな夫婦だった。

 この国は冬は寒さが厳しく街が雪に覆われ、春の訪れを盛大に祝う『エーテリア・リヴェル』というお祭りがある。

 屋台が並び、春の花びらが舞い、皆が陽気に踊る。

 最後にルミぺタリスと呼ばれる魔法の花に願いをかける祭典。

 ふたりは穏やかに冬を過ごし、エーテリア・リヴェルを翌日に迎えた日のこと。その日のことはあまり思い出せないのだが、エリシアの意識は突然途絶え、気づけば極寒の冬の朝にいた。

 まるで夢のように三ヵ月の出来事が消え去って、挙式の翌日に戻っていたのだ。

 

 そして、ゼファーだけが別人のようになっていた。


 エリシアに冷たい瞳を向け、話しかけても事務的な言葉しか返されない。完全に拒絶され、寄せ付けない態度を取られる。

 周りの人が不思議に思い、咎めてもゼファーの態度は頑なだった。

 そして家にほとんど帰らなくなり、顔を合わすこともなくなる。

 

 戸惑っているうちにエーテリア・リヴェルの前夜が訪れ、そしてまた挙式の翌日に戻る。

 それが七回続き、八回目の朝を迎えた。

 

「なんだか今朝の旦那様は様子が変でしたね。きっと照れていらっしゃるんですね。お嬢様――もう違いました、昨日の奥様はとっても美しかったんですもの」


 朝食を終え部屋に戻ったエリシアに、ミアが軽やかに声をかけた。このセリフも毎回同じ。 

 確かに『昨日』のエリシアはとても美しかった。ミアにとっては『昨日』の出来事。ミアは、彼の冷たい態度が今日からずっと続くことを知らないのだ。

 エリシアにとっては『昨日』はずいぶん前のこと。

 二回目~七回目はずっとつらい三ヵ月を繰り返していたのだから『昨日』は一年半も前だ。


「明日からはいつも通りのゼファー様に戻ってくれるといいのだけど」


 エリシアは笑ってみせた。ミアはエリシアの発言を冗談だと思って、軽く笑い飛ばす。

 

(巻き戻るのならいっそのこと結婚前に戻ってくれたらいいのに)


 もうほとんど思い出せない『昨夜』を思い出すと、涙がじわりと浮かびそうになる。

 ゼファーのことを嫌いになれたらよかった。

 もう諦められたらよかった。

 それでも無理なのは、一度目の冬を知っているから。

 愛された幸せな結婚生活を知っているから。十年続く彼との日々があるから。

 

(私はヒロインではないのだから、諦めないといけないのに)

 

 ◇◇


 エリシアが自身がヒロインではないと思うのには理由があった。

 

 リリス・ヴォイドという男爵令嬢の存在だ。

 四度目の冬に戻ったころから、ゼファーにリリスの存在がちらつくようになる。

 初めは手紙のやり取りだけだったが、いつしか彼女は仕事の取引という理由で堂々とアルディオン家に訪れるようになった。

 ヴォイド家との取引など今までなく、仕事関係なく親しくしているのは誰の目にも明らかだった。

 両家の父やゼファーの友人も咎めたが、ゼファーはリリスとの付き合いをやめようとはしなかった。

 七回目からは人目もはばからず、二人で街に出かけるようになったのだ。

 

 もちろんこれには周りも憤慨し、離縁の話まで持ち上がっていたのだが。

 ――春が訪れる直前、時は戻る。

 離縁の話が進む前に振り出しに戻り、彼の浮気はなかったことになる。

 エリシアだけの心だけが傷つき、疲弊していた。


 エリシアはこの時戻りの現象を調べていると、とあるロマンス小説に行き当たった。

 ヒロインがヒーローと結ばれるために何度も時を戻して、幸せな結末を迎えるお話。


(つまり私はゼファーとリリス様のロマンスの邪魔物、悪役なのだわ……)


 ◇◇


 八回目の結婚生活が始まり、数日が経った。やはり今回もゼファーは冷たかった。


 雪が降る窓の外を見つめると、ゼファーが出かけるのが見える。きっとリリスに会いに行くのだ。

 冬の時期はあまり外出せずに、家にこもるのがこの国の人々。堂々と出かけるゼファーに対して、自分は家にいるばかり。


「今回時戻りをしたら、私も好きに過ごすと決めていたのよ」


 二回目から七回目の冬をエリシアはふざぎこんで過ごした。

 ただでさえこの国の冬は寒く太陽があまりのぼらず、気落ちする。春がこない冬を繰り返し、もともとの朗らかな性格は失われていた。

 

 だから、エリシアは期待をするのをやめた。ゼファーはもう変わってしまったのだと割り切ることに決めた。

 

「どうせ冬に戻ってしまうのだから、好きなことをすればいいのよ」


 今日は町の会議場で、女性たちの会合がある。

 冬の間、町の婦人たちは『エーテリア・リヴェル』の準備をして過ごす。行動的になろうと決めたエリシアは会議場を訪れた。


「エリシア様……? どうしてここに?」

「私もお祭りの準備を手伝いたくて。だめかしら?」


 国をあげての大きなお祭りで、領主は出資するのだが実際の準備には携わらないことが多い。町の女性たちはエリシアの訪問に戸惑いつつも、暖かく迎えてくれた。


「今年は何にしましょうか。昨年から少し趣向を変えたいわね」

「甘いものは譲れないわよ。アルディオン領の冬の果実は春でも人気なんだから」

「冬の間にジャムにして保管しておきましょうか」


 十名ほどで、春に向けての話し合いをする。

 明るい話題にエリシアの気持ちは晴れ、自然と頬が緩む。


(こんなに明るい気持ちになったのは本当に久しぶりだわ!)

 

 最終的には花を使ったタルトと、果実にぱちぱちと弾ける光る魔法の泡を合わせた光のスパークリングジュース、この地域の名産の木の枝を使ったリースを作ることに決まった。

 

「奥様のお手を煩わせるわけには……」

「私もやってみたかったの、作り方を教えてもらえるかしら」

 

 リースの編み方を教えてもらい、その日は女性たちと雑談をしながらリースを作った。あとは春の花が咲いたら、リースに花を組み込んでいく。完成品を想像すると胸に希望が灯る。


(春が楽しみに思えるのも久しぶり)


 エリシアは婦人たちにお礼を言い、夕方に帰宅した。


「エリシア様が楽しそうで僕も嬉しいです」


 迎えにきた従者のガルムが大量の材料を運びながら微笑んでくれる。茶色のやわらかい髪の毛がふわりと揺れて、きらきらした人懐っこい瞳を向けられるとエリシアは実家にいた大型犬を思い出す。

 ミアとガルムは幼い頃からエリシアに仕えていて、嫁入りをしても連れてきた二人だ。何度時を戻しても変わらず側にいてくれる二人はエリシアの心の支えでもある。

 

「ありがとう。これだけ頂いたのだから、毎日やることがたくさんできたわ!」


 手を動かすと気持ちも明るくなる。これまでの冬もこうして過ごせばよかった、とエリシアが満足してアルディオン家に戻ると。

 ちょうどゼファーを乗せた馬車も到着したところだった。


(今日は戻られたのね)


 毎冬、使用人たちの言動は同じだが、ゼファーの行動だけは変化する。ゼファーとリリスの物語だからだ、とエリシアは思っている。


「おかえりなさいませ」


 馬車から降りたゼファーはエリシアに気づき、ぎょっとしたように目を開いた。


「エリシア、なにをしている。どこに行っていた」


 久しぶりに声をかけられたと思ったら、叱られるとは。

 

「町の会合に参加しておりました」

「会合……?」

「ええ。エーテリア・リヴェルの話し合いで」


 ゼファーはエリシアの隣に立っているガルムに視線をやり、彼の手にある木の枝を確認する。

 

「なぜ君がそんなことを。……すぐに屋敷に入って」


 ゼファーは元は公正で優しい真面目な男だ。

 一度目の冬は二人で会合の様子を見に行き、手伝うこともあった。


(性格まで変わってしまったの)


 エリシアががっかりしていると、ゼファーはエリシアの腕をぐいと掴んで屋敷の中に連れていく。

 玄関ホールに入ると、ゼファーは何かを確認するようにエリシアの顔を覗き込む。


「危険な目にあわなかったか?」

「……危険な目? 町で会合に出ただけですよ」


 ゼファーは冗談を言っている様子もなくいたって真剣な様子だ。

 彼はエリシアの身体を簡単に確認してから、ひとつため息をついた。


「この雪だ。あまり家から出ないように」


 そう言うと自分の部屋に戻っていく。

 一人残されたエリシアは戸惑いと同時に怒りもこみ上げる。


(自分は女性のもとにいくのに私は家にいるように、だなんて)


「エリシア様、これはどちらに運びましょうか」


 急いで屋敷の中に入ってきたガルムが抱えた木の枝を見せる。


「そうね……。私の部屋まで運んでもらえるかしら。作りかけのものもあったから、このあと完成させたくて」

「かしこまりました」


 ガルムと共に私室に向かいながら、エリシアは明日も活動的に過ごそうと思うのだった。


 ◇◇


 翌朝。エリシアは雪かきの手伝いをすることにした。

 昨日は久しぶりにぐっすり眠れたのだ。手を動かしたり、誰かと話すと寝つきもいい。

 身体を動かせばもっと気持ちよく過ごせるだろうと考えた。


「エリシア様がすることではありませんよ」

「でも身体を動かしたい気分なの。迷惑にならないようにするから、お願い」


 エリシアのお願いにガルムは頷き、スコップの使い方を教えてくれた。


(身体を動かすのは気持ちいい。毎回こうすればよかったのよ)


 エリシアは指導通り雪を運んでいく。単純作業だが玄関前がすっきりしてくると心も晴れてくる。


「ミアがお茶を用意したそうなので、一旦休憩にしましょうか」

「ありがとう」


 身体はぽかぽかとしていて気分がいい。エリシアは思い切り身体を伸ばした。


「エリシア、君はまた外にでているのか……!」


 鋭い声に振りむくと、ゼファーは屋敷から出てきたところだった。

 

「外って……敷地内ですよ?」

「こんな雪のなか、熱が出たらどうするんだ」

「旦那様――」

「君には聞いていない」


 エリシアを庇おうとしたガルムを睨みつけたゼファーは、エリシアのもとにまっすぐ進むと額に手を当てる。


「そんなに時間も経っていませんから。大丈夫ですよ」

「怪我はないか?」

「ええと……みての通り、元気です」

「そうか」


 それだけ言うとゼファーはエリシアを置いて、さっさと屋敷へ戻って行ってしまった。


「……なんだったのかしら」


 元気だと答えるとゼファーはあからさまにほっとしていた。一体何だったのだろうか。ガルムも隣で訝しげな表情をつけている。


(まさか心配してくれているのかしら)

 

 今回のゼファーは少しだけいつもと違うのだろうか?


 不思議に思いつつも、久しぶりに触れられたことをエリシアは嬉しく感じてしまうのだった。

  

 ◇◇


 さらにまた翌日。

 エリシアは今日も町にでかけることにした。リースの材料のリボンを買いにいきがてら、好きなお菓子でも食べようと思ったのだ。

 

(どうせまた時が戻るなら体型だって気にしなくてもいい。少しくらい贅沢してもいい)


 ゼファーも朝から出かけているから、今日は叱られずに済む。

 なぜ叱られるのかはまったくわからないけれど。 

 せっかく気持ちが明るくなる方法を見つけたのだ。今年の冬は楽しく過ごしたい。ゼファーの言いつけを守るつもりはなかった。


「どうせまたなかったことになるんだから、叱られたっていいんだわ」


 どうせなら、とエリシアは目いっぱいおしゃれをすることにした。

 婚約者の頃にゼファーが送ってくれたケープと帽子をつけて、部屋の外に出ようとして――。


「エリシア、どこに行こうとしている」


 扉の前にいたのはゼファーだった。まさか現れると思っておらず、エリシアは思わず小さく声を漏らした。


「……お出かけされたのでは?」


 エリシアの問いにゼファーは冷ややかな目を返し、そのまま部屋に押し入ってきた。


「きゃっ」


 バランスを崩したエリシアをゼファーが抱きとめ、エリシアをじっと見つめる。


「どこに行こうとしていたんだ」

「どこって……町にリボンを買いにいこうとしてました。リースに使うリボンです」

「町は危険だ、家にいて欲しい」

「そんな……私は子供ではないんですよ」


 違和感を感じながらエリシアが答えると、そのまま痛いくらいぎゅっと抱きしめられる。

 

「……お願いだから、ここにいてくれ」


 吐き出された言葉は悲痛で、エリシアは言葉を失った。

 彼の固い胸に自身の顔を押し付けられているから、ゼファーの表情は読めない。


「どうしたのですか……」


 ようやく身体を離されて見上げると、ゼファーはなぜか傷ついた瞳をしていた。


「どうしたらエリシアをずっとここにいてくれるんだ……」

「え……?」


 独り言をつぶやく彼の瞳は不安げだった。


「――エリシア様。準備は整いましたか?」


 エリシアが意味を訊ねようとしたところで、扉の向こうからガルムの声が聞こえた。 


「ほら、町へはガルムを従えていきますし一人ではありません。危険なことはなにも――」


 ゼファーはエリシアの身体を離すと、踵を返し扉を少し開いた。


「ガルム。エリシアは体調を崩したみたいだ」

「えっ、大丈夫なのですか。お元気そうでしたのに」

「少しめまいがするようだ。今日は休ませるから」

「医者を呼びますか? それと、何かお持ちしましょうか?」

「いや、いい」

「ですが」

「ここには俺がいる。問題ないだろう」


 ゼファーはそう言ってガルムを下がらせてしまった。


「私は体調など悪くありませんよ。どうしたんですか、先日から」

 

 エリシアのもとに戻ってきたゼファーに抗議をする。

 ここ数日のゼファーは明らかにおかしい。


「そんなにガルムと出かけたかったか?」

「どういうことですか。……まさか何か疑っているんですか?」

 

 自分のことを棚に上げてエリシアの不貞を疑っているのだろうか。ガルムは長年従えている信頼できる従者だ。

 さすがにエリシアも怒りを含んだ声音になる。


「君はずっとここにいてくれたらいいんだ」

「な……」

「勝手だとわかっている。それでも――誰も信じるな」

「本当にどうしたの、ゼファー」


 無茶苦茶を言うゼファーに対して、思わずエリシアは子供の頃のように話しかけた。ゼファーがまるで泣きそうな子供のときのような顔をしてエリシアのことを見つめていたから。


「……ああ、そうか。このパターンは確かめたことがなかった。俺がずっとここに君といればいいんだ」

「ゼファー……?」


 不安げな瞳が暗く翳る。

 同時に、ゼファーはエリシアを痛いくらい抱きしめて長い口づけをした。苦しくなって胸を叩いても、離してくれない。


「――奥様。ご体調はどうですか?」


 ミアの声が扉の向こうから聞こえる。

 それでもゼファーは離してくれず、扉の向こうからミアの焦った声が聞こえる。


「奥様、大丈夫ですか? 失礼しますね!」


 エリシアが倒れているとでも思ったのだろう。

 ミアは部屋の扉を開けて――キスを受け止め続けているエリシアを見ると顔を赤くした。


「し、失礼しました」

「しばらく誰も部屋に入らないように。何かあればこちらから頼む」


 ゼファーは慌てることなく、エリシアを離さないままさらりと伝える。

 

「も、もちろんです! 何かあればおっしゃってください。それでは失礼します!」


 ミアは慌てながらも、どこか嬉しそうに部屋を出て行ってしまった。


「は、離して!」


 エリシアが身体をよじっても、ゼファーは腰を抱いたまま離してくれない。


「本当にどうしたの」

「妻を愛するのは当然のことだろう」


 そう言われるとエリシアは口づけを受け入れるしかない。

 何度も時を繰り返しているからエリシアはゼファーの今日の態度がおかしいとわかる。

 だけど、今回の冬はまだ数日しかたっていないのだから。


「本当はずっとエリシアに触れたかったんだ」


 ゼファーの熱のこもった声が、エリシアの冷たくなった心をひとつ溶かす。


(今回のゼファーは、以前の彼が戻ってきてくれたのかもしれない)


 キスをしながら、エリシアの瞳から涙がひとつこぼれた。

 本当はずっとこうして抱きしめて欲しかったのだ。

 本当は嬉しい。

 エリシアは胸のなかの違和感に気づかないふりをして、ゼファーを受け止め続けた。


 ◇◇


 翌朝、目を覚ますとゼファーはそこにいた。

 彼の剥き出しの肩に触れて、また涙が滲みそうになる。

 こうして寝顔を見るのは一体いつぶりなのだろう。


(大丈夫、きっと今回の冬からは元の夫婦に戻れたのよ。きっと大丈夫)


 昨日ふたりは一度も部屋を出なかった。

 ゼファーはエリシアを離さなかったし、一番最初の冬のようにとても優しかったし大切に触れてくれた。

 窓の外から差し込む光から、寝坊してしまったことに気づく。

 ミアが起こさなかったことを考えると、気を遣ってくれたのかもしれない。


 エリシアはゼファーのさらりとした髪の毛に自分の指を通してみる。こうして彼の髪の毛に触れるのも好きだった。


「そろそろ起きようかな」


 エリシアが身体を起こし、ベッドから出ようとすると――。

 手首をがっしりとゼファーに捕まれた。


「エリシア、行くな」


 エリシアが振り向くとゼファーはまだ眠っていた。寝ぼけているのだろうか?

 けれど額には脂汗が滲み、苦悶の表情を浮かべている。


「エリシア……どこにも……」


 苦し気に息を吐いているゼファーは悪夢でも見ているのかもしれない。


「ここにいますよ」


 声をかけるとゼファーは跳ね起きた。

 周りを見回し、幽霊でも見るかのようにエリシアを見つめる。


「……エリシア?」

「はい、エリシアです」


 そのままエリシアは引き寄せられて抱きしめられる。


「良かった、エリシアがいる」


 耳元でゼファーの震えた声が聞こえた。


「いますよ、ずっと」

「そうだな」


 なぜか声は涙がにじんでいて、エリシアの胸は苦しくなった。


「本当にどうしたのですか」

「なんでもないよ。今日は予定がないんだ。もう少しベッドの中にいてもいいかな」

「もう少し休んだらお昼になってしまうと思うわ」

「たまにはいいだろう」


 ゼファーは柔らかな笑顔を浮かべてエリシアをひっぱり、二人でベッドに寝転んだ。久しぶりにゼファーの笑顔を見た。大きく口を開けて笑うことはないけど目元がぐっと優しくなる笑顔がエリシアは好きだった。

 光が差し込むベッドのなかでくすくすと笑い、抱きしめあってキスをした。


 その日からゼファーとエリシアは四六時中一緒にいた。

 ゼファーは家からまったく出なくなり、仕事のときでもエリシアをそばから離さなかった。

 エリシアは久々のうれしさと同時に、言いしれようのない不安も感じた。

 

(幸せなはずなのに、どうしてこんなに胸がざわつくのだろう)


 今回の冬のゼファーは優しくて、愛を向けてくれる。

 けれどゼファーはなにかに怯えている。

 エリシアのこともまるで監視しているようだ。ミアやガルムですらエリシアに近づけるのを嫌がる。

 エリシアは理由を聞きたいきもちにかられたが、結局聞けなかった。前回までの冬にまた戻るのが恐ろしかったから。


(この日々が夢だと言われたら怖い。夢だとしても、幸せだから)


 ――幸せは続かない。この日々は五日で終わった。


 五日目の夜中。エリシアは何か大きな音で目を覚ました。


「……ん、なに?」

 

 暗い部屋の中、ほとんど何も見えない。だけど隣のゼファーが真剣な表情でエリシアを見つめているのはわかる。


「きゃーっ」


 階下から叫び声も聞こえて、さまざまな音が聞こえる。

 

「エリシア、君はここで待っていて。けっして部屋から出ないように」


 ゼファーは急いで服を身に着けると、慌てたように部屋から出て行った。


「なにが起きているの」


 エリシアが身体を縮こませたところで、部屋の扉が激しくノックされた。


「エリシア様! 大丈夫ですか⁉」


 ガルムの慌てた声が扉の向こうから聞こえてきた。

 

(やはり何かとんでもないことが屋敷で起きているのだわ!)


「エリシア様、今助けますね!」


 ガルムの必死な声が聞こえるけれど、それと同時に視界にモヤがかかっていく。混濁して、頭が働かない。


 ………………。


 だれかが部屋に入ってきた。闇に紛れて姿は見えない。

 そして、むせかえるような鉄の匂いがする。


 ――そこでエリシアの意識は途絶えた。

 

 遠くでゼファーの声が聞こえた気がした。


 

 ◇◇

 

 光が差し込んで、エリシアは瞳を開く。

 素肌にひんやりとした冷気がまとい、エリシアは毛布を引っ張り上げる。白い日差しの窓には、朝霜がきらめいていた。


「朝……」


 エリシアはベッドを這い出て、窓の外を見た。

 使用人たちが雪かきをしていて、その息子たちが雪だるまを作っている。

 エリシアの結婚を祝して、夫婦のように寄り添った雪だるま二つ。


 そのあとにミアが転びそうになるのを助けるのも、ゼファーに冷たくあしらわれるのも同じだった。


(九回目の朝だわ)


 つい昨日まで自分を愛してくれていたゼファーがまた冷たい人に戻っていたことは少なからずショックだったが、エリシアはそれよりも気になることが多い。

 朝食を終えて自室に戻ったエリシアは状況を整理する。


(前回は、エーテリア・リヴェル前夜まで行かなかった。冬の間に、冬に戻ってきた)


 いつもはエーテリア・リヴェル前夜に巻き戻る。だけど今回はそうではなかった。


(きっと私はあのとき、襲われて――死んだ?)


 エリシアは決心すると、ゼファーの部屋に向かった。


「お話があります」


 部屋に確実にいるのに返事はない。何度もノックをして声を張り上げる。


「私、話をしてもらえるまでここからどきませんから」


 もう一度戸を叩くと、疲れた顔をしたゼファーが顔を見せた。


「もしかしてあなたも九回目の冬なの?」


 エリシアの言葉にゼファーは大きく瞳を開いた。

 少し思案してから、小さな声で答える。


「……ひとまず部屋に入って」


 エリシアは促されるまま、部屋に入りソファに座る。

 隣にゼファーも腰を掛けて、拒絶の姿勢は感じられなかった。


「実は私も時が戻っているのです。あなたも時が戻っているのではないですか? 前回は、エーテリア・リヴェル前夜まで行かなくて、私は死んでしまったのかしら」


 矢次早に聞くと、ゼファーは手を額につけてうつむいた。


「……私は九回目ではない」


 ゼファーは否定した。だけど『九回目の冬』について心当たりがありそうだった。

 しらを切るつもりなのだろうか。絶対に真相を聞くまで部屋から出ない、とエリシアは心に決めた。


「あなたとリリス様が親密なことは知っています。けれど、何度も時を戻してそのたびにあなたがリリス様と親しくなって……冬に戻るたびに私を愛してくれるんじゃないかと期待するのがつらいんです。もうお二人の関係を受け入れますから……春まで待たずとも離縁しますから、どうかもうこの時戻しをやめていただけませんか」

「何を言っている」

「お二人が結ばれるために時が戻っているのですよね。……それはもう受け入れますから」


 エリシアの瞳にじわじわと涙が浮かぶ。

 本当はリリスと結ばれてほしくなどない。けれど終わらない監獄の方がつらかった。

 ゼファーはエリシアの訴えに苦し気な表情になる。


「……そうか。エリシアも戻っていたのか。まさかエリシアも時戻りをしていたとは……」

「ということはやはりあなたも巻き戻っているんですね」


 ゼファーは顔を暗くしたまま、頷いた。


「俺の態度はひどく見えただろう。許してもらえないことをした」


 謝罪にエリシアの胸が痛む。態度は自覚があったのかと思うと悲しみが胸を覆う。


「だけどエリシアは何か誤解をしている。これだけは信じて欲しい。俺が愛しているのはリリスではない。――エリシアだけなんだ」


 ゼファーの瞳は真っすぐだった。


「では、どうして」

「……エリシアを守るためなんだ。だから何も聞かず、俺から距離を取って……それから屋敷から出ないで欲しい」

「納得できません。だって、とても苦しそうなんだもの」


 ゼファーはひどく傷ついた顔をしている。

 彼の表情をみていると、エリシアのことを守るためというのはきっと真実だ。だけど。


「私たち夫婦になったんでしょう。あなたの苦しみを、私にも分けて欲しい」


 エリシアはゼファーの手を取った。驚くほどに手は冷たかった。


「何かしてくれていたのはわかったけど、あなたが抱えているものを私にもください。私だってゼファーが苦しむのは嫌!」


 言い終わらないうちに抱きしめられた。彼が心から身体を預けてくれているのがわかる。


「……俺は九回目じゃないんだ。もう数えきれないくらい、何百回と繰り返している」

「え?」

「きっとエリシアが覚えているのは『エーテリア・リヴェル前夜』まで行けた時だけだ。それ以外はその前にエリシアは死んでしまうんだ」

「どういう……こと」


「エリシアの死が時戻りのキーとなる」


 ゼファーはぽつぽつと語り始めた。

 最初の冬は、エリシアの記憶と同じく、幸せな冬を過ごしたのだという。 


「エーテリア・リヴェル前夜。翌日の準備で俺が少し外出し、帰宅すると……リビングルームで倒れているエリシアがいた。屋敷の者も何人か殺されていて、エリシアの胸も赤く染まって――……」


 ゼファーは拳を固く握りしめている。

 エリシアの知らない話だ。……好きな人が倒れているのを発見したときのゼファーの辛さはどれほどだったのだろう。


「翌日のエーテリア・リヴェルは中止になった。祭典で使う予定だったルミペタリスに願ったんだ。エリシアを生き返らせてほしいと」


 エーテリア・リヴェルでは、祭りの最後にルミペタリスと呼ばれる魔法の花を空に飛ばす。願いをかなえてくれると言われているおまじないのようなものだ。


「それが、叶えてくれて時戻りを?」

「俺はそう思ってる」


(リリスとの恋物語ではなかったの……?)


 時戻しが自分のためだったとは。

 エリシアは唇をかみながら、話の続きを待った。


「二回目の冬は、ひと月もたたずに終わった。

 エリシアが婦人たちの会合に一人で出かけて、その帰り道に何者かによって殺された。

 三回目の冬も、その次も……。

 絶対にエリシアの死を阻止したい。だから俺は何度も時を戻して君の死について調べてきた。

 エリシアの死が五十を超えた頃、少し疲れてしまったんだ。君の死に顔をもう見たくなくて、自暴自棄になっていたのだと思う。俺は君といるのが怖くなって拒絶してしまったんだ。

 ――だけどそのとき、エーテリア・リヴェル前夜まで進むことができた。結局一回目と同じように君は死んでしまったのだけど」


「……ということは、私にとっての『二回目の冬』はゼファーにとっての『五十回目の冬』だったということ?」

「多分そうなんだろう。……まさか、君も時を戻っているとは思わなかった。だから……俺がエリシアと共にいないことで、死を回避できるなら、と思ってしまったんだ」


 ゼファーが冷たく拒絶していた理由がわかり、エリシアは口を手で覆った。


(八回時戻しをしてもこれほどつらかったのに。ゼファーは……)


「俺が君を拒絶するとエリシアが生きていられる時期が長くなる。エリシアが落ち込んで部屋に閉じこもっているのが安全でよかったのかもしれない。そこで君を避けて時間稼ぎをしながら真相を考えることにしたんだ。怪しいのが、リリス・ヴォイドだった」

「それで、リリスと時間を共に……?」

「そうだ、本当にすまなかった」


 ゼファーが眉を下げるのを見て、エリシアは首を振った。


「理由がわかればいいの」

 

 胸に刺さっていた棘が溶ける。彼はエリシアのことをずっと思っていてくれただけだった。


「彼女がエリシアの死になにかしら関与しているのはわかっていた。証拠を集めてヴォイド家の悪事を暴き、捕らえようと思ったんだが……なかなかエーテリア・リヴェルに間に合わない。

 どうやら彼女は俺との結婚を考えていて、エリシアを消そうと思っていたみたいなんだ」

「そうだったのね……」

「君を拒絶すると君が生きていられるのが長くなるのも、彼女の嫉妬による暴走がなくなるためだと考えられる。

 だけど――すまなかった。まさかエリシアまで戻っていると思わなかった。つらい思いをさせることになった」


 深く頭をさげるゼファーの肩にそっと触れる。

 

「私のために何度冬を迎えてくれたの……」


 エリシアの胸はわしづかみにされたみたいに痛んだ。

 彼がどれだけの思いで、エリシアのために奮闘してくれたかわかったからだ。


「エリシアが生きてくれるならそれでよかったんだ。自分から離れることがあっても君のことが守れたらと。しかし――」


 ゼファーは自身の肩に載せているエリシアの手を掴むと、自分に引き寄せた。


「前回エリシアを抱きしめてしまったらだめだった。ずっと本当は触れたかった、抱きしめたかった。死のことを忘れてただエリシアに触れて、愛していたかったんだ。二人で閉じこもってしまえば大丈夫だと思った。――いや、これはただの言い訳だな。君と二人でいたかっただけだった、逃げてしまったんだ」


 そしてまた痛いくらい抱きしめられる。気持ちが伝わってきて、エリシアは手を伸ばしてゼファーの身体をしっかり抱きしめた。


「私も同じ。本当は違和感はあったの。ゼファーが何かに怯えているのはわかったし……だけど私もゼファーに触れられるのが嬉しくて、ずっとこのままでもいいと思ったんだもの」

「可愛いことを言われると困る」


 額と額がくっついて、熱がこもった瞳で見つめられる。


「だけど、結局だめだったのよね」

「そうだ。屋敷になにかが押し入って君は殺されてしまった」


「だけど、あともう少しなんだ。毎回少しずつ進んでいる。……信じて待っていてくれるか」

「信じるわ。話してくれてありがとう」

「……エリシアがここにいる。これは夢じゃない。ちゃんと腕のなかにいる」


 エリシアがここにいることを確かめるようにゼファーは抱きしめる。ぬくもりを全身で感じると、エリシアの胸から熱いものがこみ上げてくる。

 

「私も不安にならない。不用意な外出も気を付けます。だから、その……もう屋敷のなかでは冷たくせずにいてくれますか?」

「わかった」


 声が優しくてエリシアの瞳からまた涙がこぼれた。


「ずっと調べていて、あと少しなんだ。だからまたしばらくは離れることになる。だけど、あと五分は――」


 ゼファーはエリシアを顎を掴むと、キスを落とした。

 前回のような不安もない。満ち足りた気分で行うキスは五分では足りず少しだけ延長した。


 ◇◇


 それからは暗い冬でもエリシアの気分は落ち着いていた。

 ゼファーがリリスのもとに向かうのも苦ではなくなった。リリスには妻と不仲だと伝えているらしく、一度目の冬の時のように二人で出かけることはできなくても春までの辛抱だと思えばよかった。

 ゼファーの要望通り、町に出かけるのもやめた。

 それでも今回の冬は違う。夜になればゼファーに会えるのだ。

 遅くまで出かけていてもゼファーはエリシアの部屋を訪れ、ともに眠ってくれるのだから。


 ひと月が経った頃。

 

「……リボンがなくなってしまいましたね」

 

 ミアとリースを編んで過ごしてたところ、材料がなくなった。


「あと少しだったのに」

「今日は雪も落ち着いていますし、町でも行きますか?」

「いえ、やめておくわ」


 ゼファーの言いつけ通り、エリシアは誘いを断った。


「家に閉じこもっていると、気持ちも落ち込んでしまいますよ」


 ミアは心配そうな顔になる。

 ゼファーは夜に部屋を訪れる以外、屋敷のなかでも冷たく接するふりをしている。ミアは二人の仲を心配に思っているのだ。


「町なら僕も同行しますよ」


 ガルムが気遣って笑顔を向けてくれるが、エリシアは首を横に振った。

 きっとそれで何度も失敗している。ゼファーの不安の種を除きたかった。


 ◇◇


 夕食の後、部屋にガルムが訊ねてきた。彼はたくさんのリボンを買ってきてくれたのだと言う。


「ありがとう。しかも私の好みばかり。さすがガルムね」

「エリシア様のことならなんでも」

「ふふ、ありがとう。夜の過ごし方が決まったわ」

「僕もお手伝いしますよ」

「――そこで何をしている」


 冷たい声が聞こえた。ガルムの後ろにゼファーが立っていたのだ。


「奥様にお届け物を」


 ガルムがにこやかに紙袋を見せるが、ゼファーは二人の間にずいと割り込んだ。


「夜に部屋を訊ねるのは不躾だろう」

「必要なものを買ってきてくれたのですよ」

「部屋に入ろうとしていた」

「届けてもらっただけですよ。いまからリビングルームに移動しようとしていたの」

「ええ、そうです」


 ガルムは忠実な従者でわきまえている。部屋に入ってくることはしない。


「これは預かった。君はもう下がっていいから」


 ガルムから紙袋を受け取るとゼファーは扉を無理やり閉めた。


「わざわざ届けてくれたのよ……」


 ゼファーは手首を掴んでエリシアをベッドに押し倒した。


「俺が不在の間にエリシアが他の男といるのが嫌なんだ」

「……ガルムはずっと私についている従者なのよ」

「嫉妬と笑ってくれてもいい」

「屋敷でも不仲だと言うって……」

「もういい。だいぶ片が付いてきた。エリシアは待っていて」


 何か言おうと開いた口も、キスでふさがれる。


「エリシア、誰も信用するな。本当は俺がいない時間を作りたくない。もう俺の知らないところで君が死ぬのは嫌だ。……前回の冬は幸せだった、エリシアと二人だけでいられて。誰も君といない」


「今年は一緒にエーテリア・リヴェルを迎えるんでしょう」

「エリシアをなくすことがなにより怖い」

「大丈夫、私はちゃんとここにいるから」


 エリシアは両手でゼファーの頬を包みこんだ。頬に当てた手にゼファーは自分の手を重ねた。

 ゼファーの眉間によっていたシワが少し和らぐ。ひとりでずっと奮闘してくれていた彼に、少しでも寄り添えるのがエリシアは嬉しかった。


 ◇◇


 その日からゼファーはまた屋敷に留まるようになった。

 そして部屋からエリシアをほとんど出さず、ずっとともに過ごすようになった。エリシアはまた前回の冬を繰り返すのはでないかと不安もよぎったが、前回のような思いつめた様子がゼファーにない。

 それどころか余裕さえ感じられてエリシアはどきまぎしてしまう。


 そして一週間が過ぎた頃。

  

「エリシア、今日ですべてを終わらせよう。きっと俺たちは春を迎えられる」


 ゼファーはエリシアの髪をひと房取ると小さなキスをしてから、おでこにも優しく唇を寄せた。結婚式の時にもしてくれたエリシアに対する誓いだった。


「きっと、大丈夫。今回は私たちの心がひとつなんだもの」

「行ってくる。今日は屋敷のなかでなら自由に過ごしていいから」


 長い冬が終わる。そう信じてエリシアはゼファーが出かけるのを見送った。

 

「うふふ、二人の仲が戻って嬉しいです」


 玄関でゼファーを見送ると、後ろにミアとガルムが立っていた。


「一時期はどうかしたのかと思いましたもの。ね、ガルム」

「そうだな」

「一週間も旦那様が奥様を離してくれなかったから、私は寂しかったですよ」

「会っていたじゃない」

「食事とお支度の間だけですよ。それ以外の時間は旦那様がずーっと占拠。ガルムなんて一目も奥様を見ていないのじゃない? 食事も部屋に運ばせるんだから」

「風呂に向かうときに一度会ったわよね」

「まあ、そのお風呂も旦那様も一緒だったんですけどー」

 

 ミアが幸せそうにため息をついて、三人でリビングルームに向かう。


「ご結婚なさる前からエリシア様一途でしたけれど、旦那様がクールな方だから。淡泊かと思っていたもの。まさかこんなにどっぷり愛を注がれる方だなんて。

 でも! 今日は旦那様は夜まで戻られないということですから。久しぶりに私たちが奥様と一緒にいますからね!」


 ミアの宣言にエリシアもくすりと笑った。

 今日で終わらせるとゼファーは言っていた。

 これからはこうしてゼファーと屋敷の皆と幸せな日々を送るのだ。


「先日町のご婦人がいらしてエーテリア・リヴェルに出店するクッキーのジャムの試作を持ってきてくださったんです。そのときに瓶の案も持ってきてくださいました。そちらの確認をしていただいてもいいですか?」

「まあ、そうだったの。確認するわ」

「旦那様が私たちと話す時間すら作ってくれなかったんですもの」


 笑いながらミアとガルムが机の上に、書類と瓶を置いてくれる。

 エリシアはソファに腰かけ、書類を手に取った。


「わあ、素敵。瓶のデザインも可愛い」


 何度も見たデザインだから知っているけれど、今回はこの実物を見れるかもしれない。そう思うと心が跳ねる。


(どうかこの実物を見ることができますように。)


「――ミア」


 廊下から侍女が顔を出してミアを呼んだ。


「ミア、ちょっと来てくれる? あんたの担当したものに不備があるって」

「えぇ? 何しちゃったかな。わかった、すぐ行く! ――少し待っててくださいね」


 ミアは侍女に連れられて、部屋の外に出て行った。

 彼女が走っていった風によって、書類が床に散らばる。

 エリシアはそれを拾うためにかがんだところで、ガルムが小さな声をあげた。


「エリシア様。首に傷が――」


 今日のエリシアはゼファーの希望で髪の毛を一つに結い上げていた。彼の好きな髪型だ。


「首に傷なんてあったかしら……」


 そこで思い当ってエリシアは頬が赤くなる。きっとこれは傷ではなく、ゼファーにつけられた痕だから。

 一瞬きまずい空気が流れた。それもそうだ。幼い頃からの従者に見られるのは気恥ずかしさがある。


「あなたにこんな傷が……」

「傷ではないから、大丈夫よ」

「いえ、許せません。あなたの白い肌には痕ひとつあってはならないのです」


 ガルムの冷たい声が、耳に届いた。


「あなたは誰にも踏み入れられない。聖域なんですから」

「ガルム?」

「だれのものにもならないで。――俺のものにも」

 

 気付けばガルムは、エリシアの隣にかがんでいた。

 エリシアが彼を見上げると、いつもキラキラに輝く瞳は真っ暗で、感情が何も見えない。

 普段向けてくれる優しい温度はそこになかった。


 そしてエリシアは同時に気づく。冷たいものが首筋に添っていることを。

 鋭い氷の刃がそこにはあって、ゼファーにつけられた痕の上をなぞる。痛みに小さく声が出た。


「エリシア様はこれで永遠になる。誰のものにもならない」


 ぞっとするほど暗い声だった。


「が、ガルム! 待って!」


 思い切り突飛ばそうとしたが、ガルムに手首をつかまれる。


「い、痛……」

「痛みのない場所に連れて行きますよ。大丈夫です、すぐですから」

「ガルム、あなただったの」

「何がですか」


 微笑まれて、全身に悪寒が走る。


 ――ガルムだった。

 

 エリシアは何度も忘れてしまっていた記憶を思い出した。

 そうだ、最期はいつもガルムが近くにいた。

 ああ、今回もだめだった。

 忘れたくないけど、きっと時を戻せばまたこのことを忘れてしまう。

 次に戻ったら絶対にゼファーに言わなくては!

 忘れないで、絶対に!


 エリシアは願いを込めながら、次に来る痛みのために目をとじた。


「エリシア……!」


 大きな音がして目をあけると、ガルムが床につっぷしていた。彼の身体の一部が凍り、その魔法を放ったのがゼファーだとわかる。

 すぐにエリシアのもとにゼファーがかけつけて、抱きしめられる。


「こちら捕らえました!」


 数名の男も部屋に入ってきてすぐにガルムは捕らえられた。一瞬の出来事にエリシアの頭は追いついていない。

 

「エリシア様! 僕は……! あなたを――」


 ゼファーの身体で見えないが、そのうしろでガルムが叫んでいる。


「聞かないで、エリシア」


 ゼファーがエリシアの両耳を両手で包み込む。

 無音のなか、エリシアは何も考えられずただゼファーに身をゆだねていた。


「もう大丈夫、全部終わったよ」


 ゼファーの優しい笑顔に、エリシアは胸に顔をうずめて涙をこぼした。

 

 ◇◇


 エリシアの命を奪っているのはリリス・ヴォイドだと思ってゼファーは調べていた。

 けれどエリシアの命を狙っていたのはリリスだけではなかった。

 幼い頃からエリシアに恋をしていたガルムは、ゼファーに嫁いでからのエリシアを見ていられなかったのだという。

 誰かのものになってしまったエリシアを見るくらいなら、きれいなまま消してしまおうと思っていた。

 ガルムの恋心に気づいていたリリスが彼に近寄り、そそのかしていた。

 実はゼファーは何度かヴォイド家の悪事を暴いてリリスを捕えていた。それなのにエリシアが殺されてしまう運命は変わらなかったことや、エリシアの殺害される場所が安全なはずの屋敷のなかが多かったことから、リリス単独犯ではないとゼファーは考えていた。

 そしてガルムと二人で死ぬことが最も多かった。襲ってきた者からエリシアを庇って死んだのだと思われていたが、ゼファーはガルムに疑いの目を向けた。

 今回の冬、ゼファーはまずリリスのことを片付けた。

 そして、わざと一週間見せつけるようにエリシアと過ごし、ガルムを捕えようとしたのだった。

 ガルムは殺人未遂で捕らえられた。


「ガルムのことを伏せて驚かせてすまなかった」

「敵を欺くのは味方からですものね」

「それもあるけれど、エリシアとミア、ガルムは特別な関係だから。出来れば俺の勘違いで、これからもエリシアの心の支えになってくれていたら、と思っていたんだ」

「そうだったの」


 ずっと側にいたガルムの暗い感情には気づいていなかった。

 気づいていれば何か変わっていたのだろうか。

 考えてもわからない問い。エリシアは首を振って考えを払った。

 

「一週間こもったのは、ただエリシアと一緒にいたかったというのもあるけど」

「ふふ、これから春がきたらずっと一緒にいられるのに」

「春を迎えるまで俺から離れるな。他にも要因があったら困る」


 きっと大丈夫だとエリシアは思った。

 それでもゼファーに抱きしめられたままでいたのは、エリシアもこうしていたかったからだった。

 

 ◇◇


「わあ、素敵……!」


 夢を見て、一度も二人で迎えることのできなかった春の訪れ。

 二人は穏やかに冬を過ごし、無事にエーテリア・リヴェルを迎えることができた。

 晴れ渡る空に白い雲。そして、色とりどりの花びらが舞う広場。

 長い冬が終わり、皆が外にでて幸せそうな笑みを浮かべている。

 

 エリシアはゼファーに肩を抱かれながら、その場を歩いた。

 

 町の広場は広く、そこに五十を超える出店がある。


「どれもおいしそう!」

 

 花びら型のフラワーパイをふたりで分ける。春の果実が詰まっていて甘酸っぱい。

 この日だけは食べ歩きをしてもいいと決めている様子で、ハーブと春野菜の串焼きを食べながら、飲食店以外も覗く。

 くじ引き屋やダーツの前で、キャンディスティックを舐めながら子どもたちが楽しそうに笑ってる。

 エリシアが手伝ったタルトやリースの店もある。


「エーテリ・ブルーミア! 素敵な春がきましたね!」


 二人に気づいた人がにこやかに声をかけて、春のあいさつを交わし合う。

 

 ずっと見たかった春がここにある。

 

 みんなが笑うこの場所に自分が立っていると思うと、エリシアは目元が熱くなる。

 嬉しくなってゼファーを見上げると、彼も瞳に涙をにじませて広場を眺めていた。


「夢みたいだ。……春に、エリシアと二人で立っているなんて」


 エリシアよりもずっと長く冬を過ごしてきたゼファー。

 何度もエリシアの死が訪れる冬を越えてきた彼の言葉は重みがある。

  

「諦めないでくれてありがとう」

「エリシアのことを諦められるわけがない。エリシアがいないと春なんて来ない」


 二人はしっかりと手を握る。


 ――ここにあなたといる。


「あ、ここにいらっしゃいましたか!」


 後ろから声が聞こえて振り返るとミアが手を振っている。


「今からルミペタリスを飛ばしますよ! 二人の準備はいいですか!」


「ええ、ここにあるわ」


 エリシアはかごに入ったふたつのルミペタリスを取り出す。


 透明な魔法の花。ここに好きな色を入れて、願いを込めてから空に放つ。エーテリア・リヴェルのメインイベントだ。

 エリシアは暖かな橙色を選び、隣のゼファーは水色を選んだ。お互いに小さな魔法をかけると、手のひらの中に色が灯る。


 それを空に浮かべると花開き、上へ上へ飛んでいく。

 青空に色とりどりの鮮やかな花が咲いた。


「春ですねえ!」


 ミアの軽やかな声が空にとける。

 

 次の春も、その次の春も。あなたと一緒に過ごせますように。


 エリシアはふたりの未来に願いを込めた。


◇◇


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ゼファーの一途で真っ直ぐにエリシアを想う気持ちにキュンとしました! 素敵な物語でした!
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