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刻(とき)吸いの魔女  作者: かもライン
愛しの人を、赤ちゃんにしてしまったら
13/20

after 6 アパートの大掃除

 住所はもう、婚姻届等で手続したから分かっている。愛美めぐみは妙に行く事を渋っている様だが、スマホのナビに登録かけたから愛美からの誘導も必要ない。駅ではエレベーターを使い、電車に乗る段差はそれ程ないから駅員の手助けも要らないし、土曜のお昼間で混雑も無いから他の乗客に迷惑もない。2回乗り換え、程なくアパートがある最寄り駅に着いた。

 色々な物事がスムーズに流れていくのが気持ちいい。何かコレが物事の流れに乗るという事なのかとも感じる。


 それでも、もし健太のアパートまでの行程が紙の地図しか無かったら、地図音痴の優子にはかなり難しかったかもしれない。が、ナビが音声案内もしてくれるし、方向感覚抜群の百合子のサポートもあるから、とても心強い。

 でも途中、何が不満なのか、愛美は「う~う~」唸っている。


 愛美は、健太時代に散々歩いた駅からアパートまでの道を、寝た体勢のちょっと違う視点での景色を見ている。ナビシステムからの誘導なので、いつも歩いている道とは若干違うが、それでも全然知らない道ではない。近付いてきたらもう、ほぼいつものルートになる。


 ナビの誘導が『目的地に到着しました』を告げ、アパートの前に着く。

 築年数が30年以上の2階建てのアパート。入口の門を少し入った所に、鉄骨雨ざらしの階段が見える。

「このアパートの2階で合ってる?」

「あう!」


 一人では持ち上がらないので、一旦愛美とベビーカーとを二人で分けて、二階に上げる。2階の通路で再度愛美をベビーカーに乗せ、そのまま押して奥から2番目の、健太が住んでいた部屋の前で止まる。

 優子は鍵で開錠させ、重い鉄製の扉を開ける。


 入った。

『うわ!』

 第一印象。メチャ散らかっている。

 いや、散らかっているにも程がある。

 辛うじて、悪臭漂う様な部屋ではない事ぐらいが救いだが、見ているだけで幻臭がするのか、百合子は持っていたハンカチで鼻と口を覆った。

 入ってすぐ右は流しのある台所。左には、おそらくトイレと風呂であろう2つ扉があり、その奥が6畳の居間になるが、もう居間に足の踏み場は無い。


 台所は辛うじて流しやトイレまでの導線部分には物がないが、ペットボトル・ビールの空き缶だのコンビニ袋に入ったままの弁当ガラだのは所狭しと散乱している。

 居間の一番奥は簡易ベッドで、その手前にコタツ。両サイドにテレビだの衣装ケース等が並んではいるが、その床には雑誌だの、脱ぎ散らかした服だの靴下だのが散らかっている。

 居間の右横に衣装ラック。そこに替えのスーツとクリーニング上がりのワイシャツが数着、辛うじてシワがいかない様に吊られている。


「ん、まあ!!」

 優子の感嘆の声に、流石に愛美も諦めの表情。

 出来れば見られたくなかった。

 もしあの後で、優子と付き合う事になって、この部屋に呼ぶ事があったとしても、せめてもう少し片付けた状態で来て欲しかった。こんなだらしない人間と思われたくなかった。でも、もう今のこの身体では何も出来ない。

 しかし、次の優子の言葉には、流石に耳を疑った。


「何て、素敵っ!!」

「うぇ?」


 優子は目を輝かせ、バックから愛用のポケットが沢山付いた作業用エプロンを出して着用する。マスクをして、ぶ厚いゴム付き手袋もビシっと装着する。

 とりあえず百合子も、ずっと外にいる訳にはいかないので、玄関にベビーカーを入れて扉を閉める。


 優子は改めて、玄関の入り口にあったスリッパを履き(とりあえず、外来用として使用には耐えられた)、奥の部屋に行ってベッドの向こうのカーテン開け、ベランダにつながっているサッシも開ける。台所の流し奥にある窓も開け、換気扇を回すと、中にすぅっと風が通った。


 ♪ふん・ふん・ふんっ、と優子の鼻歌が聞こえる。

 そうこうしている間にも優子はまずゴミの分別をする。台所流しの下の収納からゴミ袋を発見し、そこにビン・缶・プラごみ・紙ゴミと分別して集め、雑誌・チラシ等もまとめて片付け、食器関係は一旦流しに持ってくるが、既に溢れかえっているからその横に集め、棚に入っている食器関係も綺麗かどうか確かめながら、服や下着もカゴに集めていく。

 そこで「よしっ!」と、小さくガッツポーズをしてから、流しの洗い物を始めた。『ファット・マ・イズ・クリーニン・ザ・ルーム』(※1)を鼻歌で歌いながら。


「本当に、惜しいわね」

 ポツリと百合子がつぶやく。


「うぇ?」

「優子ね。天性の掃除好きでね、部屋でも事務所でも手持ち無沙汰になったら幾らでも掃除を始めちゃうのよ。テレビ番組とかで散らかし放題の芸人やタレントの部屋を片付ける番組あるでしょ。アレ大好きでね、飽きないのか同じような番組、いつも見ているわ」

「ふぁあああ」

「あなた達はね、ホントに稀に見る相性だったと思うわよ。元の状態だったら」


 そう百合子は言いながら、やや片付いた台所に、もう一組あった来客用スリッパを履いて上がり、その優子の活躍が見える様に愛美を抱き上げた。


「おや?」っと、探す時に手が微妙に光り、魔女としての『探索』の力を使ったのだろうか、散らかった部屋の中にあった写真を見つけて手に取った。ちらっと横から見ると、おそらくキャンプかバーベキューとかの時のものか。

 写真の中の健太は不意に撮られたのか『?』の表情で、こっちを見ている。


「この、お肉を頬張っているのがあなた?」

 愛美は小さく頷く。


 百合子は、その姿を初めて見たが、確かに優子が逆ナンしたというのが分かる。百合子から見ても、結構な好青年ナイスガイであった。


「あ、でもダメかな? もし貴方が、前の身体で会社訪ねてきていたら、多分みんな放っておかないと思うから。特に涼子はバッチ好みね。私だって、もうちょっと若かったら、ねぇ……」

「わわわ」


「貴方、自分ではモテていないと思い込んでいるみたいだけど、意外とそうじゃないんじゃないかな。多分、鈍感なだけで」

「おううう?」

 そうなのか? と愛美は首を傾げる。


「でもこの部屋とか見たら、理恵と実花はドン引きするだろうね」

「んんんんん」

「涼子自身も、だらしないから、こういう事には気にはしないかもしれないけど、もし2人が恋人になって同棲したら、さらにトンデモないことになりそう。私だったら、絶対に入りたくないわ。そんな部屋」

「がががががが」

「そう言う意味で、優子みたいな天性の掃除好きと一緒になれば、もうこれ以上ない位の抜群相性!。あの子、料理の腕も絶品だから、薔薇色の結婚生活になったんじゃないかしら」

「うぉうぉうぉうぉうぉうぉ」


 その上で、改めて愛美と顔を見合わせ、ニコっと笑って、

「という訳で、本当に残念だったね」

 その一言に、愛美はガクンと脱力した。


 そんな時、カンカンカンと外の通路の階段を誰かが上がってくる音がした。

「あれ、窓が開いてる?」

「ほーか? いにょーるん?(そう? いるの?)」

 女性2人の声が、だんだん近づいてくる。

 やがて部屋の前まで来て止まり、

 ピンポーン♪ とインターホンが鳴る。


『え? どうする?』

『開けるしかないんじゃない。もう居留守は使えないよ』

 声には出さずに、2人会話する。

 仕方ないから玄関に近い百合子の方が、扉を開ける。元から鍵はかけていない。


「はぁ?」

 玄関の向こうに、年配と若い女性の2人がいて、声をあげた。


「くぁあぁぁ!」『母さんと則子!』

 愛美が思わず声を上げる。その声の内容は、優子と百合子には聴き取れたが、外の2人には分からなかっただろう。

 でもその存在に、思わず百合子はっぺたをペチンと叩いた。

『これかぁ! これが、嫌な予感の正体かぁ!』


 ありとあらゆる可能性を列挙すれば、出てきたかもしれない事。でも、流石に読み切る事は難しい。もう少し未来予知の精度が高ければ、事前対処も出来たかもしれないが、ただただ胸騒ぎの様な、今できる事を先延ばしにせず一気にやらないといけない感だけの焦りだけだったのだが、まぁ昨日中に色んな手続きを、さっさとやっておいて良かったと感じた。


 そう。現時点でもう戸籍上、優子は『倉岡くらおか優子』であり、愛美も『倉岡愛美』なのだ。そうなる予定か確定事項であるかは、印象でも大きく違う。


 ただ、出来れば万全の状態で会いたかった。出来れば事前に電話等してから。

 しかしこの様なタイミングで訪ねてきた以上、ここで会えたのは千載一遇かも。


 しかも愛美ちゃんのつぶやき。もう相手の正体が分かっているから、半歩だけでも先手が取れる。問題は、その順番。対処を間違わなければ、最悪なファーストコンタクトは避けられる。


「はぁあ? あんたー誰でー?」

 年配の方、つまりは健太の母であろう人が声を出した。

 健太の戸籍謄本を見た時、出生地が岡山県になっていた。健太自身はずっと普通の標準語で岡山弁らしきものは感じられなかったが、やはり母親は地の人らしく、ネイティブな岡山弁だ。


 ふと百合子の方を見る。

『優子! あなたが応えて』

 百合子は、心の声をアイコンタクトと一緒に送ってきた。

 最初の一声は、百合子じゃダメだ。

 うん、と優子は軽く頷いた。


「私、倉岡優子。この部屋に住む、倉岡健太の妻です」

「えっ!?」

「嘘~ぉ!!」


 とりあえず、意表を突くことで話の主導権は取れた気がする。一方的に、追いまくられて、決裂する事だけは避けたい。

「こちらは、春風百合子。私の母です。そして」


 優子は、前にいる百合子を紹介した上で、抱いている愛美の方を手で指しながら

「この赤ん坊は、愛美。私と健太さんの娘です」

 畳みかける様に情報を伝えていく。話を相手がちゃんと聞いてくれているのと、後で説明するのでは、受ける印象が全然違う。


「それで、あなた方は?」

 優子は、余裕をもって言いきれた。余裕を見せる事で、いくらかは落ち着いて会話出来そうだ。


「うちは千代ちよ。健太の母じゃ。で、こン子は則子のりこ。健太の妹じゃあ」

 なるほど。愛美が、則子と呼んだ方は、やっぱり健太の妹になるのだ。おそらく、そうだろうと予想していたが。


「それはご報告が遅れて申し訳ありません。こちらも急に色々とありましたもので」

 と、深々と頭を下げた。


「それで、お義母さまは今日、どういった用件ですか?」

 何とか、双方の事情の説明が終わるまではスピーディに話を展開させておきたい為、慇懃いんぎんな口調ではあるが淡々と話をする。


「こン子がね、」

 母は、横にいる則子の方を見て

「こっちの大学受験するんじゃが、合格しちゃらーこっち住まんといかんから、こっちの事とか聞こー思て電話したんじゃが、ちぃとも出ん。でー会社の方に電話したら、コロナで休んじょう言われて、電話にも出れん位に調子悪いんじゃったら大変じゃあ思て、今朝に則子も連れて新幹線乗って、こんアパート来たんじゃが、インターホン鳴らしても出て来んけー、中で死んじょっとらせんか思たけど、まずはこン子の学校見学して、念の為帰る前に、もぅ1回見に来たんじゃが、外の窓が開いててびっくりしたけん上がって来たんじゃあ」

 なるほど、コロナを会社を休む言い訳にしたけど、昨日の今日で、こういう展開になるとは予想できなかった。

 でも逆に、こうして会ったからこそ、色々と説明するのに都合良いかもしれない。


「で、健太はどーした。病院か?」

「分かりません。私たちも連絡取れなくて。でも私、合鍵持っていますから様子見に来たところなんです。健太さんはいなくて、というかベッドにもコタツにもいた気配が無くて、とりあえず散らかった部屋を片付けしていたんです」

「あー?、おらんのかぁ」

「今のところ、そんな感じです。心配で」

「ほうじゃろうなぁ」

 向こうがそう思っている以上、同様に行方不明で押すしかない。


「こちらとしても結婚というか、色々報告しないといけない事もあったのですが、これもかなり急な話で、申し訳ないのですが……」

 百合子からも『伝心』でフォロー入れているが、どうも優子では説明が難しい。仕方ない。ここはこっちから説明した方がいいか、と思って百合子自身が口を挟むことにした。ちょっと前に出る。


「実はね、この子が妊娠している事、健太さんにはずっと隠していて、気付いた時にはもう臨月でして。この事を健太さんは知っているのかと聞いたら、知らない、教えて負担になりたくないから、こっそり産んで一人で育てようとしていた様で。

知ってて、とぼけるなら仕方ないけど、知らなかったなら逆に可哀そうじゃないかと、知らせるように言ったのよ。

で、そうしたら『結婚しようって』言ってくれたって。でも健太さんはその時ちょうどコロナにかかっていて、でもうこっちも出産間近。出産届より結婚届の方を先に出さないと、父無し子になってしまうから、代わりに私がこのアパートに来て、届に必要な印鑑とか身分証明書とか預かりに来て、その時にはちゃんといたんですよ。どれ渡したらいいのか分からないからと、この財布ごと預かって」

 そう言って、健太の財布を見せた。中に免許証とかマイナンバーカードとか入っている。


「それで、この子が生まれたのは一昨日前の夜。婚姻届けと出産届出したのが昨日。で、その報告と、この子を見せてやろうと思って来たけど、この部屋には健太さんは居なかったんです」

 これは優子から説明。

「変な話じゃねぇ」

 何か凄くミステリーになってしまった。辻褄合わせようとしたら、どうしてもこんな話になる。でも真実の、ここにいる赤ん坊が、あなたの息子の健太さんです、などと言える訳がない。

 強引なハードランディングだが、なんとか着陸させないと。


「とりあえず夕方まで待って、それでも帰ってこなかったら、捜索届を出そうかと思っています」

 実際には絶対に帰ってくる訳が無い。だが変に希望感は出さない様に、行方不明の線を押したい。


「ほうじゃね。それでこっちも納得ばぁでけんけど、連絡先だけ交換して、進展あったら報告するゆー事で。則子、連絡先を教えたって」

「うん」

 妹の則子さんは、手帳を破って連絡先・住所と名前と電話番号を書いた紙をくれた。

 こっちも同様に、優子の名刺に電話番号書き入れて、渡した。

「平日の昼間なら、この会社に連絡しても大丈夫です」

 ぎこちないが、何とか形に持って行った。


 仕方ない。これだけ急に色んな情報を出されたのだ。冷静ではいられない。こちらの事も健太を騙してさらった人かも、と思っているかもしれない。

 ただ、話だけは通した。こちらは悪役になってもいい。ただ今後、冷静に考える時間を経過させれば、愛美と倉岡家の関係を結ぶチャンスもいつか出来る筈。和解はもう少し先か。

 千代と則子さんは軽く礼をして立ち去ろうとした。


「ああ~、あう~」

 愛美が身を乗り出して、手を伸ばしている。その手の先に、母の千代がいた。

「あ?」

 千代と則子はそれに気付いた。でも、目をそらした。それ以上に発展は無い。

 だが百合子は、愛美が手を伸ばしている意図に気付いた。必死で伸ばしていた。このまま帰す訳にはいかない。


「あの」

 百合子は、その2人に声をかけた。


「今日は、1回だけで良いので、この子を抱いて貰えませんか?」

 その百合子の声に合わせて

「ああ~、あう~」

 千代は、身を乗り出して手を伸ばしている愛美が見えた。

 流石にそう聞いて、無視しては帰れなくなった。


「じゃあ」

 千代は、愛美を抱き上げた。

 育児の最後がこの則子だから20年近いブランクはあったが、身体は覚えている。全く危なげない手つきで愛美を抱いた。でも、それだけ。


 一回、ギュッと抱きしめ、百合子の方に返そうとした。

 とたんに


「ひゃぁあああああああああ!!」

 愛美が大きく泣き出した。

「え? え?」

 百合子に返そうとした手が止まる。


「あ、やっぱホンマのお母ぁじゃないとおえん(ダメ)か?」

 と、迷って優子の方に返そうかとかするが、愛美の手が千代の服をギュッと握って離さない。

 こんな小さな子の、どこにそんな力があるのかという位に強いが、その握った手の為に、戻す事も返す事も出来ない。強引に引きはがそうとすれば出来ない事も無いだろうが、必死で掴む手を引き離すなどという事は、ちょっと出来なかった。


「ふぁあああああ、ああああ、ああああ!!」

 愛美は大泣きしたままだ。

「あー、ホンマ変な子じゃねぇ」

 顔を見る。必死だ。顔を真っ赤にして、とても必死で泣いている。


 そうして改めて、その子の顔をまじまじと見た。

 りりしい眉に、意思が強そうな大きな口。丸くて、ちょっと垂れ目。

 本当に健太によく似ている。というか赤ん坊の時の健太に瓜二つだ、今ようやく落ち着いて見る事が出来た。そして自分自身の気持ちに気付いた。


 なぜ、この健太の子供を、言われるまで、抱こうとも顔を見ようともしていなかったのか?

 何をしてきたのか?

 ここにいるのは、息子の、健太の、初めての子。そして千代にとっても初孫にあたるのに。


「あ~、泣かいで、泣かいで」

 千代は、抱いた愛美を、横にゆっさゆっさと揺らす。まさに何十年も前からやってきた事を思い出した、いや何も考えずに身体が自然に動いた。健太を、そしてその下の姉妹達を、ずっとあやしてきた事を。


「ふぁあああああああああ!!」

 愛美は大きく泣いている。必死で泣いている。

「ほうじゃねぇ。健太もこんな顔して、泣いてばぁいたねぇ」

 泣く顔が、泣く声が、本当に健太そっくりだった。


 ちなみに則子の時はちょっと違う。「ふぃええ、ふぃええ」と、もっと力弱く、一回一回に大きく息継ぎしながら、でも顔はくしゃくしゃになりながら。引き絞る様に泣いていたものだ。

 だからもし則子が子供を産んだとしたら、そういう風に泣くかもしれない。


 でも、この子は健太の子だ。健太そっくりに泣く、健太の子だ。

 その婚姻証明や出産証明などを見せてもらう必要はない。DNA鑑定も必要ない。

 こうして自分と直系で繋がっている、千代の孫で間違いない。


 いつか顔がほぐれ、笑顔になっていた。

 その顔で愛美に向かって、微笑みかけていた。

「この子は健太の子じゃ、いや、健太の生まれ変わりじゃ」

「兄貴、まだ死んでないって」

 則子が千代の脇腹をつつく。


 でも千代はそんな事、気にもせず、話を続けた。

「昔々でなぁ、健太が2歳くらいじゃったか、祭りの準備しとった時、健太がいきなり、うわぁっ言ぅて裸足で駆け込んできて、このエプロンした足にしがみついて離さんのよ、泣いて泣いて」

 千代はちょっと遠い目をした。


「何でそんなに泣いとーか聞いても何も答えんのじゃけど、ふと窓の外にハッピ着た鬼だか天狗だかの真っ赤なお面被った若い衆が通って行ったんじゃ。多分、それ見て、本物のお化けかぁ思って逃げてきたんじゃろうなぁ」


「え? そんな事が……」

「アレはお面被った手伝いのあんちゃんじゃ言うても聞っきゃあせんで、ずっと凄い力でエプロン握って離さんのじゃ。ちぃとばなぁ」

「あー、そんな事あったんだ。秋の鎮守さんの祭りだよね?」

 改めて、千代は愛美の泣き顔を見た。

 本当に、顔も表情も、そんな力いっぱい泣くところも、元気いっぱいなところも、健太にそっくりだ、と思い出していた。則子も良く泣いたが、泣き方が全然違う。


「ふぁあぁ、はぁあ? えくっ、えくっ!」

 愛美がようやく泣き止んだ。泣き止んだけど、ちょっとヒクヒク痙攣している。

「ほぉ、泣き止んだか。落ち着いたか?」

 千代は愛美を頬ずりする。愛美はその千代のほっぺたを、愛美はペチペチと叩く。

 キャッキャとはしゃいで笑っている。


「ほ~じゃねぇ。祖母ばぁちゃんが、でーれー(とっても)あかんかったねぇ」

 そして千代は優子の方を向き、まっすぐ顔を見た。


「すまんかったねぇ。この子を。健太の子を産んでくれたあんたに、まずお礼言わんとおえんかった(駄目だった)にねぇ」

「え? いえ、そんな」

 千代の態度の変化に、優子は大きく戸惑っていた。


「ありがと。ありがとなぁ、百合子さん。この子ぉ産んで。健太の嫁になってくれて」

 それを聞いて、則子が千代の脇腹をちょんちょんとつつく。

「違うよ、優子さんだよ。百合子さんは優子さんのお母さんの方」

 と言いながら、その後ろの百合子の方を指さす。

「あ、ああ」

 一瞬、慌てながらも、顔を戻して優子の顔を見た。


「ああ、優子さん。変な事ばぁ言ぅてごめんせぇ。健太ぁ取られてしもたんじゃのぉて、勝手におらんなって、そんで迷惑ばぁしとんは、あんたらも同じじゃけぇねぇ。それに、あんた倉岡の姓で、倉岡の嫁に来てくれたんじゃねぇ。この愛美ちゃんも一緒に」

 落ち着いて、頭の中を整理していった。


「健太の事はええ。もし、見つかったらそん時教えてくれたら。でももし見つからんでも」

 千代はそう言いながら、少し息も正して

「健太と一緒じゃのーても、優子さんと愛美ちゃんだけでも、改めてウチにおいらんせー(いらっしゃい)。この子のお祖父ちゃんと、ひい祖母ちゃんと、もう一人の叔母さんにも紹介せんとなぁ」

 千代は千代で、何か感じるものがあって、ひょっとしたらもう、健太には会えないかもしれないと予感したのかもしれない。


「ちょっと、もう一人のって、私もオバさん?」

「ほりゃあ、叔母さんは叔母さんじゃ」

「せ、せめて10代のウチはお姉さんって言って」

 則子は抱かれた愛美に指握らせて、握手させながら言い聞かせている。


 千代は、則子の方は好きにさせておきながら、顔を優子たちの方に向けて言った。

「ウチらー岡山の奥の方で、でーれー(とても)遠いけん、お泊りのつもりで」

「あ、あ、はい。喜んで」

 優子も、この急展開で、喜びたいのにまだ感情の方が追い付いてきていなかった。


「良ければ、義母さんも一緒に」

「あ、はい。はい。是非」

 少し蚊帳の外から見守っていたところに声をかけられ、百合子も反射的に言葉を返した。


「じゃあ、今度こそお母ぁにお返しすんでー」

 千代は、抱いた愛美を優子に渡した。

 その時には愛美はすっかり泣き疲れて眠っていて、無抵抗の状態だった。

 改めて、優子は愛美を抱きしめた。

 この少なくとも最悪の状態は回避しただけの状況から、和気あいあいに持って行った功労者に。


「あ、あのさぁ、ところでなんだけど」

 もう一人の蚊帳の外だった則子が、優子に話しかけていた。

「この部屋はどうするの? 解約するの?」

「え、え?」

 そんな事は、まだ考えていなかった。でも、急がないとはいえ、いつか整理しないといけない案件のひとつだったが。


「でもまぁ、健太さん帰ってくると思うし、もしそうでなかったとしても帰る場所は残しておきたいけど……」

 少し、スケジュール的なものを頭の中で考えて、

「とりあえず部屋は掃除して整理して、しばらく維持して待ってみようと思います」

 夫が行方不明になった状態を、頭の中でシミュレーションしてみた。


「じゃ、じゃあさぁ。私、住んでもいい?」

「え?」

 則子は、ちょっと意地悪っぽい笑いをしながら、おそらく先程までこの状況を考えていたのだろう。その考えを打ち明けていた。


「私、絶っ対にこの春に、こっちで大学で合格勝ち取るから、いけるなら、この部屋から通いたい!」

「あ、ああ。そういう事」

「そしたら、家具も家電も新しく買い足す必要ないし、大きさも手ごろだし、駅まで近いし。ただ駅から都心までは遠いけど」

「ええの? こんな汚ったねー部屋で」

「あ、あ、綺麗に掃除します。それまでに」

「あ、ほーか?たいぎ(面倒)ばぁかけんのぉ」

「いえ、掃除は大好きです!!」

 優子は作業用エプロンで、愛美を抱いたままギュッとこぶしを握って、小さくガッツポーズして見せた。


「ほなら安心じゃあ」

 千代は、その握ったこぶしのその上から両手で握って、


「そしたらホンマに、これからよろしゅうなー。出来りゃあ一緒にご飯ばぁしたいとこじゃけんど。こっちも早う出んと、帰れんのじゃあ」

 あ、岡山の奥地って言っていたなぁ。どれ位奥地なんだろう。


「あ、済みません。こちらこそ何も出来ませんで」

「えーて、えーて。今度ゆっくり」

 そう言いながら、千代は大荷物をよっこいしょと持ち上げ、通路を歩いて行き、えっさえっさと階段を降りて行った。その後ろから則子も付いて行き、階段の角でちょっと手を振って、見えなくなった。


 優子も愛美を抱いていなければ、もう少し先まで見送りたかったが、この急展開に呆然としたまんまだった。

「終わったね。全部。しかも最上級に良い状況で」

 百合子も、同様に呆然としながらも、ほぼつぶやく様に言った。


「そうね。凄かったわね」

 何が凄かったのかは、具体的に説明できないけど。


「じゃ、今度その岡山に行く準備というか、計画しないとね。年開け位かな」

「そうね、あんまり待たせちゃいけないし。でも、まだ愛美は新生児だから、生後2ヶ月くらいだったらいいかな?」

 もう既に生後直後で役所回りして、今もこうして外出させて来ているけど、まさか生後1週間で長距離を帰省させる訳にはいかない。そのまま住むのならまだしも、日帰りか1泊ぐらいで帰らないといけないのに。

「ねぇ、百合子も一緒に来てくれる?」

「嫌だけどね、愛美のお祖母ちゃんって言われると思うから。でも、愛美連れて、新幹線乗って、ローカル線乗り継いで、一泊してって、1人じゃキツイよね」

「うん……」

 愛美+赤ちゃん用品+色々な荷物+お土産を1人でとなると、ほぼレンジャー部隊の装備並だ。2人でも何とかというレベルかも。


「それとさぁ」

「何?」

「愛美、初めて泣いたね」

「え?」

 そう言われて、優子もはっと気付いた。


「産まれた時も、オムツ濡れてお腹すいて優子が全然起きて来なかった時でも、役所手続きであちこち連れ回した時でも、予防接種の注射打たれた時でも泣かなかったのにねぇ」

「そ、そうね」

 先ほどの、千代に抱かれて泣いていた愛美の顔を思い出していた。

 そして愛美をあやしていた千代の、菩薩の様な姿と表情も。


「母は偉大だね」

「わ、私だってお母さんだもん!」

「年季が違うよ年季が」

「私だって、私だって……」


 改めて、優子はこぶしを握る。

「いつかこの胸で泣かせてやる!」

「がんばれ~」

 百合子は小さく手を振った。


 その前にこの部屋の掃除だね、と目の前の惨状を見て、現実に戻る2人であった。


  ――― after 7 年末 と 年始 ―――


※1 ファット・マ・イズ・クリーニン・ザ・ルーム〜お掃除ママのうた〜は、作詞・作曲・歌:種ともこ で、お掃除好きなママに題材にした歌である。NHK・みんなのうたでも放送された。

 歌詞的には、今日は天気が良いからゴキゲンに大好きな大掃除を始めましょう♪ といったノリノリでママが掃除をする内容である。

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