(前編)レストランでの出会い
「何かおかしい。何なんだ」
心臓が高鳴り、全身が軋む様に痛い。頭痛もする。俺はベッドから起き上がった。
「どうしたの? 健太クン」
ベッドの中から優子さんが声をかけてきた。
「喉が渇いた。ちょっと水を飲んでくる」
「そう……早く戻ってきてね。寒いわ」
優子さんの沈んだ声。寒いじゃなくて寂しい、かもしれない。でも寂しいと言われるとベッドから出られなくなってしまう。優子さんの優しさ。
「すぐ戻る」
「ええ」
俺はベッドから出て部屋の外、そこからキッチンを探した。奥の方か。
食器棚からガラスのタンブラーを取り、とりあえず喉の渇きをいやす為に水道の水を飲んだ。
落ち着いてきた。
部屋の肌寒さに、頭の中も少し落ち着いてきた。
嗚呼、夢じゃないんだ。
ここは、とあるマンション。ただし、俺が住んでいる所ではない。
行きずりの、本当に行きずりの女と意気投合して、この部屋に来た。その女の住んでいる所へ。小さいが事業をやっていて一人暮らしだそうだが、中々家賃も高そうなマンションだ。
逆ナンだった。正直、これまでの人生でこんな事は初めてだ。
自慢ではないが、俺自身は結構自分の容姿はイケていると思っている。
身長は190あり、身体も鍛えている。正直30越えて、ちょっと弛んできたかなとは思うが、それでもまだまだ体力で20代の若者には負けない。
ただし、口下手と不器用な性格で、あまり女性との付き合いは少ない。
そんな俺が会社帰りのクリスマスの夜に特に行く所もなく、かといってコンビニ弁当買って部屋に一人というのも癪だったので町へ出て、たまにはお洒落なレストランでと思って入ってみた。
入った所でウェイターに、予約があるかどうか聞かれたが、当然予約なんかしていない。慇懃無礼に、今日は既に予約でいっぱいですと断られた。考えてみれば、世間一般、特別なディナーを楽しみたい日の代表がこのクリスマス・イブの夜だ。
仕方なく帰ろうとしたところを、中から呼び止める声があった。
「あの、相席で良ければ、ご一緒しません?」
見れば、おそらく年上、上品そうな身なりの女性だった。
「え?」
目が合って、にっこり微笑んだ。とても魅力的な人だ。
知的な感じがするのは、細身セルフレームの眼鏡をかけているからか?
「あの、いいんですか?」
「ええ、よければ。本当は2人で来る予定だったけど、急な予定が入ってしまって。でも予約キャンセルするとお店に迷惑だったから、1人で来たところなの」
「クリスマスに2人でって」
それが彼女にとって大事な人だったのなら、その代わりに自分が、というのは少し野暮だ。
そんな表情を読んだのか、
「あら違うのよ。一緒に来る予定だったのは、同僚の女性よ。急な出張が入っちゃって、彼女も楽しみにしていたのだけど」
あ、ああ、そうなのか。
俺は、そういう事ならと彼女の正面の席まで来た。
ウェイターが来て、俺のコートをハンガーに掛け、イスを引いてくれた。先程は追い返そうとしていた事から180°反転して、歓迎モードになっている。
座って、彼女と正対する。
改めて、とても魅力的な女だった。
目が合って、ちょっと意地悪そうに笑い、
「こんな日こんな所で一人食事に来るって、もしかして彼女にフラれちゃった?」
突然、核心に触れる様な発言。でも嫌らしい感じは一切ない。
「それだったらまだマシですよ。少なくとも彼女がいたって事ですから。そういうのは、ここ数年ご無沙汰ですから」
「そうなの? それは良かったわ」
「え?」
な、何が良かったのか?
「私もずっと一人よ。一人で寂しかったの」
え? うわっ。
心臓が大きく、ドキンと鳴る。
そんなタイミングを見計らってなのか、ウェイターがワインのボトルを持ってテーブルに来た。
それぞれのグラスに注いでくれる。
何か銘柄とか言っていたようだが、頭の右から左に抜けて消えていく。
注がれたワインの色を見て、ああ白ワインなのかな? と見て分かる。
でも、ワイングラスに炭酸の泡?。
「え、これシャンパンですか?」
そんな慌てた俺の言葉とは対照的に、落ち着いた声で
「違うわ。スパークリングワイン。そんな高いものじゃないから安心して」
「あ、ああ、スパークリングワインですか」
あまり高い酒などに詳しくない俺でも、スパークリングワインぐらいは知っている。少なくとも一杯何万円もする、という事は無い筈。
それぞれのグラスにスパークリングワインが注がれた。
「それじゃ、乾杯しましょうか?」
彼女は軽くグラスを手に持った。
それに合わせて、俺もワイングラスを持って目の前に掲げた。
「じゃ、乾杯」
グラス同士が、チリンと音をたてた。
そして彼女は、美味しそうにグラスに口をつける。
俺もワンテンポ遅れて、スパークリングワインを飲んだ。
少し甘みがあるが炭酸のせいか、かなり飲みやすい。
アルコール、というか飲み物が入った為か、俺もようやく落ち着いた。
曰く、彼女の名前は『春風 《はるかぜ》優子』。名前の通り、穏やかでとても優しそうな人だ。彼女は小さいが事業を経営していて、共同経営で組んでいる人と今日のこのディナーを楽しみにしていたけど、その人は急なクレーム対応で地方に飛んだらしい。
でもって優子さんは独身。正確にはバツイチ。
子供もなく、彼女がその同僚と一緒に立ち上げた事業が忙しく、すれ違いが続き別れたとか。
で事業が安定した今になって、子供が欲しいと思う様になったが、30代を過ぎた今(という事は、やはり俺とは一回りぐらい年上なのか?)高齢になる前に、と焦っているとの事だ。
「でも、何で俺に声をかけたんですか?」
正直なところ聞いておきたかった。なぜ俺だったのか。
「そうねぇ、言われてみたら何でかなぁ?」
考える彼女の目が、メガネの中で寄り目になった。とても可愛い。
「何か店の入り口から、やり取りが聞こえてきて、見たら貴方の高い背格好とか見えて、何かつい声かけちゃったんだけど、理由って言われたらねぇ……」
「はい」
「そう。実は私、筋肉が大好きなの」
うっく!!
ちょっと、むせた。
「世間の男の人が、自然と女性の胸とかお尻に目が行くみたいに、私、男性の腕とか胸とか腹筋とか見るのが好きなのよ」
世間の男全般がそうなのか?。でも、俺はそんな女性の胸とかお尻にとかは……あ、いや、見ているかもしれない。
でも色々と聞く、超巨乳が好き!、というのは違う。さすがにあれは気持ち悪い。
だからといってマニアックな、貧乳愛好者でもない。
その点で言えば、優子さんの胸はちょっと大きいかな、という位で俺の好みとバッチリ合う。
「あ、」
ちょうど俺の視線が彼女の胸に行っていたのがバレた。
少し気まずいな。でも、そういう事なら。
「あ、じゃあ少し目の保養になれば……」
胸を見ていた事の照れ隠しも兼ねて、スーツの上着を脱いだ。でも、さすがにこんな所でワイシャツまで脱ぐ訳にもいかないので、袖をまくって力こぶだけ見せた。
まだまだ腕の筋肉は衰えていない。
「うわぁ」
それを見て彼女は拍手するように手を合わせて喜ぶ。
「学生時代は水泳やってました」
「種目は?」
「基本は自由形ですが、バタフライもいけます」
「じゃあ、さぞ……」
彼女の視線は、腕から身体の方に移ったが、広背筋とか大胸筋とか見せる為にシャツまで脱ぐのは駄目だろう。
ベルトを緩め、ワイシャツの下を少しだけ捲り上げた。腹筋の一部が見えた筈だ。
流石に現役選手だった頃みたいにくっきりとシックスパックはないが、それでもまだ無駄肉は付いていない。一般的に鍛えている程度には見栄えがある筈と思って見せたが、優子さんは両手を口に当てて喜んでくれていた様だ。
ワイシャツは戻したが、スーツは着直すのをやめ、椅子の背にかけた。
本当に彼女は、一回り年上なんて感じさせない位に可愛い。
表情が変わる百面相は、ひとつひとつ目に焼き付いていく。
基本、俺はメガネフェチではなかったが、メガネも魅力的なアイテムなんだなと感じた。
その上で、次々変わる話題は本当に飽きない。とても知性的だ。
しかも俺のちょっとしたバカな冗談にも、コロコロと笑う。
ちょっと物足りない位の肉料理が下がり、料理人が大きな丸い蓋が乗ったワゴンを持ってきて、おもむろにそのクローシュを開ける。
ローストされた巨大なエビがいた。50cmぐらいはありそうだ。
そして料理人はそのエビを、ちょうど中心で2つに切り分け、それぞれお皿に乗せて提供してくれた。
これが、今回のメインディッシュという奴か。
「凄いですね。オマールエビですか?」
「ええ、そう。これがあるからこのコースはミニマム2名なのよ。オマールエビ食べた事ある?」
また意地悪そうな顔して聞いてくる。
「いえ、ないっス。あのロブスターの殻とか頭とかがあって、お皿に身だけ取り分けるバイキングとかではありますが、正直、オマールエビとロブスターの区別すらつかないです」
そう言うと優子さんは思いっきり吹き出した。
暫く笑って、落ち着いて、やっと
「あのね、ロブスターとオマールエビって国が違うだけで一緒なのよ。英語だとロブスター。フランス語でオマール」
「あ……」
凄い失敗だ。
でもまぁ、優子さんが機嫌よく笑ってくれたから良いか。
「てっきり、ズワイガニと松葉ガニの違いみたいなものかと……」
「そうね、本当にそうね」
そう言いながらも優子さんの笑いは止まらない。
あ、また再度やらかしたか? ズワイとタラバって言うところだったか?
でも全然それに自信がないから訂正も入れないでおいた。
話が尽きないまま食事は、オマールエビも食べ終わり、それぞれのグラスも飲み終えたぐらい。
「ねぇ、もう一杯ぐらい良いでしょ?」
当然、それに異論はない。
「シェリー酒飲んでもいいかしら?」
彼女は上目遣いに、とても色っぽい声を出した。
「ええ、大丈夫っス」
彼女はウェイターを呼んだ。
「ティオ・ペペあります?」
ウェイターは大きく頷いた。
「ではそれ、グラスで2つ」
正直、シェリー酒って名前くらいは聞いたことあるけど、どんな酒なのかまでは知らない。
まずワインのものよりちょっと小さいグラスが出てきて、綺麗な薄緑色のビンから、それぞれのグラスに注ぐ。色はまさに黄金色。
「じゃあ改めて、乾杯」
「乾杯」
グラスをチンと合わせて、彼女はくーっと一息で飲む。
俺も口をつけてみる。普通のワインより、ちょっとアルコールが強い。全然、甘みはない。むしろ酸味が強すぎる。一口飲んで、舌が痺れた。
「どうかしら?」
彼女はさらに色っぽい目で、こちらを見る。
「あ、酸味がキツイですね。ちょっと苦手かな?」
「あ、あら、そう?」
彼女の表情が、少し曇る。
「じゃぁ、代わりに飲むわ」
俺の手から、シェリーのグラスを取ると、彼女は一息で飲み干した。
それから少し、彼女の口数が減った。
あ、機嫌を悪くしちゃったかな?。
でも、このお酒を苦手って言っただけだし……。
その後、デザートとコーヒーが出てきて、それをゆっくり楽しんでコースは終わった。
機嫌悪くしちゃったけど、でも俺的にはここで終わりになんかしたくない。
勘定になった。
「あ、折角だからここは」
俺は財布からカードを出す。しかし
「ダメよ。このコースはミニマム2名なんだから、貴方が食べなくても値段は一緒。むしろ、食べてくれたおかげで食材も無駄にならなかったぐらい」
その言葉は、こちらの好意も拒絶された感じに受けた。
ゆっくりと帰り支度を始めている。
このままでは、終わってしまう。
いいのか? 本当にいいのか?
「じゃ、せめて送らせて貰って良いですか?」
「え? あらぁ」
その言葉に彼女の目が大きくなった。
心なしか、機嫌も直った感じ。
「嬉しいわ、じゃあそうしてくれる?」
俺はアプリを使ってタクシーを呼んだ。
その間に彼女は勘定を済ませ、2人で店の外に出た。
「あら?」
空からチラホラと、雪が降ってきていた。
初雪ではないが、それでもここら辺では珍しい降雪が嬉しいサプライズになった。
まさに一寸したホワイトクリスマスだった。
「綺麗ね」
彼女は、空を見上げたまま両手を広げてクルクル回った。
嗚呼、なんて素敵なんだ。
まもなく来たタクシーに乗って、彼女の住むマンションへ。オートロックの高級そうなマンションだ。
頭の中の地図を検索する。ここからなら最寄りの駅も近いし、まだ終電にも早い。
だからタクシーを降りて、タクシーはそのまま帰した。
「あ……」
出て、彼女はよろけた。顔が少し赤い。
「少し酔っちゃったかな?」
最後に俺の分のシェリー酒も飲んだせいか?
「肩貸しますよ。部屋まで送ります」
「ごめんなさいね」
彼女は俺の方に身体を預ける。
「部屋は、何階ですか?」
「4階の403号室よ」
ふと見るとエレベーターの横に階段が見えた。そしたらもう、これしかないか。
「じゃ、しっかりバッグは持っていて下さい」
「え? どういう、うわぁ」
俺は、彼女を横抱きにした。彼女の腕は、肩を貸している時のまま俺の首に回っているから、その反対側の腕で足を持って持ち上げたのだ。
いわゆる『お姫様だっこ』。
おそらく彼女の嗜好には合っている筈。
俺にとってはある意味、最終兵器だった。これを拒まれたら、もう俺に成す術はない。
幸い、抵抗らしい抵抗は無かったし、何も言われていない。
その時に彼女の表情が見えていたら気付いていただろうが、後で聞いたら、あまりの感激にフリーズしてしまって、何も出来なかったそうで。
俺はエレベーターではなく、階段でもって上の階に上がった。
もしエレベーターに乗って、他の住人と一緒になったら、かなり気まずいから。
階段であっても見られてしまうかもしれないが、すれ違えば見られるのも一瞬だ。
一歩一歩、力強く、ゆっくり階段を昇って行き4階に着いた。
4階フロアに上がって目の前の部屋は407号室だった。右手の部屋が408号室と見えたから左の方に行けば良い。すぐに403号室の前に着いた。
「あ、ちょっと待って」
彼女は器用にも抱かれたまま、鍵を出して開錠した。
ドアを開けて中に入る。
「ねぇ、このまま奥まで運んで」
彼女は、また器用に電気を付け、鍵を施錠し、靴も脱いだ。
俺は言われるがまま玄関で靴を脱ぎ、入った廊下を奥の方まで歩いた。
「そのドアを開けて」
ドアを開ける。中はベッドルームだった。
優子さんは抱かれたまま、俺の頬に手を添えて、濃厚なキスをした。
「ん!?……」
「もう、帰るなんか言わないわよね」
膝の力が抜け、そのままベッドになだれ込んだ。
ちなみにその時俺が考えていた事は、間抜けにも『タクシー待たせず帰して良かった』という事だったり。
逆にこちらがフリーズしてしまっている中、今度は俺の方が彼女のされるがままになっていた。
彼女の手で、スーツとワイシャツを脱がされた。
濃厚な一夜になりそうだった。
――― 後編に続く ―――