一人前を目指して
ガチャガチャ……ガチャ……
静かな部屋に、手術シミュレーターの音が響く。練習も終盤。あとはここをこうして……こうして……
「よし、オッケー」
俺の声で、さくらがぱっと顔をあげた。
「……斗真先生、さすがです……!まだまだ敵いません……!」
「はは、よかった。まだ先輩でいられるね」
「絶対、追いつきます」
「あはは」
笑ってはいるけれど、内心はかなりハラハラしていた。さくらちゃんはかわいい後輩だけど、後輩には正直、負けたくない。
ここは、手術の練習室。手術上達の近道は、なんといっても数をこなすこと。と言っても生身の人間でばかり練習するわけにはいかないので、このような練習室に何種類かのシミュレーションが用意され、練習したい奴はいつでも利用できるようになっている。病院の設備投資に感謝だ。
俺がシミュレーターで練習している横で、さくらが熱心に糸を結ぶ練習をしていた。初心を忘れない姿勢は見習いたいと思う。
「さて、俺も糸結ぶ練習しよ〜」
「うわーなんか馬鹿にされてる気がします……!」
さくらの隣に陣取り、カチャカチャと道具を動かしていると、とりとめのない話が始まった。
「吉田とかと連絡とってる?」
「よっしー?あ、はい。グループラインがあるので、それで休みの日とか近況報告しあってますよ」
手元に集中したいのか、いつもより早口でさくらが答えた。それには構わず(ごめん)話を続ける。
大学は違えど、面識のある後輩たちを思うとなんだか懐かしかった。みんな元気でやっているだろうか。
「あいつどの科にするかかなり迷ってたみたいだけど、結局どうしたの?」
そろそろ自分の専門を決める時期に『斗真さーん!俺どーしよー!色々興味がありすぎて決められなーい!』と電話がかかってきたことを思い出しながら聞いた。
「消化器外科に取り込まれたそうです。なんか、初期研修の同期に誘われて飲みに行ったら教授がいたらしくて。『言いくるめられたー』って言ってました」
「あっはっはっはっは!!」
断りきれずに結局押し切られた吉田がリアルに想像できてしまい、腹の底から笑ってしまった。健闘を祈ろう。
「香奈恵ちゃんは?」
「麻酔科です」
「っぽいわ〜」
こちらもリアルに想像できた。香奈恵ちゃんだったらどんな状況でも冷静に管理できるだろう。
「そうそう、鈴木くんが来てくれるみたいで、よかったですね!」
さくらが手を止めないで言った。
俺のかわいい弟・絢斗が大学病院での初期研修を経て、鈴木病院に入ってくることになったのだ。科は救急科。
「身内かよ……」とあからさまに嫌な顔をする者もいるが、絢斗には負けずに頑張ってほしい。兄として、力になれることはなんでも助けてやるつもりだ。
ま、あいつはおとなしいけど芯は強い奴だから大丈夫だとは思う。
「はい、終わり〜」
「あっ今日こそは私が勝ったと思ったのに!!」
さくらが心底悔しそうに頭を抱えた。世間話に興じながらの敗北だったのが余計悔しかったようで「うわぁぁぁぁん」と机に顔をつっぷして悲しんでいた。
「あはは、元気出してよ。また明日もあるじゃん」
「余裕の笑顔も今のうちですよ」
勝者の余裕が癪に触ったのか、さくらが顔をあげて頬を膨らませた。
「ま、さくらちゃんの練習に付き合ってるおかげで俺もいい練習になってるよ。ありがとね」
「…………………………」
俺の言葉に平常心を取り戻したのか、さくらが少しはにかむ。そして俺の手をとり、しげしげと眺めた。
「……なんでこの手はあんなに早く動くんですかね?悔しいです」
「あはは、俺の努力をそんなに早く無下にされたら泣いちゃうよ。ていうか、」
頬が緩む。
「こうして手を握れるようになって。もうすっかり俺に慣れちゃったね」
嬉しいよ、とまるでフォークダンスのようによいよい、と手を上下させると、一瞬きょとんとしたさくらがみるみる赤くなっていった。
「よ、横から見るのは慣れたんですが、ま、真正面から見るのはまだちょっと……」
「慣れない?」
一緒に仕事をするようになって2年近く経つというのに、そうなのか。おぉ、俺もまだまだ捨てたもんじゃないな。
「はい……!わー手離してください〜〜!」
横を向いてジタバタするさくらの手を離さず、
「そっちから握ってきたんじゃん。ね、このままキスする?」
と言うと、さくらが一瞬で茹でタコのように赤くなった。
「かかかかからかわないでください……!!」
「あはは、じゃさくらちゃんが俺にして?いつも練習付き合ってるお礼ってことで」
我ながら無茶苦茶を言っていると思ったが、俺の言葉に右往左往するさくらがかわいくて、ついからかいすぎてしまった。
本当に目を閉じて口づけを待っていたら、ドン、と肩のあたりに人の重みを感じたので、素早く抱き止める。
「……ちゃんと、俺の方に倒れてきたね」
えらいえらい、と背中をさすってやる。
(今日一緒に飯でも行くか……。なんか焼き鳥食べたい気分)
さくらにはレバーも食べさせよう。
久しぶりの流血をハンカチで綺麗にしてやりながら、思った。念のため脈のチェックをし、無事を確認した。
さくらを休ませて、道具の後片付けを始める。目を覚ましたら恐縮するだろう。
『わわわ、先輩にそんなことをさせてしまい申し訳ありません……!』
きっとこんな風に言うに違いない。あたふたする様子を想像したら、自然と唇が笑いの形になった。
テキパキと片付けを終え、さくらを眺めながら柔らかい頬をぷにぷにする。
(……まつげ長〜。ビューラーできゅって持ち上げてーなー)
あまりじろじろ見ては失礼かと思い、椅子に座って視線を天井へ移した。静かに流れる時に身を任せ、俺もそっと目を閉じる。
「……頑張ろうな」
呟きは、空中に溶けていった。
「わーすみません!!久しぶりに気を失ってしまいました!!」
「いいんだよ〜。怪我しなくて何より〜」
「わわわ、そして片付けまでしてくださったんですか!?ああああ先輩にさせてしまい申し訳ありません!!!!」
「あはは、いいんだよ〜。え?何かお詫びしないと気が済まない?だったらさ、一緒に焼き鳥食べにいこうよ。うまいとこ知ってるからさ」
「お詫びというかご褒美……いえ、なんでもないです!!お供します!!そして私がおごります!!」
「いいの?ありがと〜」
ーーそして、ほんとに奢ってもらった俺なのでした。