朝のひととき
※斗真さん視点です
『わーー、世話の焼ける弟でごめんね』
運命というものが、もしあるのなら。
それが動き出したのは、酔い潰れた弟を迎えにいったあの瞬間に間違いないだろう。
大きな目をパチパチさせて、食い入るように俺のことを見ていた君。接したのはほんのわずかな時間だったのに、あのときのことは、不思議とまだ覚えている。
ーー なんでだろうね
「うん、じゃ、いれるよ……。力抜いて……」
「あっ、先生……」
「こらこら、じっとしてたらすぐ終わるから……」
ぎゅっと目を閉じて震えている ーー患者さんを恐怖から解放するため、手早く針を抜きガーゼを当てた。
「はい、採血終わり〜。も〜政子はいくつになっても怖がりだな」
「斗真先生の採血だったら怖くないんだけどねぇ」
「あはは、いつでも呼んで。でもナースを困らせたらダメだぞ?」
「もう!」
政子(齢74)が頬を薔薇色に染め、俺を叩く真似をした。それに笑顔で返し「じゃあとは頼みます」と看護師に託して病室を出たところで、別の看護師から
「斗真先生すみません、こちらの患者さんがどうしても先生に ーーーー包帯をかえてほしいと」
と、遠慮がちに声をかけられた。先生にこんなことを頼むなんて、と心底悔しそうに顔を歪めている。
「申し訳ありません、私の力不足で……」
「いいんだよ〜。はい、洋子おはよ〜。優しくするから腕出して?ついでに検温もしよ?」
「せんせ……」
恥ずかしそうにそっと腕を出す洋子(齢68)に笑いかけると、ふっ……と気を失ってしまった。
「わーーーーしっかりーーーー!!!!」
賑やかな、朝の病棟。
視界の端に、最近入ったナースが頬をひきつらせているのが見えた。
自分の患者さんの顔を見終え、さて詰所に顔を出すか、とてくてく歩いていると、
「斗真先生ー!おはようございまーす!!今日も一日頑張りましょうー!!」
後ろから、よく通る明るい声が追いかけてきた。
「あ、あぁ……、おはよ……相変わらず元気だね……」
話しかけてきたのは、ひまわりみたいな笑顔の後輩。
「さくらちゃん」
『さくら』ちゃんにひまわりみたいな、という比喩は変か、と自分で自分につっこんだ。
ぴかぴかに清掃されたきれいな廊下を歩きながら、雑談を交わす。
「……………では、本日もよろしくお願いします!!」
「……はーい……よろしくね〜……」
たったったっと足取り軽く業務へ向かう背中。さくらちゃんがよっしゃ、と小さくガッツポーズしたのが見えた。
……俺のことを好いてくれてるのが、ダダ漏れなんだよなぁ。
それを微笑ましく眺めながらも、しかし彼女は当直明けという事実に気付き、その底なしの体力に震えた。
なんという。
なんという子が入ってきたのだ。
軽くため息をつき、医師達の詰所の扉を開けた。
「おはようございまーす」
「おう、おはよ。どうした、朝からもうしんどそうじゃないか」
読んでいた資料から顔をあげ、部長が言った。
理由はわかっているだろうに、からかい半分できいてくる彼が、憎い。
「今日もさくらくんに付き合ってやるのか?」
口の端をあげ、にやにや笑っている。
「……はい。しょうがないです、1番歳の近い先輩だし……。そもそもこうなったのは……」
じとっと睨む俺を、部長があっはっはという大笑いでかわした。少し白髪が混じった短髪に、笑い皺が出る彫りの深い目元。日に焼けた肌に映える白い歯が眩しい。
「ごめんなー。さくらくんがオペの練習が思うようにできないって悩んでたから。俺がうっかり『斗真くんは元々左利きだぞ。オペの練習だったら彼に聞けばいい』なーんて言っちまって」
手術をする医師というのは、左右の手を同じように使えることが求められる。俺は左利きなので、右手を自由に使えるように特訓した結果、糸を早く結べたり、手術で使う器械を「なんか器用(by部長)」に扱えるようになったのだった。
それを知ったさくらが手術の練習のコツをききにきて。うっかりマンツーマンで教えてしまったのが運のツキだった。
『わ、なんか突然うまくできるようになった気がします!コツは左手だったんですね!ご指導ありがとうございます!』
『い〜んだよ〜。練習頑張ってね〜』
『どっちが早くできるか競走しましょうよ!』
『はい?俺負けないよ?』
後輩に花を持たせずこてんぱんにしてしまった結果、
『私が勝つまでやります〜〜〜〜』
と、泣かせてしまい。
「……わざと負けたら見抜かれるし。もういい加減勘弁してって感じです……」
ほぼ毎日練習に付き合わされているのだった。
(……鼻血出したり失神してた日々が懐かしいよ……)
とほほ。
国試前の年末。応援の意味で絢斗が俺の写真を送るのを放っておいたことが、今自分の首をしめているなんて、あのときには考えもしなかった。
『毎日斗真さんの画像を見て、自分を鍛えました!』
最近流血しないね、とからかい半分にきいた俺にさくらはそう答えた。慣れとは、恐ろしい。そしてちょっと……寂しい。
しんみりした俺に構わず、部長が言う。
「ここは男所帯の科だからな〜。久しぶりの新人が女の子で、耐えられるか心配してたけど」
「はは、兄と弟がいるから、男は見慣れてるそうですよ」
「そう言ってたな。で、どうだ、指導する先輩として。さくらくんはやっていけそうか」
冗談のような声音できいているが、半分は本気なのだろう。俺もふざけずに、真面目に答えた。
「大丈夫です、多分……。カンがいいというかなんというか……」
手の器用さ、察しの良さ、飲み込みの早さ、忍耐力、体力、そして慎重さと度胸 ーーーー
どれをとっても素晴らしかった。俺がさくらの年くらいのときはこんなにできただろうか。自信は、ない。
黙り込んだ俺に、部長が訝しげに首をかしげた。
「どうした」
「あ、いえ、えと、俺が言ったことの120%で返してくるので。もう教えることなくなってきました」
俺の言葉に、部長が目尻の皺を深めた。
「はは、うかうかしてたら俺らも追いつかれるかもしれんな。とんでもないやつが入ってきたな」
肩をすくめる。只者でない、というのはさくらに対する共通認識のようだ。
「あと心配なのは人間関係ですが、女の子だからなのかさくら先生だからなのかわかりませんが、他の先生方がなんか妙に優しいので驚いています」
皮肉を込めて言った。
この科に長らく新人が居つかなかった理由。それは、「他の先生方が新人に厳しすぎたから」。
「俺のときはもっと皆さん厳しくなかったですか?俺カンファレンス超憂鬱でしたもん」
重箱の隅をつつくような質問に加え、会の進行が遅いとイライラし始める先生方、少し言い間違えただけで飛んでくる罵声……。この時間が嫌で嫌でたまらなかったことを思い出す。
後輩達もこの環境が嫌で、他科(もしくは他病院の整形外科)へうつったのではないかと推察している。
「はは、外科系の医者ってのはみんなせっかちでいつもカッカしてるものだから。まぁ、斗真くんの場合は八つ当たりもあったんじゃないか」
モテるからね、とまた白い歯を見せて笑った。
「はぁ………………」
「あ、加えて『院長の息子だからって特別扱いはしない』という意思表示」
「え!?」
「ははは、そういえばこれは全員団結してたな」
「……わーおかげさまで鍛えられましたー……」
がくっと力が抜けた。そうか、あの鬼のような仕打ちにはそういった理由があったのか。
『このトンマ!やる気ねーんだったら家に帰ってクソして寝てろ!!』
『わあああやります!やらせてください!!』
キキキ……と悪魔の角をはやして笑っている先輩方を呪った。同時に、特別扱いせず必要な経験をさせてくれたことに感謝した。ほんの少しだけ。
「まぁ、せっかく入ってくれた新人だ。大事に育てていこう」
部長がトントン、と机の上で書類をまとめながら言った。
「部長」
「うん?」
「……お父さんの心境ですか?」
俺の言葉に、部長があっはっはっはっは!と大声で笑った。図星だったみたいだ。
「君のことも、息子みたいに思ってるよ。あ、院長に失礼か」
ひとしきり笑ったあと、目尻をぬぐいながら言った。そばにきて、肩をポンポンと叩かれる。
「頑張れよ、斗真くん」
「……はぁ……」
「ところで、今日は外来じゃないのか?いいのか、ここにいて」
「あ、そうでした。やっべ、急がないと」
時計を見ると、あと少しで診察開始の時刻だった。ダッシュで行けばなんとか間に合うだろう。
「では失礼します!本日もよろしくお願いいたします!!」
腰を90度に曲げ挨拶し、俺は外来棟へ猛ダッシュした。「お〜よろしく〜」という部長の呑気な声が遠くに聞こえた。