心の傷
休日には谷川さんの部屋にお邪魔し、掃除等の雑用を片付けることが習慣になっていた。
共に過ごす時間が長くなるにつれ、無表情だと思っていた谷川さんのちょっとした感情の発露なんかも、なんとなーくわかるようになってきた。
『あ、コーヒーおいしいと思ってくれてるかも』『なんか不機嫌そう。今日は早目に退散しよ〜』……。動物園の飼育員さんってこんな感じなのかもしれない。
けれど、仲が深まるにつれ、斗真さんのあの言葉がまるで催眠のように頭の中にリフレインした。
『正直、迷惑だったんだよね』
谷川さんのことを考えると、決まってこの言葉が私の心にブレーキをかけた。
そうだよね、わかってる。
わかってるから ーーーーーーもう、言わないで。
どれだけ楽しそうに笑っていても。どれだけ甘い声で名を呼ばれても。
本当はどう思ってるかなんて、私の希望的観測に過ぎないんだ。
教訓を胸に、浮き立ちそうになる心を、抑えた。
・・・
恒例の掃除中。
「あ、こういうの、うちの兄と弟も読んでたことありますよ〜」
ふと目についた詰将棋の本を手にとった。
「男の教養なんですか?」
「………………もう見たくもないから捨てといて」
谷川さんがうんざりした顔で言った。
「あはは!災難でしたけど、元気に退院されたんだし、よかったじゃないですか!……こういう本買うほどには谷川さんもハマってたんだろうし」
パラパラめくりながらからかうように言うと、ムッとしたのか眉をしかめた。
「負け続けるのも癪だったんだよ。だから、カンを取り戻そうと思って」
「ふふふ」
「………………掃除終わったの?」
「はい、ここ拭いたら終わりです〜。あと洗濯物たたんだら、コーヒー淹れますね。休憩しましょ」
「……………………………………………………」
何か言いたげな谷川さんを無視して、勝手にスケジュールを決めた。
テーブルを拭き上げ、ソファに置きっぱなしになっている洗濯物に手をかけた。最初の頃はその日の洗濯物だけだったのが、ここ最近は何日分かを置きっぱなしにしているようだった。
あてにされているのがおかしくて、なんだか笑えてくる。
あのしっかりした谷川さんが洗濯物ほったらかしにしてるなんて!鈴木病院のみなさん!信じられます!?
「………………なに笑ってるの?」
谷川さんが訝しげに小首をかしげた。
休憩に入り、ソファに並んで、谷川さんはコーヒーを、私は紅茶をすすった。うん、今日の彼の表情はまぁまぁな感じだ。
谷川さんが口を開いた。
「…………あのさ」
「はい」
「……コーヒー淹れるの、うまくなったよね」
「えっ、ほんとですか?嬉しいです!練習した甲斐がありました〜」
突然のお褒めの言葉に有頂天になった。努力が認められるって、嬉しいなぁ!
「……練習したんだ」
「はい!ネットで見たり本読んだりして〜」
「そうなんだ。……もしかして、俺のため?」
「はい!」
「………………………………そっか」
谷川さんがはにかむように微笑んだ。私と目が合うと、慌てたようにコーヒーを飲んだ。
その動作がなんだかとてもかわいらしくて、私もほっこりした気分になった。
静かで穏やかな、休日の午後。
和やかなその雰囲気に、なぜだか目頭が熱くなった。
コーヒーカップをこと、と置いて、谷川さんが言った。
「…………おかげさまで論文も完成の目処がつきそう。雑用引き受けてくれてありがとう」
「いえ、そんな、大したことしてないです」
手を顔の前でパタパタと振った。
谷川さんが私の方へ体を向け、少し緊張したような面持ちで続けた。
「うん、で、その、あれだ。……うん、一つの、あくまで、あくまで提案なんだけど」
「?」
どうしたのだろう。谷川さんが、こんなにしどろもどろになるなんて。
彼の緊張が伝わったのか、私までなんだかそわそわしてきた。
なんだろう。なんだろう!!
「論文完成した後もさ、その……さくらさえよかったら……」
今日は、電話は鳴らなかった。
「今まで通り、俺のとこ遊びに来てくれない?……勿論、雑用はしなくていいから」
そう言って、赤くなってうつむいてしまった。
言葉そのものの意味と、発言の意図を理解して、私も赤くなってしまう。
え、えと…そういうこと……でいいんだよ…ね??いいんだよね??
照れくさいけど、う、嬉しいかも……。
赤くなっている頬を冷やそうと両手を当てたとき、また頭の中であの呪文が鳴り響いた。
『正直、迷惑だったんだよね』
迷惑。
迷惑……。
私は金縛りにあったように身動きがとれなくなってしまった。
「ーーーーーーーーーー」
あのとき言われたことが頭の中をフラッシュバックして、心臓が早鐘のようにドッドッドッと鳴り始めた。
『正直言うとさ、迷惑だったんだよね』
『言いにくいけど、そうだね……。誤解させたんだったら、ごめんね』
苦虫を潰したような顔で言葉を紡ぐ斗真さん。
「………………あ」
私の方こそ、ごめんなさい。
気づかなくて。勘違いして。迷惑かけて。
もう同じ轍は踏むまいと思っていたのに。
私ってなんでこんなにバカなんだろ。
『そういうことでいいんだよね?』じゃない。勘違いをしてはいけない。
ひとときでも、夢を見てしまった自分が恥ずかしい。
ちら、とこちらを見た谷川さんが、驚いたように目を見開いた。
「どうした?なんで泣く??」
私は、泣いていた。
止めようと思えば思うほど溢れてきて、謝罪しようにも嗚咽のせいで言葉が出てこなかった。
「……っく…………っ…………すみ、すみませ…………わたし…………ごめんなさい…………」
「…………………………」
谷川さんが無言で眉をしかめた。
「……いや、俺のほうこそ、ごめん……」
説明しようにも涙のせいで言葉が出てこない。そして、例え出てくる状態だったとしても、あのことは言ってはいけない気がした。はっきり言われるまで気づかなかった間抜けな女だって、谷川さんに知られたくなかった。
「………っく……っ……違うんです……谷川さ……ちが……」
涙は止まるどころか滝のようにどんどん溢れてきて、私の頬を濡らした。
谷川さんが近くにあったティッシュを手にとり、優しく目元をふいてくれる。
「泣くなって……」
「……す、すみ、すみません……っく……わ、わたし…………」
「謝らなくていい」
ふわっと谷川さんの香りが私を包み、抱きしめられていることに気付いた。
「大丈夫だから。落ち着いて、ゆっくり、深呼吸」
「そうそう。上手」
大袈裟なくらいスーー、ハーーと吸ったり吐いたりするわたしに合わせて、谷川さんが優しく背中をさすってくれる。
「よしよし……その調子。はい吸ってー吐いてー……」
落ち着いた声に合わせて呼吸する。
「……吸ってー…吐いてー……」
頭の中であの日の場面が早送りで駆け抜けていく。
鳴り止まない心臓。
谷川さんにしがみついて、ただ彼の声だけに耳を澄ませた。
「………………………………………………大丈夫だからな」
その呟きにますます泣けてきて、谷川さんの肩に顔を埋めた。
涙は、次第に止まっていった。
「……落ち着いた?」
私を優しく抱きしめながら、谷川さんが言った。
そっと髪もなでてくれる。
それがなんとも心地よくて、ぎゅっとしがみついた。谷川さんは無言で私の髪をなで続けてくれた。
しばらくそうしていたのだけれど、多大な迷惑をかけていることに思い至り、ばっと離れた。
「すみません!!いつもいつも……」
「……いいよ。まだ状態が安定しないな」
そう言うと、安心させるためか、ぎゅっとしてくれた。患者さんに言うような言い方に、思わずくすっと笑ってしまう。
「なんで笑う?いや、笑っていいんだけど……」
「す、すみません……なんだか……言い方が回診中みたいだったので……ふふふ……」
谷川さんは憮然とした表情をしていたが、私はくすくす笑いが止まらなかった。
「ふふふ、すみません……」
「ま、少しは落ち着いたんだったらいいけどね」
そう言うと、そっと、優しくキスされた。
「!」
唇が離れ、互いに見つめ合った。
「………………ごめん、弱ってるときに。最低だね俺」
困ったように笑う谷川さん。見覚えのある光景に、私はハッとした。
責めるつもりはなかったので、なるべく冗談のように、おどけてきいた。
「……ほんとに、最低です。この間は寝ているときで、今日は泣いているときですか?」
今度は谷川さんがハッとする番だった。
顔がみるみる赤くなり、私を抱きしめて肩に顔を埋めた。
「…………ごめんなさい」
「あはは、いいんです。魔がさすときもありますよ」
「…………………………」
「気にしてませんから」
谷川さんの背中をよしよしとなでた。彼がゆっくり顔を離して、私を見据えた。きれいな目だった。
「……じゃあもう一回、していい?」
びっくりしたけれど「谷川さんも冗談を言うときがあるんだ〜」と思い、軽い気持ちで「ふふ、どうぞ」と答えた。
ゆっくりと、唇が、重なった。
「…………!」
思わず離れようとしたが、腰をがっちりホールドされて、逃げることもできない。
少し空いた隙間から舌も入ってきて、ゆったりと絡んだ。互いの吐息が甘いものにかわっていく。
「ん……」
ちゅ……ちゅ…… ちゅ……
呼吸が苦しくなってきたところで、唇が離れた。
そのままお姫様抱っこで寝室に連れていかれ、ベッドの上に優しく下ろされた。
谷川さんがそっと口付けして、私の名を呼んだ。
「さくら」
真剣な灰色の瞳
私の頬をなでるきれいな指
「………………好きだ」
声が少し震えていたのは誠実さの証だろうか。彼の言葉を認識すると、涙が込み上げてきて目尻をつたった。
谷川さんが悲しそうに顔を歪めた。
「泣くほど嫌?……」
「違います……。そうじゃなくて……」
「…………………………」
言葉にならない気持ち。自分でもどう説明していいかわからず、ただ谷川さんを見つめた。
「……もう、泣くな……」
優しく唇が重なった。
その日私は、谷川さんの愛に溺れた。




