前を向かないと
※さくら視点です
『もう、仕事以外で会うのはやめよう』
はじめての恋は、私が勘違いしていただけというなんとも恥ずかしい結果に終わった。
1人で舞い上がって、きゃーきゃー言って。
今度斗真さんとあれしよう、これしよう、とわくわくしながら考えを巡らせていた自分を思い出すと、穴を掘って入りたくなってしまう。羞恥心でわあああと頭を抱えた。
大好きだった斗真さん。
斗真さんへのお詫び……というかできることは、『やらかす以前のように、普通に接する』ことだと思った。
なかったことにする、というのはむしがよすぎるかもしれないけれど、まるでなかったかのようにふるまうことが、せめてもの償いにならないだろうか。
斗真さんはああ見えて人に気をつかう人だから、異動願なんて出されたら、一ファンとして、困る。
そう、一ファン。
斗真さんの迷惑にならないようにするから、そっと心の中で想うくらいは、許してほしい。
(…………って言ってもなー…………。そんなにすぐには切り替えられないよー……)
はぁ、とため息をつきながらとぼとぼと帰り道を歩く。先ほどから降り出した雨はだんだんと強くなっていき、止む気配はない。朝の天気予報を信じて傘を持ってきてよかったと思った。と言っても、勢いを増す雨足に安物の傘がどこまで耐え得るかはまた別問題だった。
足元を流れていく雨水がはねて、靴に染み込んでくる。足先が冷たくなってきたが、今の気分にぴったりで、そのまま構わず歩き続けた。
(みんなといるときはいいんだけどな。1人になると、どうしても暗くなっちゃうな……)
こんなときには、決まってきこえてきた優しい声。
『さくらちゃん、どうしたの?なんか暗くない?』
優しく微笑みながら髪をなでてくれることはもう2度とないんだ。
そう思うと、声をあげて泣きたい気持ちと、そもそも私が強引にことを進めたからダメだったんじゃん泣きたいなんて図々しいぞという自責の念の板挟みにあって、胸をかきむしりたくなる衝動に駆られた。
襲ってきた羞恥心にわあああああと頭をがしがししていると、横を走っていった車が泥水をはね、ばしゃぁっ…と見事に全身にかかってしまった。
「…………………………」
……悪いことは重なるもので。
まいっかー丁度水浴びしたかったしーもー家に帰るだけだからどれだけ濡れても別にいいしー
半ばやけになり、ずぶ濡れのまま歩き始めた。
私に泥水を浴びせた車はそのまま走り去るものと思っていたが、ハザードランプが光り横付けされ、中から人が出てきた。
見知った顔に、驚く。
「あれ?谷川さん」
「……悪い。家まで送るから。乗って」
焦ったように、傘をさしてくれた。
谷川さんが焦るところなんて、はじめて見た。
「お風呂、ありがとうございました」
「うん。髪もしっかり乾かしてきて。風邪でも引かれたら責任感じる」
「はい、すみません」
「謝らなくていいから」
「すみません……」
谷川さんがちっと舌打ちして私の手を引き、洗面所へ連れてきた。ドライヤーを取り出し、私の髪を乾かし始める。
ーー 自宅マンションまで送ってもらったのだが、家の鍵を職場に忘れてしまい、とりあえずということで谷川さんの家にお邪魔することになったのだ ーー
「……谷川さん」
「なに」
ぶっきらぼうな返事。
「谷川さんの髪サラサラなのって、いいシャンプーやドライヤー使ってるからですか?」
「……知らない。興味ないから、勧められたの使ってる」
家電量販店や美容室で勧められるままに『じゃあそれください』と言っている彼がありありと目に浮かび、思わず吹き出してしまった。
「…………………………」
「あ、すみません……」
髪をわしゃわしゃしていた手が止まったので機嫌を損ねてしまったと思い、急いで謝罪した。
「だから、謝るなって」
「すみません……」
また謝ってしまった私にちっと舌打ちして、ドライヤーが再開した。
「……久しぶりに、笑ったな」
「え?」
谷川さんが何か言った気がしたが、ドライヤーの音でよく聞こえなかった。
「服乾くまで、悪いけど待っててくれる」
「あ、はい。なんかすみません、洗濯までしてもらって……」
「別にいいから。ていうか、俺が浴びせたんだし。悪かった。ぼーっと運転してた」
「いえ、そんな。丁度泥水浴びたかったんで大丈夫です!」
「……………………………………………………」
谷川さんが眉をしかめて私を見ている。そのさげずむような視線に耐えられず、私は横を向いた。ーーーーーー 怖い。
何か話題を、と思っていると、お腹が盛大になった。
「…………………………」
「わ、す、すみません……!」
くっ、なぜこんなときに……!
自分の正確な腹時計を今ほど憎く思ったことはなかった。
「…………何か食べる?俺と一緒のでよかったら作るけど」
「いえ、そんな!大丈夫です我慢しますから谷川さんだけどうぞ!」
「……お腹空かしてる人の目の前で食べるほど俺性格悪くないんだけど」
……えっと。
どう返答しようか迷っているとまたお腹が盛大になった。
「……そこ座ってて。パスタでいい?」
「あ、はい、すみませんご馳走になります……」
「いいって。これで今日のことはチャラにして」
そう言いながらキッチンに向かう谷川さんの背中を眺めながら、そこになぜだか斗真さんを重ねて、胸がズキンとした。
『さくらちゃん』
「…………………………」
降り出した雨は、どんどん勢いが強くなっている。窓に叩きつけられた雨粒が、まるで涙が流れるように窓をつたった。
「…………おいしい…………!」
「そう、よかった」
「え、谷川さん料理上手ですね!すごく意外です!」
「…………………………」
「わーーお店で食べるやつみたーい!」
あの後『ねぇ、10段階でいうと今どれくらい腹減ってる?』『5くらいです!』『じゃあもう少し辛抱できるね』という会話があり。
テレビを見ながら待っていると、コース料理のようにお料理が運ばれてきたのだった。
サラダにスープにパン、パスタは私の大好きナポリタン。デザートのティラミスと食後のコーヒーまで用意してあるそうだ。
「おいしーーい!おいしい以外に言葉がありません!」
「……そんなに美味しそうに食べてくれたら、俺も嬉しいよ」
「本当においしいです!ありがとうございます!!あ、もしかしてイタリアンのお店で修行したとかですか?」
私のトンチンカンな質問に怒り出すこともなく、谷川さんが静かに答えてくれた。
「修行はしてないけど。うちは共働きで親が遅くなることも多かったから。腹減ったときは自分で作ってたら、料理は別に嫌いではなくなった」
「……料理ができる男の人って素敵です……!」
そんな事を言いながら、谷川さんを見た。
いつもはメガネをしているのだが今それは外されていて、そうしていると、彼がずいぶんあどけない顔立ちをしていることに気づいた。知らなければ自分と同じ年くらいに思うかもしれない。
そして、光の加減かな?と常々思って見ていた瞳がやっぱり灰色に見えて、失礼かもしれないがきいてみることにした。
「あの、谷川さん」
「なに?」
レタスをむしゃむしゃしながら私を見た。
「失礼かもしれませんけど、きいていいですか?」
「……目のこと?」
「!あ、そうですー!光の加減かな?って思ってたんですけど……」
質問を言い当てられて、驚いた。そんな私に構わず、谷川さんが少し早口で言った。
「カラコンじゃないから。生まれつきこうなの。何代か前に外国人がいたみたい。ちなみにそんなに眩しくはないし、視力もそれなりにあるから」
聞かれすぎて、答えるのももう億劫なのかもしれない。そう思わせるような回答だった。
すらすらすら…と出てきたことがなんだかおかしくて、ついふふっと笑ってしまった。
谷川さんが訝しげに眉をしかめた。
「なんで笑う?」
「あ、すみません……。なんか、答え慣れてるな〜って思って……。みんな同じような疑問を持つんですね〜」
「……………………………………………………」
それっきり黙ってしまった谷川さんに合わせて私もおしゃべりをやめ、目の前のご馳走を味わうことに集中した。
何もかもが、本当においしかった。
ソファに座って食後のコーヒーを飲んでいると、洗い物を終えた谷川さんもカップを持ってきて私の横にストンと座った。
「私何もしなくてすみません……」
「別にいい。泥水浴びせたお詫びだから。服、もう少しで乾きそうだから、悪いけどあと少し待っててくれる?」
「はい」
そう言って、コーヒーをすすった。あまりコーヒーは飲まないのだけれど、谷川さんが淹れてくれたこれはとてもおいしく感じた。
何を話すでもなく、ついているテレビを眺めた。
「あのさ」
谷川さんが口を開く。彼の方を見ると、きれいな灰色の瞳に私がうつっていた。
「最近元気ないけど、どうした?」
『さくらちゃん、どうしたの?』
脳裏に斗真さんの声がよぎった。
心臓が飛び跳ね、唇が、震えた。
必死に平静を装った。
「…………別に…何もないですよ?あ、女性が色気を出したいんだったら少し静かにしてみましょうっていうのを見て、実践してました!」
「……………………………………………………」
谷川さんは無言だ。
それに耐えきれず、沈黙を誤魔化すようにべらべらと話し始めた。
「もー、実践してた結果元気ないねって言われるだけって、私どんだけ普段から騒がしいんですかー!なんかショックですー!」
「あ、谷川さんお料理教えてくださいよ!実は私全然できなくてー」
「ていうか、雨止まないですねー!今日の当直の人は大変かもですね〜誰だろ」
「……斗真だよ」
谷川さんが静かに言った。
思いがけず名前を聞いてしまったことで、じわっと涙が浮かんできた。ばれないように、横を向いた。
「あ、斗真さんなんですねー!そうなんだー!へー!」
「……斗真と、何かあったろ」
「!」
「わかりやすすぎ」
ふっと笑ったのがわかった。
「……見なかったことにするから、泣けば?」
驚いて谷川さんを見る。相変わらず表情に乏しく、何を考えているのかさっぱりわからなかった。
けれど、親切にしてくれていることだけは、わかった。
「……泣いていいですか?」
「うん。無理して明るくしてるのも痛々しいから」
無闇に優しくするわけでなく、かといって突き放すわけでもない、本当にいつも通りの声音で谷川さんが言った。
その言葉が合図だったかのように、私の目からはらはらと涙がこぼれ始めた。
「あれ?……え、なんだろこれ」
「……………………………………………………」
谷川さんが、小さい頃母がそうしてくれたように、私の頭を優しくなでてくれた。
「ーーーーーーーー」
「うぇーーーーーーーーん!!!!」
こどものように泣き出した私にひくことなく、谷川さんはずっと頭をなで続けてくれた。
私は、声をあげてわんわん泣いた。
思えば、ふられて以降、こんな風にしっかり悲しんでいなかったことに気づいた。
そして、思っていた以上に私の心はダメージを受けていたことを知った。