そうならねばならぬのなら
『ーーーー今なら、まだ引き返せるんじゃない?』
自室のソファに寝転んで天井を眺めながら、大きくため息をついた。特に意味もなくつけたテレビから流れてくる音声は右から左へと通り過ぎていく。
あれからずっと、谷川さんの言葉が頭から離れない。ふとした瞬間、事あるごとに現れ、俺を嘲笑う。
(……ぐうの音も出ないって、このことか……)
谷川さんに言われたことに、何も言い返せなかった。悔しい気持ちも湧いてこなかった。
だってそれは、いつも俺が心のどこかで気にしていたことだったから。
さくらとの関係に自信がもてずもやもやしていたのは、正に彼の指摘通りのことなのだと気づき、落胆した。
(6歳も年下で……元々は絢斗の友達で……。人が聞いたらうわってなるわな……)
改めて考えると、さくらには申し訳ないことをしてしまった。
きっちり、断るべきだった。
俺なんかじゃなくて、もっとちゃんとした男と付き合いなさいと諭すべきだった。
(……俺みたいに、さくらちゃんをがんじがらめにしてずっと独り占めしたいって願うような奴じゃなくて、ね……)
得体の知れない感情に振り回されるのも、もう疲れた。潮時、という言葉が頭をよぎり、また大きくため息をついた。
・・・・・
ピンポーン
軽快なチャイムがなり、客人の来訪を知らせた。
今日は、さくらが来る日。
仮病でも使おうかと一瞬思ってしまったが、重たい体を起こして、玄関へ向かった。ドアを開けると、花のような笑顔を浮かべたさくらが立っていた。
「斗真さん」
俺の胸に飛び込んできて、猫がごろごろと喉を鳴らしてそうするように、すりすりっとしてきた。
その様子に頬が緩み、できるだけそっと、さくらを抱きしめた。ずっとそうしていたかったけれど、立ちっぱなしもなんなので、中に入るよう促した。
「お邪魔しまーす」
人の気も知らないでにこにこと笑うさくらが、少しだけ憎らしくなった。
『これ試飲したらすごくおいしかったので』とさくらが持ってきた紅茶を、2人ソファに並んで、すすった。
すっきりとした味わいで、とてもおいしかった。こと、とカップをテーブルに置くとさくらがいそいそと腕の中にやってきた。
純粋で、神聖な、美しい人。
俺なんかと、触れ合ってはいけなかった人。
脳裏に、今まで見ないようにしていた、以前のめちゃくちゃな日々がよぎった。悠介くんが言っていたように、『その時はその時なりにちゃんとしてた』つもりなんだから、笑えてくる。
『あっ……あっ……』
俺の上で腰をふっている女性。名前はなんだったっけ。ま、お互い本名名乗ってるとも限らないか。
また別の日。
『な、次どの子にする?』
友人たちと参加した淫らな遊び。
あのときはあのときで楽しかったけれど、ーーさくらちゃんに会ってからはどれも陳腐なものに思えた。過去のこととはいえ、絶対知られたくない、と思うようになった。
結論。
やっぱり、俺なんかとさくらちゃんは釣り合わない。離れないと。
この生き生きとした生命力あふれる美しい花を、薄汚れた俺の手で折っていいわけがない。
抱きしめる腕に、ぎゅっと力を込める。ーー 今から始まる一世一代の大演技を、神様、どうか無事に終わらせてください。
嬉しそうにすりすりっとしてきたさくらを自分から引き剥がした。予期せぬ暴挙に、甘えん坊モードに入っていたさくらは戸惑い顔だ。
「?斗真さん??」
「……あのさ、こういうふうに会うの、もうやめない?」
「え?」
さくらの目が見開かれた。
「え?え??」
突然の事態に状況をよく飲み込めていない様子のさくらの頬をなでながら、言い聞かすように、ゆっくり、優しく言った。
「もう仕事のとき以外会うのやめよう、って言ったの。わかるかな?」
「えと…………」
あ、院長の息子と仲がいいんだっていうステータスが欲しい?
そう続けると、さくらの表情が凍った。
「……私が、そんな風に思ってると、思ってたんですか?」
傷ついたようだ。すっ…と離れた。
「斗真さん」
「…………………………」
離れるなら、今だ。
ありったけの勇気をかき集めて、言葉を紡いだ。
「ーーーーうん、正直言うとさ、迷惑だったんだよね。俺同じ職場で恋愛って駄目な人だから避けてたのに。あれだけ好き好きオーラ出されたらさ、無視し続けることもできないし。気付いてた?そーゆーの」
嘘だよ。
……嬉しかった。あんなに純粋な好意を向けられることはなかったから。
「…………………………」
さくらはしばらく黙っていたが、ゆっくりと口を開いた。
「……お付き合いしてると思ってたのは……私だけ……だったんでしょうか……」
その儚げな様子に、今すぐ抱きしめたくなった。自分を鼓舞するため、思っていることとは真逆のことを言った。
「ーー 言いにくいけど、ま……そうだね……。ヤッてるだけで付き合ってるってのも……ね?誤解させたんだったら、ごめんね」
『ヤッた』なんて猥雑な言葉を使ってなるべくひどい言い方をした俺に、さくらはうつむいてしまった。
泣き出すかと思ったが、ぱっと顔を上げたさくらは ーーーー笑っていた。
「あはは、そうですよね!やっぱり!!なんか変だな〜って思ってました!」
強がりでもなさそうな、本気でそう思っているような吹っ切れた表情に、俺の心に引き裂かれたような痛みが走った。
「あ、あの……さくらちゃ
「わーなんか私勘違いして突っ走って、ほんと、恥ずかしいですね!忘れてください!ほんとに、ご迷惑おかけしました!!」
ぺこっと律儀に頭を下げるさくら。
そんなことをさせたいんじゃない、俺だって、ほんとは ーーーー
「それじゃあ、えと、失礼します!!あ、でも一つだけお願いがあります!!」
「…………………………なに?」
さくらちゃんの考えそうなことはわかってる。きっと『思い出をください』とかそういった類のことではなく、
「引き続き鈴木病院に勤務させていただきたいんです!!学ぶべきことがまだたくさんありますので!!」
ーーーーそれでこそ、さくらちゃん。
思ったとおりの言葉に少しの失望を感じながら、俺は機械的に返事をした。
「………………勿論だよ。期待の新人がいなくなったら、うちの科はどうなるの。さくらちゃんさえよかったら、ぜひ」
ていうか、俺に人事権ないしね。
頭を下げると、さくらがひたすら恐縮した。
「わわわ、頭を上げてください!斗真先生がそんなことなさらないでください!!」
呼び方も一瞬でかわってしまったことに、ズキンとする。なんだよなんだよ、そんなにあっさり切り替えられるものなのかよ。
「よいお返事がきけて嬉しいです!それでは、またご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします!」
礼儀正しく頭を下げ、さくらは颯爽と俺の部屋を出ていってしまった。
ーーーー 出ていってしまった。
残されたのは、奇妙なほどの静寂。
「…………………………」
さ く ら ……
引き留めるように伸ばした手は、何を掴むこともなかった。
これで。
「これでよかったんだよな……」
自らに言い聞かせるように、つぶやいた。
つぶやきは、すっかり色を失ってしまった世界に吸い込まれていく。
ふと、さくらが持ってきた紅茶の紙袋が目に入った。
「?」
中に何かカードが入っていたので、取り出した。
『最近元気がないので心配してます。これ飲んで、元気出してくださいね!』
下には何かのキャラクターが描かれていて、吹き出しには『斗真さん 大好き!』と書いてあった。
「……………………………………………………」
涙が、頬をつたった。
脳裏に彼女の眩しい笑顔がよぎり、それを閉じ込めるように瞳を閉じた。
『斗真さん』
『斗真さん、好きです』
「……………くらちゃん、さくらちゃん…………」
記憶の中のさくらに、ーーーー『俺もだよ』と、返した。