表面張力
せわしなく毎日が過ぎていく中、土曜日は、さくらの練習に付き合った後なかのでご飯を食べて帰る ーーーー。すっかりそんな習慣が出来上がってしまっていた(ただし用事がある日や当直の日等は除く)。
さくらはマスター夫妻とすっかり仲良くなり、特別サービスで鉄板焼きを出してもらったりすることもあった。にこにこしながらおいしそうにもぐもぐ食べる姿が嬉しいそうだ。
たまにお互い飲み過ぎるときはあるが、何か間違いが起こるということはなく、一緒のタクシーで帰ってもさくらはきちんと自分のマンションの前で降り、『お疲れ様でした!』『はーい、見送りとかいいから早く戻って鍵閉めな〜』『ありがとうございます!そうします!実はすごく眠たいです!』『寝落ちしないで、ちゃんとスキンケアするんだよ〜』『はい!』……なんて会話を交わして解散するのが常だった。(ちゃんとさくらがマンションに入るのを見届けてから出発してもらっています)
先輩後輩の清い仲。
性欲はよそで発散しながら、その神聖な、大人になってからは得難い関係を、俺は俺なりに大事にしていたのだけれど。
「斗真さん、好きです」
さくらの部屋。
不器用に唇を重ねた後、伝えられた言葉。
まさかまさかの急展開。
一体全体、なんでこーなってるの?
さくらに押し倒され、真っ赤になっている彼女を見上げながら、思考を巡らせた。
・・・
その週、俺はとても気分がよかった。
なぜかというと、助手として参加した世良さん担当の手術も無事終わり、牧田さんのウザ絡みや谷川さんの小言も少なく、そして何より!自分が担当していた患者さんが笑顔で退院していったからだ。
『斗真先生、ありがとうねぇ。世話になったねぇ』
『いやいや、世話してたのは主にナースの皆だから。俺は何もしてないよ。今度からは、外来で会えるのを楽しみにしてるからね』
幸枝(齢76)が俺をぎゅっと抱きしめてきたので、彼女の手術した肩を気にしながら、俺もそっと抱きしめ返した。打ち込んだアンカーの映像が頭をよぎった。うまくできてよかった。
『いつまでもふらふらしとらんと、はよう身を固めんといかんよ?ああ、私があと50歳若かったらねぇ』
『あはは、俺もあと50年早く産まれてたらねぇ。幸枝、この口紅の色かわいいね。似合ってる』
『!退院の日につけようと思って娘に持ってきてもらってたんよ。いや、斗真先生にそう言ってもらえて嬉しいねぇ。死化粧はこれ使ってもらおうかね』
『ちょっとちょっと、縁起でもないこと言わないでよ。また2週間後にね〜』
そうやって日常に戻っていった幸枝。その背中を見送りながら、俺はこの上ない幸福感に包まれていた。何度でも味わいたい幸せな瞬間だ。
『は〜〜やっぱりまだ頑張ろって思える瞬間だよね〜〜』
一緒に見送っていたナースに話しかける。
『あはは、引退を考えるには先生まだ若すぎますよ』
『いやいや、30過ぎたらガタ来たな〜って思う〜』
『あはは』
機嫌良く業務をこなし、もはや日課となっているさくらの練習に付き合って。
あっという間に土曜日になったので恒例のなかのに行って。
……ここからだ。常とは違う流れになったのは。
・・・
「ごちそうさまでした〜」
「はいよー。またお願いしまーす。ありがとうございました〜」
マスターの声に見送られ、さくらと2人、なかのを出た。タクシーをつかまえようと、並んでてくてく歩き出す。
今日はなんだか飲み足りない気分だった。
「ねぇねぇ、さくらちゃん」
「はい?」
「なんか飲み足りなーい。もう一軒付き合ってくれない?」
「うーん……と言ってももう0時前ですから……。今から行って、また帰ってってちょっとしんどいですー」
すみません、とさくらが申し訳なさそうに笑った。
「あ、そのかわりと言ってはなんですが、私の家で飲みます?一階はコンビニだから、買い出し楽ですよ」
「お、そうだったね。すごく便利じゃーん!じゃあさくらちゃんちに決定〜!」
「はーい!」
2人仲良く機嫌良く歩いていると、タイミングよくタクシーが通り、乗り込んだ。
道中『あ、家に行くってまずいかな』という思いが頭をかすめたが、さくらちゃんとそういうことになるなんて現実的ではなくて、すぐにその考えもなくなってしまった。
一階のコンビニで酒類や食べ物を調達し、エレベーターに乗り込んだ。さくらは上機嫌で鼻歌を歌っていた。「あ、その歌いいよね〜俺好き〜」なんて言いながら、さくらの部屋にお邪魔した。
「お〜夜景きれ〜」
カーテンを少し開けて、窓の外を眺めた。宝石を散りばめたような景色がとてもきれいだった。
「そうなんです〜。ここからの景色が気に入って〜。病院から家賃の補助が出るので、ちょっと奮発しちゃいました〜。ありがとうございます〜」
「あはは、経営のこととか俺全然わかんないけどね」
そう言いながら部屋を見渡す。
窓から見える夜景、バーのようなカウンターキッチンや大きなテレビ、天井にはどこかのスタジオのようなライトがついている。率直に言って、
「なんか、女の子というよりは男の部屋に遊びに来た感じ〜」
「あはは、よく言われます」
さくらがコップを持ってきてくれながら言った。
「このソファもテーブルも、かっこいいね。さくらちゃんが選んだの?」
ぽふ、と勝手に座る。さくらも隣に座った。
「いえ、お兄ちゃんと弟が選んでくれて。なんか、私が選ぶのはどれも趣味が悪いって言って」
「え〜そうなのー?そんなことなさそうだけどなー。……はい、じゃかんぱーい」
グラスに入れたビールで乾杯する。
「…………っあーーーーうめーーーー」
「こっちのハイボールもおいしいですよ」
さくらもごくごくと勢いよく飲み干している。さすが鈴木病院の酒豪が集まる科・整形外科の一員。その構成員たるにふさわしく、さくらの飲みっぷりもあっぱれなものだった。
「ハイボール、飲みやすいけど後からくるからね。気をつけて〜」
「あはは!もしかして実体験ですか?」
「そうそう、立とうと思ったら立てなくて牧田さんに倒れこんじゃって……」
「あはは!」
そんな、割としょーもない話をしたり、時には真面目に仕事の話をしたり、でもやっぱり院内の誰と誰が付き合ってるとかいい感じとかの話になったりして、楽しく時を過ごしていた。
そうこうしているうちに徐々に眠気も襲ってきて、俺はさくらの肩にもたれたり、さくらも俺に寄りかかったりしていた。
ーーー
……いや、ふつーにいちゃいちゃしてるじゃん俺!!!!
正直に言います。
帰るのももうめんどくさくなってました。
いつもだったらキスが始まって、そのままベッドになだれ込むパターンでした。
でもそうならなかったのは俺の理性が『相手はさくらちゃんだぞ。プラス、同じ職場だと後々面倒なことになるぞ』と懸命に働いていたおかげだったのでありました。
……けれど、限界まで引っ張られていたその細い糸を断ち切ったのは、自らの軽率な発言だったのであります。
ーーー
「さくらちゃんさー」
さくらの髪をすいてやりながら言う。
「はい?」
心地良さそうに目を閉じたまま、さくらが答えた。
「好きな奴とかいないのー?」
俺の問いかけに、さくらが目を開けて、明るく笑った。
「いますよ〜。一目惚れで〜」
「そうなんだ。誰ー?」
ここで誰?と聞けてしまうのがほろ酔いの恐ろしさ!
「斗真さんでーす!きゃー言っちゃったー!」
照れ隠しなのか、さくらがことさら明るく言った。
「あはは、知ってた〜」
「言わせないでくださーい!斗真さん、好きですー!」
腕にぎゅっとしがみついてきたさくらを、よしよし、となだめる。
「俺もさくらちゃんのこと好きだよ?」
「私本気で言ってますからね!酔ってはいますけど、正気ですからね!」
「うん、俺も正気だよ〜」
「もう!絶対信じてないし……。どうしたら信じてくれます?」
ちょこんと座りなおした様子がかわいらしく、少しからかってやろうと
「うーーーーん、やらせてくれたら?」
と、最低なことを言った。
言ってしまってからさくらにはそんなこと到底似合わないと思い、急いで訂正する。
「なーんて、冗談だよじょーだん……って……え?……」
視界が回転し、天井が目に入ってきた。そして。
気づいたら、唇が重なっていた。
実際は3秒くらいだったかもしれないけれど、全ての音が消え、俺には時間が止まってしまったように思えた。
ゆっくりと唇を離し、さくらが言った。
「斗真さん、好きです」
真っ赤になっているさくら。その瞳にはみるみるうちに涙がたまっていった。
「いや、えと、ちょっと待って……」
「好きです」
もう一度、唇が重なった。
「ちょっと……待って……」
ごめん俺が悪かったからかうようなこと言ってほんとごめんなさい
必死で理性をつなぎとめながら、なんとかさくらを引き剥がし、上体を起こした。
「斗真さん」
「えと、うん。俺が悪かった。ちょっとふざけすぎちゃったね」
「私、ふざけてないです。斗真さんのことが、好きです」
「…………………………」
「好きです」
純粋な告白を受けて、俺は ーーーー困惑していた。
うん、さくらちゃんが俺のこと好きってのはわかったよっていうか知ってたよ。ありがと。でもさ、ここからどーすんの?どーしたいの?好き好きって言われて、俺どーしたらいい??
据え膳食わぬは……というように、昂りに身を任せてしまえばいいのだろうけど。
さくらとは、排泄行為みたいな、そんなことはしたくなかった。
黙り込んでしまった俺に、さくらが静かに語り始めた。
「……一目惚れでした。最初は斗真さんのかっこよさにきゃーきゃー言っていただけなんですが」
「こうして一緒に仕事できるようになって。斗真さんの意外に仕事熱心で勉強家なところとか、周りに気を使っているところとかも見えるようになってきて……」
「……好きです。斗真さんの彼女になりたいです。そしてできるなら、斗真さんを癒せるようになりたいです」
顔を真っ赤にしてうつむいてしまったさくら。
さくらの告白を聞いて、俺もまた赤くなっていた。
かっこいい、とかはもはや言われ慣れてるけれど、こんな風に、内面的なことに言及されたのは照れくさかった。
まさか33歳にもなってこんなに純粋な想いに触れる日がくるなんて。
ーーーー けど、だからこそ。
さくらの顔を上げ、俺からキスをした。驚いたように身をこわばらせたさくらを逃すまいと、後頭部に手をやり、強引に舌を入れた。
「……んっ……」
しつこいくらいに舌を絡め、互いの呼吸が乱れてきた頃合いを見て、唇を離した。さくらは案の定真っ赤になったままだった。
かわいそうになってきて、微笑んで見せた。
「……彼女になるってことはさ、これよりすごいことするんだよ?できる?」
小さい子に言い聞かせるように、ゆっくり言う。
さくらを「彼女」にしてしまったら、この心地よい関係も終わるのだと思うと、嫌だった。
さくらの瞳が揺れた。
「……気持ちは嬉しいけどさ。こんなこと言うのセクハラだけど、さくらちゃん、はじめてだろ?俺なんかじゃなくて、ほんとに好きな人としな?」
ね?と言って頭をぽんぽんした。
酔いは完全に醒めていた。「よし、帰ろう」と思い、さくらをハグする。
「じゃあ、今日はこれで失礼するね。楽しかった。また来週」
髪に軽くキスをし、立ち上がる。さくらに背を向けたところで、ばさっと何かを投げつけられた。
驚きで振り返ると、それはさくらの衣服だと認識した。
「ちょっ、ちょっと、ストップ!!何してる!?」
下着も脱ごうとしていたさくらを目に入れまいと抱きしめた。
「斗真さんのことが好きなんです」
「わかった。わかったから。とりあえず服着よ?ね?」
涙で潤んでいる瞳と目が合う。
「斗真さん、好き」
まっすぐな視線。ぎゅっと俺の服を握る手 ーーーー
ぎりぎり保っていた理性の糸が切れる音が、した。
「あーーーーーーーーもう!!!!」
さくらを抱きかかえ、ベッドにつれていく。
そっとおろして、上からのしかかった。
「後悔しない?」
「しません」
「私の処女返してって言われても返せないからね?」
「言わないですってば」
むっとした様子で軽く俺を睨んできた。口をあひるの形にしてやると「やめてください〜〜」と手足をバタバタさせた。その様子がおかしくて少し笑ってしまう。
「斗真さん」
「…………できるだけ、優しくするから」
戸惑いと期待と恐れが入り混じった瞳。
ごく、とのどを上下させたさくらに口付けした。
ーーこの日、俺とさくらちゃんの関係は変わってしまった。
今でも思い返すことがある。
もしこのとき帰っていたらどうなってたんだろうって。
今とは違う未来が、あったのかなって。