10・それは救い?
はすな様は言った。
翔子ならば目の前の褐色の男を少なくとも苦しみからは救えるのではないかと。
それは、つまり……。
「……はすな様はわたしに、この男の人を『食べろ』と言っているのかな?」
「その通りじゃ」
翔子の言葉にはすな様は頷く。
首を横に振って、翔子は答えた。
「……嫌だよ。だってそれは、結局は人を殺すことと同じ、だよ」
はすな様は褐色の肌の男を見ながら、翔子に言葉を返す。
「その男は幽霊じゃ。しょーこがその男を食らおうとて、殺人にはならん。現世の法律は幽霊には適用されんのじゃからな。現にお主は今まで三人の幽霊を食べてきたではないか」
翔子はそのはすな様の言葉を否定する。
「好きで食べたわけじゃないよ……」
翔子がこれまでに食らった三人の幽霊たち。
その幽霊たちを翔子が食べるに至ったのには、それぞれ相応の理由があった。
隣の家に住んでいた老婆は、亡くなった祖父の約束を翔子が代わりに果たすために。
サラリーマンの男性は、幽霊になり忘却してしまった生前の記憶を心の底からすくい上げ、まだ生きている妻と娘を救うために。
そして、中学の頃、翔子の友人だった少女は、生きた記憶をすべて覚えておいて欲しいという彼女のその願いを叶えるために。
皆それぞれ、相手との合意の上で、翔子は食らったのだ。
軽い理由で食べたわけじゃない。
「好きで食べたわけじゃない、か……。しょーこ、お主が幽霊を食べるのを好まんのは分かる。人の魂を食べるのは、人の心を食うのと同じ。確かに法律で裁かれることはなくとも、殺人と本質は同じことなのかもしれん。だが、目の前の男は苦しんでおる。このまま放置すれば、さらなる苦痛を味わいながら男の魂はばらばらに壊れるように消えてゆくじゃろう。それならば、いっそ、苦しみから救ってやろうとは思わんか? 苦痛から救われるのならば、寧ろお主は感謝されるはずじゃぞ」
「……救われるかどうかなんて、本人にしかわからないよ」
そう、翔子は静かに言葉を返す。
(わたしは、簡単にヒトを食べるような、怪物にはなりたくない)
それが翔子の本心だった。
翔子は別に幽霊を食べなかったからと言って飢えるわけではないし、物語の中に登場する悪しき吸血鬼のように、渇きを覚え幽霊を食べないといても立ってもいられなくなるわけでもない。
普通の食事で問題なく生きていけるのだ。
正直な所、自分が幽霊を食べる事の出来る体質でも、よほどの理由がなければ食べる必要なんてないと思っている。
翔子は、座り込んだままの男性に問いかけるように話しかけた。
あえて冷たい表情を作りながら。
「……あなたは、わたしに食べられたい? 食べてもらいたいかな? 存在が消えるまで続く痛み。それからは、あなたを救ってあげる事は出来るかも知れない。でも、悲しいけれどわたしが出来ることは結局はあなたの存在を消してしまうと言うこと。それでも、あなたはわたしに食べてもらいたいかな?」
「……ワタシ、ニホンゴ、ワカ……ラナイ……」
褐色肌の男性は翔子に呻くように答える。
そして、翔子には分からない言葉でぼそぼそとうわ言のように呟きはじめた。
英語なら多少は分かったかも知れないけれど、全く違う言語だったので翔子には分かるはずもない。
「……わたしには、あなたを救うことなんて、できないよ……」
翔子は首を横に振って呟く。
座り込んだ男性の様子が急変したのは、そう翔子が呟いた、直後の事だった。