第二話 スタア誕生・3
辛いことの後には良いことがあり、それでバランスが取れている、ということなら、楽しいことの後には嫌なことがあってしまうのではないだろうかと前々から思っていた航也だったが、実際にこうやって“嫌なこと”を目の前にするとバランスなんて良い方向でしか成り立たなければいいのにという気持ちにしかならないことをつくづく思う。自宅へ帰り、部屋へと戻った瞬間、同い年のいとこである愛斗から電話が入り、航也はほとほとうんざりした。せっかく居心地のいい航平と共に穏やかな時間を過ごし、間もなく帰ってきた史生と三人で談話して楽しい気分に浸っていたというのに台無しだ。そう思いながらも、着信が入ってしまった以上出ないわけにはいかない。できるだけ不機嫌な印象にならないように航也はもしもしとスマホをスピーカーモードにした。
「ああ、航くん。お疲れー」
「お疲れ。どうしたの」
「ん、別に。どうしてるかなと思って。仕事はどう」
「さっき終わって、いま家に帰ってきた」
「ああ、そうなんだ。元気?」
「元気だよ。そっちは?」
「いやもう、仕事が立て込んでてさ」
「そうなんだね」
「いやもう、サラリーマンは辛いぜ」
「お疲れ様」
「音楽の方は?」
「ぼちぼち。目指している領域には全然届かない」
「音楽なんて趣味でいいじゃん」
「……まあね。それで、なにか用?」
「いや、用ってほどじゃないけど。なに、疲れてる?」
「そりゃま、仕事帰りだし。明日は昼から」
「あー、大変だねシフト制は」
「頑張るよ」
「いや頑張らなくていいけど」
「……そうだね」
「じゃ、まあ近況報告ということで」
「OK。じゃあ、また」
「またねー」
電話を切り、航也は大きくため息をついた。
なんてことはないただの電話だ。だが航也にとってそれは“疲れる”以外の何者でもなかった。そのままベッドに雪崩れ込み、天井を見上げる。
いつごろから愛斗に対して悪感情を抱くようになったのだろう。子どもの頃はなにも思わなかった。むしろ面倒見のいいいとこだという認識しかなかった。同い年なのに自分よりしっかりしていると。変わり目はどこだろうと思うと、それは彼が就職してから、というのが最も妥当な気がした。
彼は機械系の会社に勤めている。大学を卒業してずっと同じ職場だ。ただ、航也はいつかの父のぼやきをよく覚えている。愛斗は父が元勤めた会社に勤めており、入社に当たって父に力添えを頼んだのだ。つまりはコネ入社である。もっとも父の力がどこまで及んだのかはわからない。しかし仮にも自分が介入した以上、合格できたのだから菓子折りの一つでも持ってくるべきだろうというぼやきを聞いたときから、航也はなんだか愛斗に対して抱いていた違和感が強くなっていったのを覚えている。
そのぼやきを聞く前、それこそ愛斗に対して一切の悪感情を抱いてなどいなかった頃、二人で外食に出かけたことがある。そのとき愛斗は仕事で機械がうまく作動しないということを航也にぼやいていた。それで航也としては、こういうことじゃないか、ああいうことじゃないかと言ってみたのだが、どれもこれも否定するばかりだった。もちろん、否定が正しい反応なのかもしれない。あくまでも愚痴であり相談ならひたすら同情すべきだったのかもしれない。いや、なんといっても自分は機械のことなどなにもわからないのだし、自分が思いつくような可能性ならとっくに想定済みで実行済みなのもよくわかる。しかし航也はそのとき初めて彼に対して違和感を抱いた。なんだか“そんなことお前が言う前から知ってる”と言わんばかりのその態度にイラつきを覚えたのが、最初といえば最初なのだろう。
これだから世間知らずのフリーターは、と見下されているような気がした。
“コネ入社のくせに”と、後に父のぼやきを聞いた航也は、彼になにか言われる度にそう思うのが常になっていた。
イライラする。
それでも小さい頃から付き合ってきた同い年のいとことして、小さい頃から仲良くしていた通り大人になってからも関係性は続いていた。しかし、それらの件から航也はなんだか愛斗に対しての悪感情が会う度に関わる度に増していくのを感じた。
『趣味でいいじゃん』
ミュージシャンになりたい、という夢を話すと、彼はいつも壊れたレコードのようにそう繰り返した。
どうして頑張れと言ってくれないのかわからない。
それもなんとなく想像できる。そもそもいつまでも夢みたいなことを言っているなという余計なお世話もあるにせよ、おそらく彼は「頑張れ」という言葉自体を悪い言葉だと認識している。相手にプレッシャーを与え、頑張っている人にこれ以上頑張ることを強要することは悪いこと。それ自体は確かにそうだと思う。だが結局、そんなのはTPO次第だ。相手に合わせてケースバイケースに対応を変えること……要はそれが面倒だからひとまとめに頑張らなくていいと言い放つのだろう。仕事にしても夢にしても、自分が頑張りたいと言うからには頑張れと言ってくれたらいいのにそこまで頭が回らない。頭を回せない。
要は思慮が浅い、ということなのだろうと航也は思う。以前ちょっとした喧嘩で、完全に頭にきた航也は“とんでもなく酷いことを言ってやろう”と計算して「田舎の人間だから細かい心の機微がわからないんじゃないのか?」と言い放ったことがあったが、それからも愛斗はなにも変わらず航也と関わってくる。そもそも喧嘩もなにも、彼に嫌なことを言われてキレただけで、愛斗の方はなぜ怒っているのかわからないといった様子だった。
自分の言葉は彼を傷つけることすらできないんだな、と思うと、なんだか絶望感を覚える。
自分は正社員のサラリーマンでお前は気ままな脛かじりのフリーターだろうと言われているような気にもなってくる。要するに、航也は愛斗の無神経さが気に障るようになっていたのだった。
はあ、とため息をついた。しかし、そうはいっても親戚として最低限の付き合いはしなければならない。父方の親戚だし、墓のことだったり祖父母の位牌のことだったり、考えなければならないことは山ほどある。好きだから付き合う、嫌いだから付き合わない、などという無責任な態度は取れないし、取ってはいけないと思っていた。
子どもの頃は、こんな風じゃなかったんだけどなあ。
天井を見上げ、ぼんやりとそう思う。
でも、大人になるというのは、要するにいまの愛斗みたいになるということなのだろうかという気にもなってくる。深いことや細かいことをいちいち考えず、夢を諦め現実と向き合い、相手のことよりまず自分のことを最優先すること––––。
実際、自分はまだまだ子どもだという認識しか航也にはなかった。もう三十路をとっくに過ぎたのにいつまでも思春期が長引いているかのような自分が航也は情けなかった。早く大人になりたい、と、ふと鏡を見ると立派な三十二歳の大人の男がベッドの上で項垂れていて、航也は固く目を瞑り頭を抱えた。