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【王妃マルジョレーヌの回想】



東の離宮に入れるのは、私と限られた人間だけ。

一番信頼のおける護衛を連れて、今日もフィリベールの様子を見に来た。


王宮にあるフィリベールの私室は落ち着いた紺色を基調とした部屋だが、ここは明るいクリーム色だ。

ベッドリネンは緑色の大きな葉の模様で、フィリベールが好きそうだと選んだもの。


「ご機嫌いかが、フィリベール」


陛下、とは呼ばない。

彼は少しずつ、ただのフィリベールに戻っている。

もう言葉も出ないのだ。

こちらの問いかけに、倦んだ目で頷いたりするだけ。


「あなたの可愛い蝶々から、手紙を預かって来たわ。今読むなら身体を起こしてあげるけれど。

それとも私が代読しましょうか?」


フィリベールは身体を起こせと言いたいようだ。

大きなクッションを背中に当てるようにして、ずいぶん軽くなった身体を抱き起こす。

手紙を開いて手元に置いた。

フィリベールは目を細めて、子供の手習いのような拙い文字を追う。


ここへ持ってくる前に、当然開封して読んでいる。

何か毒が仕掛けてあったりしてはいけない、そういう名目で。


王宮の外れに小さな宮を構え、そこにフィリベールは蝶々を囲っていた。

文字もろくに書けない平民の娘だった。

フィリベールがこの離宮に移されたその日に、蝶々は荷物をまとめて出て行った。

金貨を一枚渡してやると、これだけかと私に詰め寄った。

要らないならとしまおうとすると、ひったくるように胸の間にしまい込んだ。

フィリベールの愛以外は何も欲しがらない慎ましやかな娘。

元気だった頃のフィリベールがそう言っていたけれど、出納係からはかなりの金が蝶々に渡っていたと報告されていた。それもフィリベールの身体が病に蝕まれ始めてすぐの頃から。


手紙には、『元気でいてください、さようなら』と書かれていた。

既に病んでいるのに元気でいてくださいとは、ずいぶん拙い言葉だ。

こんな手紙を貰うのはフィリベールの死を引き寄せかねないとも思ったが、それも彼の選んだ人生だ。


「蝶々は次の花を、二人の宮を護衛していた者から選んだみたいよ。安心したかしら」


護衛騎士は辞して蝶々の手を取り出て行ったが、金貨一枚でどこまで夢を見られるだろうか。


「ロルダンを廃嫡することにしました。あなたに似たのが顏だけだったらよかったのに」


オレンジの輪切りを浮かべた水を、匙でフィリベールの口元に運びながら、天気の話をするかのように息子を廃嫡するのだと伝えた。

フィリベールは薄く口を開け、水を舐めるように飲んだ。


私は毎日ここへ来て、フィリベールにいろいろなことを正しく報告している。

私の顔など見たくもないだろう。

だから来ている。

フィリベールは何度も水の匙を欲しがる。欲しがるだけ与える。

要らなくなると、私の手の上にフィリベールは自分の手を置く。私は大きなクッションを外してフィリベールを元のように横たわらせた。

それだけで息が荒くなる。相当辛いように見えた。


「少し眠ったほうがいいわ。いい夢が見られますように。また明日も来るわね」


フィリベールが微笑んだように見えた。

たぶん、気のせいだ。

私は立ち上がって、カーテンを半分閉める。

半分になった空を見ながら、フィリベールと婚約中の頃のことを思い出していた。





私の生家であるアドルナート公爵家は、ここオルティス王国の中心となる公爵家である。

アドルナートの長女に生まれた私は、当たり前のように当時の王太子であったフィリベールの婚約者となった。

フィリベールは今も昔も、物事を深く考えることができない凡庸な人間だ。

婚約者の私に特別酷いこともしないが心を配ることもなかった。


フィリベールが夢中になるのは『虫』だけだ。

ガーデンでのお茶会で、私に止まろうとしたハチに驚いて手で払ったら温厚なフィリベールが声を上げた。

あのハチは刺さないハチだ、生物を捕食せず攻撃性の無いハナハチの仲間だと。

刺さないハチを邪険にする君のほうが狂暴だと、そう言われた。

私にはハチの種類など分からないし、すべてのハチは人を刺すものだと思っていた。

ハチが自分に止まりそうな恐怖からつい払ってしまった、それがそんなに悪いことだったのか。

フィリベールにとって私はハチ以下だった。


虫にしか興味を持たないフィリベールは、学園在籍中に一匹の『蝶』を見初めた。

平民の畑から飛んで来たその蝶は、高位貴族令息という花々の間を飛び交った。

そしてその中でも一番高貴な王太子という花に止まって、蜜を吸い上げ始めたのだ。

私には毒蛾にしか見えなかったが、ギラギラとした鱗粉を振りまく蝶にフィリベールは夢中になった。

フィリベールが蝶を見つめる熱のこもった目を、私は初めて見た。

こんな甘い表情を浮かべる人だったのか。


だが、ギリギリのところでフィリベールは婚約破棄を私に突きつけなかった。

彼の側近たちにも蝶は毒蛾に見えたらしく、

『蝶を王宮に閉じ込めてその(はね)をもいでしまうおつもりですか』と、異口同音に進言したようだ。

特待生とはいえ平民である『蝶』を未来の王妃に据えるのは無理だと、フィリベールも理解したのだろう。

平民では側室はおろか愛妾にさえできぬと当時の国王に諭され、蝶はフィリベールのカゴから放たれた。

その後、平民の豪商に嫁いだと聞いた。

フィリベールは、虫は何でも好きだが蝶を食すカマキリは嫌いだと私に言った。

あれは私のことをカマキリだと言っていたのだ。



それから何の抑揚もない平らかな日々が続いて、フィリベールと私は結婚をした。

もしや白い結婚だろうかと思いながら迎えたその日の夜、フィリベールは私を『モルフォ』と呼びながら抱いた。

それは別れさせられた平民の『蝶』の名前ではなかった。

まだ、愛していた女の名前のほうがましだった。

青く美しい『モルフォ』、本物の蝶の名を呼ぶフィリベールの下で私はロルダンを身籠ったのだった。


未来の王妃たるもの我が子を亡くした時以外泣いてはならぬと覚悟を決めていたが、白々と朝を迎えた時、おぞましさと虚しさからつい涙を浮かべてしまった。

だがその涙をこぼすことはなかった。

こぼすものかと耐え、僅か一日でもいいからフィリベールより長く生き、その時こそ自分を取り戻すのだと誓った。


私がロルダンとエクトルを産んだあと、フィリベールは私の部屋を訪れることはなくなった。

先の国王が薨去しフィリベールが即位した後、新たな『蝶』を、王宮のカマキリの手の届かない外で飼うことにしたようだ。

新たな蝶も平民で、フィリベールの愛以外の何も欲しがらない慎ましやかな蝶だという。

愚かなフィリベールは、私を金がかかる妻だと思っていた。

一国の王妃たる者が、相応の宝飾品を身につけずに社交の場に出るわけにはいかないことなど分かろうともしなかった。


ロルダンとエクトルをフィリベールのようにしてはならないと、厳しく教育してきたつもりだった。

でも、肝心の第一子ロルダンはフィリベールそっくりに育った。

フィリベールの青い澄んだ瞳と金色の髪を受け継ぎ、目鼻の配置を含めて容姿は申し分ないのに肝心の中身が王太子としては足りなかった。

それに気づいた時にさらに教育の時間を増やしたが、馬を水辺に連れていくことはできても水を飲ませることはできなかった。


そのため大切な友人の忘れ形見であるデルフィーナという優秀な公爵令嬢を婚約者として、ロルダンに足りない部分を補ってもらおうとした。

デルフィーナは良く学んでくれたが、その優秀さがロルダンの内なる劣等感を煽ってしまった。

おそらくロルダンはそれほどデルフィーナを嫌っている訳ではなかったが、デルフィーナという完璧な婚約者を邪険にすることで、周囲の者たちへの体裁を取り繕った。

こんなところまで、フィリベールそっくりになってしまった。

フィリベールが平民の女に惹かれるのは、平民相手でないと一段上に立つことさえできないからだ。


幸いと言うべきか、下の息子エクトルはそんなロルダンを間近で見てきたおかげで、そうした思春期独特の見栄を疎んじ、兄のようにはなりたくないと一足飛びでロルダンより先に大人になった。

それもある意味では気の毒なことかもしれないが、私は心から安堵した。

息子のどちらもフィリベールそっくりでは国が立ち行かない。

母としてはロルダンをどうにかしたかったが、王妃としてはロルダンを見限った。


まだフィリベールの婚約者だった時、先の王妃殿下に私は『王妃の秘薬』を所望しなかった。

そこまでの人生すべての記憶を失うということが怖かった。

アドルナート公爵家の両親のこと、兄弟のこと、友人たちのこと、ここまで辛い勉学で得た知識のすべてを失うことは選べなかった。

フィリベールと想い想われる関係性は望めなくとも、王妃としてフィリベールの隣に立つことはそれほど無理だと思わなかったのだ。

フィリベールはこれからも虫だけに興味を向け、可憐な平民の蝶を追い求めるだろう。

そんな彼に国政は難しく、この国を背負うのは私なのだという矜持に人生を賭けようと思った。

フィリベールの周囲の良くない者たちが、私が隣にいては転覆を願うことは叶わないと諦めるくらいに強くあろうと。


デルフィーナが人生を打ち捨てる選択をした潔さは、それだけここまでの彼女の人生が苛酷だったということで、私は捨てられないほど幸せに生きて来られたということだった。

でもそれも、ロルダンの教育に失敗したことで、ここから私は人生の厳冬期に入っていく。

最後に、デルフィーナの第二の人生が素晴らしいものになるように、全力で整えた。

デルフィーナを幸せにできなければ、いつか空の向こうで逢うエルシーリアに顔向けできない。

私はアドルナート公爵家に、エルシーリアはクレメンティ公爵家に生まれ、どちらも家と国に身を捧げるような結婚をするしかなかった。

似た境遇に生まれたエルシーリアはもう一人の自分のようだった。


今度の夜会で、私とデルフィーナからエルシーリアを奪った、あの男を叩き潰す。

ロルダンの教育に失敗した自分の次に許せないのは、デルフィーナの父であるブラウリオ・クレメンティだった。



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