【デルフィーナの日記】
雑記帳というのだろうか。とりとめのないいろいろなことが書かれている。
その中からジュリアの名前があった箇所を読む。
ジュリア・ペレイラ
ペレイラ伯爵家の次女、姉一人弟一人
二つ年上の姉オレリーと不仲、優秀なオレリーにコンプレックスを抱き、姉を陥れる事を常に考えている
自分より優秀な人間はすべて敵だと思っている
学園での成績、中の中
努力を嫌い、努力をせずに中程度の成績を取っていることから、ジュリアは自身のことを本気を出せばできる人間だと自己評価は高い
ロルダンには王太子だから近づいた
姉の夫のブリアック・フラヴィニー侯爵令息よりも地位が高ければ誰でも良かったが、殿下の婚約者が公爵家の私であることから、姉へのコンプレックスを横滑りさせて私をターゲットにした
コルラード・バルデムやトビアス・ベルディーニのどちらともキスまでの関係性を保持しているが、ジュリア・ペレイラの想い人は姉の夫
―――
ジュリアのことが書かれた箇所を読んだだけで、なんとも言えない疲労感に全身が重くなる。
やはり昨日はこのノートに手を付けなくて正解だった。
ジュリアが『コルラードやトビアスとキスまでの関係性を保持』というくだりを読んでも、信じることができずにノートを壁に投げただろう。
今はここに書かれていることは真実だろうと思える。
ジュリアは自分の姉の夫に懸想しているというのか……。
それを知っても何の喪失感も怒りも湧いてこない。
それほど学園でぶつかってきたジュリアが醜悪で強烈だった。
いったんこのノートを引き出しに戻し、別のノートを手に取る。
それはどうやら日記のようだった。
罪悪感を封じて、読み始める。
〇月〇日
今日は私の誕生日。
クレメンティの屋敷を出ているおかげで、父から今年も祝いの言葉がないことを普通に受け止められるわ。
朝の馬車で、ロルダン殿下から何か言葉をいただくということはなかった。
解りきったこと、殿下は私の誕生日などご存じないもの。
私の姿は殿下の目には映らず、私は透けて内装のビロードの布が見えているのよ。
昼の休みにフェリシーとアレットから、おめでとうの言葉と小さな贈り物をもらったの!
フェリシーからは紫色と緑色の葡萄の飾りのついたピンを、アレットからはクリーム色の生地に二羽の向かい合う青い鳥の刺繍がされたブックカバー。
心のこもった贈り物がとても嬉しかった。
本当に、どれだけ嬉しかったか、たぶんフェリシーもアレットも知ることはないわ。
私が生まれてきたことを、母が亡くなってから喜んでくれる人はいなくなった。
むしろまだ生きているのかと思っている人のほうが多いのだもの。
そんなやり取りを食堂ホールでしていたら、ロルダン殿下とご友人たちが通りかかって……。
私たちの会話から私の誕生日と気づいたのか、殿下は食堂のデラックスランチボックスについてくるパウンドケーキを投げるように寄越し『プレゼントだ』と言って去っていった。
殿下はこのパウンドケーキを、スカスカのスポンジを食べているみたいだと言っていつも手を付けない。
それを片付ける代わりに私に投げてきた。
殿下にとって私はゴミ箱なのね。
ジュリア嬢が『キャンドルの代わりにして』と、床に落ちていた誰かのペンを拾い、パウンドケーキに差して殿下を追いかけて行ったわ。
嫌がらせのためなら、食べ物にこんなことができるなんてと驚いてしまう。
目の前で起きたあまりのことに驚いて、泣き出してしまったアレットを、フェリシーと一緒に慰めた。
殿下はどうしてもっと人の目を気にしてくださらないの。
私に対してこういう嫌がらせをしたいのなら、人目の無いところですべきなのに。
自分は何でも受け止める。でも周囲の人たちは違うのよ。
私も私の友人も、周囲にたまたま座っている生徒たちもこの国の民。
王族の言動に相応しい態度をと、殿下に進言することもできず暗い気持ちになった……。
私を傷つけて喜びたい殿下に言ってあげたいわ。
最悪の誕生日になったわ、どう、嬉しいかしら?と……。
〇月〇日
期末考査を私だけ別室で先生の監視下で受けるようにと言われた。
理由を尋ねると、匿名の生徒から私が試験で不正を行っていると投書があったそう。
誰だか知らないけれど、感謝したい。
監視下で試験を受ければ不正と言われずに済むもの。
誰だか知らないけれど、こんなことをしても本人の成績が上がるわけではないのに……。
先生は、投書の生徒のことをうっかり「彼女は」と口を滑らせたことに気づいていなかったわ。
おそらく匿名ではなかったのでしょうけど、誰なのかしらね。
〇月〇日
今日も食堂ホールでジュリア・ペレイラがぶつかってきてスープを掛けられた。
だんだん手口が荒っぽくなってきていることが心配になるわ。
こんな雑な手口に騙されるのは、殿下と取り巻きの皆さんくらいのものね。
騙されているというよりは、見たいようにしか物が見えていないということなのだと思うわ。
殿下はジュリア・ペレイラのスカートにもほんの少しスープが掛かったことで、
『こんな卑怯な女でも自分の婚約者である以上、僕が弁償しよう』と言い、ジュリア・ペレイラは夜会用のドレスをねだっていたわ。私を見て下品な笑いを浮かべて。
自分で他者に掛けたスープの小さい染みが夜会のドレスに化けるのだから、凄腕の錬金術師ね。
ペレイラ伯爵は伯爵領の小麦の生産高を低めに申告して納めるはずの税をずいぶん逃れているのだからお金はあるでしょうに、ジュリア・ペレイラはこのような手口で王家にドレスを集るのね。
きっとこれはロルダン殿下に割り当てられた王子費からではなく、婚約者に関わる費用から出すのでしょう。
私にはリボン一本手袋ひとつ贈ってくれたことはないけれど、今年度の予算は早くもそれほど残っていないと思うわ。
私に贈ったとされるドレスがどれも私には大きすぎるサイズであることを、ロルダン殿下は誰も把握していないと思っているのかしら。
いいえ、そんなこと気づくはずもなかったわね……。
〇月〇日
馬車に乗り込んで座った時に、制服のスカートの裾がほんの少しめくれていたのを慌てて直したら、ロルダン殿下にいきなり怒鳴られた。
『この自意識過剰女が! おまえが全裸で道に横たわっていようとも僕はその傍らを通り過ぎる!』と。
何を言われたのか、咄嗟に理解できなかった。
ただ身だしなみを整えたつもりだった。
殿下に言われた言葉の意味を、そのあと授業を受けながらずっと考えていた。
私はこれまでもいろいろなことを殿下から言われてきたけれど、そのどれもここまで心に残らなかった。
でもこの言葉は薄い刃物のように、私の心のまだ柔らかい部分に刺さったの。
私は殿下に嫌われているのだと思っていたけれど、そうではなかった……。
私は殿下から憎まれているのよ……。
それほどの理由は何も思い当たらない。でも憎まれてしまっては理由など何でも同じね。
明日、王妃様に『王妃の秘薬』を所望しよう。
このひと月あまり、ずっと考えていた。
ロルダン殿下から嫌われていても、王家が望んだ婚約なのだから最低限のことは保証されるはずだと思っていたのが間違いだったのね……。
王家に相応しくあれとどれだけ努力をしても、殿下が私を憎んでいるならなんの意味もない。
私が努力をすることを殿下は当然だと思っている。
むしろ努力をすることさえ、「あてつけがましい」と思われるだけなのに。
結婚すればその努力を搾取し、殿下が愛情を向けるのは別の女性なの。
私は、穴の開いた器に水を溜めるように命じられるだけ。
私を可愛がってくださっている王妃様を含めて、誰もが私もただの十八の娘であることを忘れている。
私ですら忘れていた。
前に笑ったのがいつだったのかも、紅茶の味も、何もかも。
私が生きてきた意味も、これからの希望も、何も、何も無い。
そこで日記は終わっていた。
しばらく動けずにいた。
息をするのも苦しく、心臓が軋んでいる。
ここに書かれていることのうち、自分に関わることはすべて記憶にあった。
僕は、デルフィーナを憎んでいるのだろうか……。
デルフィーナの日記にその理由が思い当たらないと書かれていたが、自分でもよく分からなかった。
そんな『よく分からない』ことでデルフィーナを蔑ろにしていたというのか……?
分かったことは、僕の言動が周囲のすべての者たちに影響を及ぼしたということと、それによってデルフィーナが絶望感を持ったということ……。
デルフィーナの絶望は当たり前のものだった。
もしも僕がこのような扱いを誰かにされたとして、僕はデルフィーナのように一日を過ごせるだろうか。
読んだ日記は、二か月前からの日付だった。
その前の日記帳を開けばさらに自分のしでかしてきた悪行が書かれているのかと思うと、文字通り吐き気がこみ上げる。
僕はあの醜悪な顔を見せたジュリアよりもさらに醜悪な人間だった。
デルフィーナは婚約を白紙にしたいと言うだろうか。
侍女を通じて、母上に目通りを頼んだ。
それが叶ったのは翌朝になってからだった。
「デルフィーナ、ずいぶんと顔色が悪いけれどどうしたのかしら。今日が休日で良かったわね」
「……母上……」
「あなたが何を見たとしても、すべてあなたに原因があるのは分かったでしょう?
あなたに責任があって彼女がずっと耐えてきたことを、たった一日で音を上げるのかしら」
「……あの、ひとつだけ尋ねてもよろしいでしょうか」
「手短に」
「デルフィーナに出される食事が少量で薄味なのは、何か理由があるのでしょうか」
さっと母上の顔が曇った。
思案するような表情を浮かべたと思ったら、すぐに絶望の淵を覗き込んだような顔になった。
「……王族以外に毒見の者は付かないから、あの子がそう希望していたのかもしれないわね。
味がおかしければすぐに気づけるようにと。
何ということ……わたくしとしたことが、そこまで気が回らなかった……。
あの子は王宮で出される食事でさえ疑うのが当たり前になっていたのよ……。
実の父が実母に毒を盛ったのだもの、誰も何も信じないのがあの子の日常だった……」
デルフィーナの父、クレメンティ公爵がデルフィーナの母に毒を盛った?
いったいどういうことなのか。
まさかクレメンティの血を継ぐ妻を、婿に入った公爵が殺したというのか?
それでグエルティーノを連れた後妻と再婚した……。
そうなるとクレメンティ公爵にとって、クレメンティの血を継いでいるデルフィーナなど邪魔でしかない。
クレメンティの家で、デルフィーナは毒を盛られていたのか?
それで母上はデルフィーナを王宮に住まわせた……。
デルフィーナの命を守るために。
そんなデルフィーナに、婚約者である僕は何をしたのか。
「母上っ、僕はどうしたら……」
「もう、あなたにできることは何もありません。でも、私にできることもそう残っていないのよ……。
だけど私は王妃としてすべきことがあります。あなたは私のすることをただ黙って見ていなさい」
母上は、紙より白く薄く消えてしまいそうな笑顔でそう言った。
 




