【その花の名前は】
あれから四年が過ぎた。
夜会で騒ぎのあったその年の暮れに療養中だったフィリベールが薨去し、王家はロルダン、陛下と不幸が続いたことになる。
エクトルは若き国王となり、喪が明けてから婚約者アメリア・ガストーニ侯爵令嬢と無事に結婚の儀を執り行った。
すぐにチェスティ州のエルシーリアの墓参に行きたかったけれど、私にそんな余裕は無かった。
新たにオルティス王国の頂きに座った若すぎる王を見極めようと、周辺諸国はさまざまな形でオルティスに干渉しようとした。
私は国王となったエクトルと王妃アメリアを支える王太后となり、周辺諸国から二人を守らなければならなかった。
エクトルは母の欲目を差し引いても、王の器として一定の水準に達している。
周囲の者の意見にしっかり耳を傾け、また自身の目で何事も確認を怠らない。
自分に甘い言葉を囁く者は精査し、自分に厳しいことを言う者もまた精査の末に重用する。
若いからと侮って近づいた者たちも、そうしたエクトルを間近で見てからは距離の取り方を変えてきた。
ただ、正義感が強いところが弱点ではある。
『正しさ』に重きを置くが、その『正しさ』を、常に疑ってかかる目線が足りていない。
真っ直ぐさに、柔軟さが加わるにはもう少しの年月が必要だ。
それまでは『狡猾な母』も少しは役に立つだろう。
王妃アメリアとも仲良く過ごしていて、第一子となる王子が生まれている。
ガストーニ侯爵の令嬢だったアメリア王妃は優秀な女性だ。
私の権限で、アメリアが受ける『王太子妃教育』の内容を一新した。
単に『王妃となる者の心構え』のようなものだけに絞った。
デルフィーナのようなことを繰り返してはならないと、長きに渡った慣習を止める勇気を出した。
そんな頃、ロンの記憶が戻っているのではないかとガイロからの報告を聞いた。
ガイロが街にロンを伴って日用品を買いに出向いた時、ロンは自分でティーポットとティーカップを二つ購入した。
『お養父さんが炒ってくれる茶葉は、やはりポットで蒸したほうがもっと美味しくなるだろうから』と言ったという。
ポットもカップも高価なものではなかったそうだが、『やはり』という言葉に、ガイロはロンの記憶が戻っていると確信したというのだ。
それを聞いて私もそう感じ、ロンを遠くの領地へ送る用意をしようとしたときのことだ。
ロンが高熱を出して、ガイロの看病も虚しく三日もせずに亡くなった。
このオルティス王家を揺るがせた者のその死は、あっけないものだった。
ロンの死後、植物の勉強をしていたノートの間に隠すように、ロンの日記が見つかった。
ガイロが気づくよりもっと前に、ロンの記憶は戻っていた。
私はロンがロルダンだった最後の日から、彼と言葉を交わすことはついぞ無かった。
庭師として働く姿を、遠くから何度か見かけただけだ。
だから私はロンの死と向きあっても、涙を落とすことはしたくなかった。
あの日ロルダンが眠りにつくときにもう『我が子を亡くした母の涙』を流し切っているのだから。
それが私の母としての矜持だった。
ロンの遺体を密かに王家の『ロルダン王子』の、空だった墓に埋葬した。
彼は土の下で自分の名前を取り戻して、永き眠りについたのだ。
埋葬を密かに担ってくれたガイロは、私以上に憔悴していた。
泣きながら『ロルダン王子』の墓に『ロン』が育てた花を、供えるのではなくその手で植えた。
土にまみれた手で涙を拭い、『息子に先立たれるのは哀しいことですね』と呟いた。
その時、ずっと泣くまいと思っていた心の蓋が外れ、涙が溢れた。
私がもっとしっかりロルダンを正しく教育できていたら、ロルダンの弱い心に手を差し伸べていたら……
涙は後悔を連れてきて、私を静かに責めた。
「……泣いてはいけないのに……私と息子のせいで……多くの人の人生が、あるべき軌道から逸れてしまったのに……」
ロルダンが還った土に触れると、その冷たさが氷のように胸を突く。
感傷に浸る資格もないというのに、私の涙は止まらなかった。
「我が子を亡くして泣く母を責めていい者は、生まれた時に泣かなかった者だけです」
ガイロが小さな声でそう言った。
とても優しい言葉だった。
私は冷たい土に両手をついて溢れる涙が止まるまで、そのままでいた。
***
庭師小屋で、ロンが残したティーポットとティーカップでガイロがお茶を淹れてくれた。
鉄の小鍋で茶葉を炒ると、香ばしい匂いが小さな小屋に漂う。
「美味しいわ……」
私が日頃飲んでいる茶葉より廉価なものだろうが、その味は勝るとも劣らないものに感じた。
「その茶葉は、ロンが育てたものです」
驚いて顔を上げると、ガイロが大きな缶をテーブルに置いたところだった。
「ロンは花もよく育てましたが、一番力を入れていたのは茶の葉を育てることでした。
暑くなる前に空をよく読み、一番いい時期に葉を摘んでいました。
この缶の茶葉は、今年ロンが摘んで乾かしたものです。良かったらお持ちください」
「このお茶の葉を……ロンが……」
「ええ、茶の木を丸く剪定して、見映えもよく整えたから王宮の庭で育てても悪くないはずだと」
ガイロは嬉しそうに言った。
「ロンの最後の茶葉なら、あなたと半分に分けるわ。あなたはロンの養父だもの」
「途方もないありがたいお言葉です……ではお言葉に甘えまして」
ガイロは茶葉を別の缶に半分あけて、少しキレイなほうの缶を私にくれた。
「このティーポットとカップも、洗ったらお持ちください。ロンが最後まで大事に使っていた茶器ですので」
「それならここに置いておくわ。……たまに、日常に疲れたらここにお茶を飲みに来てもいいかしら」
「どうぞお待ちしています。私が育てたそれほど旨くない茶葉もありますから」
ガイロの言葉に、私は久しぶりに笑った。
大きな茶の缶を抱えて王宮への小径を歩いていく。
このお茶をエクトルにも分けようかしら。
あの夜会の日、エクトルがエスコートしたデルフィーナが実はロルダンだということは、エクトルには話していなかった。
でも、敏いエクトルはあのデルフィーナに何かを感じていたように思える。
エクトルの婚約者の王太子妃教育をこれまでとは変えると話した時、エクトルも自分の王太子教育の中身に変更があったことを知ったはずだった。
いつか、エクトルとロルダンの話をすることがあれば……。
その時にこの茶を淹れよう。
***
ロンの死から一年ほどが過ぎ、ガイロと共にチェスティ州に赴いた。
王家の馬車ではないごく普通の馬車に、護衛たちと共に馬車に揺られてやってきた。
ジルドとフィーナの間に、待望の第一子が生まれたという知らせが届いた。
すぐにはやって来られず、あれこれ雑事を片付けているうちに知らせを受けてから八か月ほども経ってしまった。
馬車がチェスティ・ハウスの馬車寄せに入ると、館の前で子供を抱いた二人が待っていた。
「デルフィーナ!」
思わずその名を呼んでしまった。
「王妃様!」
呼び返されたその名も正しくなかった。
「なんだか間違ってしまったわ」
「すみません、わたくしも」
久しぶりの再会に、私たちは抱きしめあった。
***
荷物を置いただけで、すぐにエルシーリアの墓に向かった。
教会の裏手にあるその墓地へのアプローチは、緩やかな曲線を描いて少し登り坂となっている。
その小径の両側に白い小さな花が揺れている。
私が墓地の敷地内に進むと、他の者たちはそこで足を止めた。
きっと私とエルシーリアを二人きりにしてくれるのだ。
「エルシーリア、ずいぶん久しぶりになってしまってごめんなさい」
先ほどガイロが渡してくれた花を墓石に手向ける。
ガイロの息子のジルドがここで育てた花だ。
エルシーリアに伝えたいことがたくさんあり過ぎた。
クレメンティ家のことなど、穏やかではない話もたくさんある。
でもどんな言葉も必要がなかった。
エルシーリアは空からすべて見ていたことだろう。
ひとつだけ、どうしてもエルシーリアに直接言いたかったことだけを言葉にした。
「これまでたくさん私は間違った。これからも間違えるかもしれないけれど、今どうしようとしているのか何を考えているのかを、人に相談できるようになったの。
エルシーリア、これからも愚かな私をそこから見ていて」
エルシーリアからの応えはもちろん何も無い。
でも、ここまで来られたことが私には大きなことだった。
いろいろなことは、私がエルシーリアのところに行ってから話せばいい。
墓石はきれいに磨かれ、近くには花がたくさん植えられている。
大事な娘が近くに住んでいつでも手を合わせに来てくれる……。
私がエルシーリアにできることは、全部やり遂げられたはずだった。
あと少し、王太后としてやるべきことが残っている。
まだ若いエクトルの地盤をもう少し固めたい。
そうしたら私はガイロに、あるレシピを求めるつもりだ。
すべてのことを忘れる薬のレシピを……。
ロルダンを見送り、デルフィーナの幸せを見届けてエルシーリアの墓参りが済んだ今、もう私に思い残すことはない。
あのフィリベールより長く生きることもできた。
私がすべて忘れた後は、ガイロに修道院に連れて行ってもらうことを頼むつもりだった。
***
教会の庭のテーブルに、サンドイッチなどを並べる。
「マルジョレーヌ様、少しの間ディーナを抱いていてもらえますか?」
「いいわよ」
マルジョレーヌ様はディーナを抱き取ってくれた。
私たちは娘に『ディーナ』と名付けた。
それは私の子どもの頃の愛称で、母がずっとそう呼んでくれていた名前だった。
今は『フィーナ』となった。
自分が『ディーナ』と母から呼ばれた幸せだった時間を、その時間よりもずっと長く娘のディーナに与えていきたい。
その名前を娘につけることに賛成して喜んでくれたジルドの、ディーナを見つめる瞳が優しくて、私は心から幸せに思う。
ディーナだけではなく私はジルドのことも、もっともっと幸せにしたい。
今もジルドを見つめるだけで、ジルドに触れられるだけでたまらなく幸せで愛しい。
寂しくて居場所のなかったデルフィーナはもういない。
愛することを教えてくれたジルドと、そのジルドによく似た瞳を持つディーナがいてくれる。
今はジルドと一緒に、ここチェスティ・ハウスの運営管理をしている。
ハイハイを始めて目が離せないディーナがいるから、どんなことも二人でその時できることをやっていく。
マルジョレーヌ様がディーナをあやしてくれて、ジルドの養父のガイロ様が微笑みながらそれを見つめている。
とても幸せな光景だけど、たぶんマルジョレーヌ様がここに来ることはもうないだろう。
私たちは互いに、もういろいろなことを忘れたほうがいいのだ。
本当なら、私はあの時『王妃の秘薬』を飲んですべて忘れるはずだった。
だけど私はデルフィーナとしての何をも失わず、フィーナとして新しい人生を始めた。
ジルドも私の手を取って、新しい人生を始めてくれた。
マルジョレーヌ様にもそうして欲しいと思う。
母のお墓の前で、マルジョレーヌ様が記憶を失っていたロン様が亡くなったことを話してくださった。
ロン様は『ロルダン殿下』の空っぽだったお墓にそっと埋葬され、その名を取り戻して眠りについたという。
そのお話をしてくださったマルジョレーヌ様は、落ち着いた表情でいらした。
そしてロルダン様が『庭師のロン』として育てた花の種を、ガイロ様がジルドに手渡した。
私たちの気持ちが向けば、ここチェスティ・ハウスの花畑の一角に、ロルダン様がロンとして育てた種を蒔いてほしいと。
ロルダン様が育てたいろいろな花の種が混ざっているという。
何が咲くかは分からないそうだ。
お二人がお帰りになったら、ジルドと話し合うことになるけれど、私はロルダン様にもう何の感情も持っていなかった。
あれだけいろいろあったが、『王妃の秘薬』を口にした時にロルダン様へのマイナスの感情もプラスの感情もすべて洗い落とした気がした。
デルフィーナであった時に、ロルダン様にこちらからもっとできることがあったかもしれない。
愛など最初から必要ない婚約ではあったけれど、まったく尊重されることのない人生に踏み出すことができなかった。
憎まれ怒鳴られ侮られて生きるには、人生は長すぎる。
フィーナとして生まれ変わり、優しく穏やかに過ぎていく毎日がこれほど素晴らしいものなのかと静かな驚きを日々更新している。
ジルドさえかまわないと言ってくれるなら、その花の種が咲かせる花を見てみたいと思った。
一国の王太子から庭師となった彼が、どんな花を咲かせたのかを───。
おわり




