【プロローグ】
白亜の城が夕陽に染まる頃、王城は夕餉の支度で忙しくなる者と今日の仕事を終えて帰り支度を始める者に分かれて交ざり、賑やかな慌ただしさを見せる。
庭師のガイロは明朝に必要となる装飾用の花の確認も終わり、庭師小屋に戸を立てようとしているところだった。
小屋は住居と作業小屋に分かれており、作業小屋の戸締りをしていたら、高貴な方がガイロを訪ねてきた。
本来ならば、口を利くこともまっすぐお顔を見る機会さえ無いお方が。
「帰る時間にごめんなさいね。ここに書かれている草花をすぐに用意してほしいの。
この内容は今覚えて、用意ができたら私がやって来たことも含めて全部、忘れてちょうだい」
「……かしこまりました。私には子供が三人いましてね、上の娘が半年後に子を産みます。初孫なんです。私は忘れることは得意でして」
「まあ、お孫さんが生まれるの。それは楽しみね」
ガイロは走り書きさえ美しい文字で書かれたメモを見て、これなら確認するのは分量だけでいいと、ほんの少し息をついた。
喉が張り付くように乾いている。
厭なインクで書かれたこの紙を、水も無しに飲み込めるだろうか。
「こちら、覚えましたのでお返しします」
メモを返そうとしたのに、やはり高貴な方は受け取らなかった。
草花を揃えたら、この紙を目の前で飲み込むことになるのだろうか。
「忘れるのも覚えるのも得意なのね。優秀だわ」
「いえ、覚えたのは分量だけでして、こうしたレシピは元より全部頭に入ってるもんですから」
「あらそうなの。いいことを聞いたわ。歩けるようになったお孫さんを抱ける日が楽しみになったわね。
ところで息子さんもいるのでしょう? 息子さんもレシピを知っているの?」
「……いや、息子はまだ勉強中の身ですから。何も知りません」
「そう、じゃあまだまだあなたが頑張らないとね。お孫さんも生まれるのだし」
高貴な方はガイロがもう一度差し出した紙をやっと受け取って畳み、胸元にしまい込んだ。
「すぐに揃えてまいります。すぐに、です」
ガイロは言い終わる前に、小屋を飛び出し奥の庭に向かってカゴを持って走り出した。走ることなど久しくしていないので足がもつれそうになる。
走りながら頭の中で草の名前をいくつも呟く。
すべて揃え調合し、最後に『ある物』を足せば、それは門外不出の『王妃の秘薬』になる。
ガイロが成人したばかりの遠い日、やはり庭師だった父から教えられたレシピだ。
父は揃えたことは無いと言っていた。
今の今までこのレシピのことを思い出すことも無かったが、忘れたことも無い。
息子のジルドにこの危険なレシピを教えるつもりはなかった。
穏やかな幸せを掴んで欲しかった。
子どもたちはみんな孤児院から引き取った子らで、自分の子どもではない。
ガイロは、あるものは花を、あるものは根を、あるものは茎を、次々と抜いたり手折ったりしてカゴに入れていく。
そうして庭中を走り回り、すべて集め終わると高貴な方のところに戻って木製のテーブルに並べた。
高貴な方は、並べられた葉や根の名を呟きながら白い手袋の指先で数えていく。
「……すべて揃っているわね。このままこの袋に入れてちょうだい」
手渡されたシルクの美しい袋に、泥がついたままの草花を無造作に入れて渡した。
どうやら草花を炒ったり調合したりするのはご自身でなさるようだ。
「これから生まれるお孫さんと、それから娘さんにも何か買ってあげなさいな。
子供を産むって大変なのよ、世の男性たちが思っているよりもずっと」
高貴な方は、テーブルに金貨を一枚置いて小屋を出て行った。
厭なインクで書かれたメモを飲み込まずに済んだガイロは、その場でへなへなと座り込んだ。
高貴な方は裏庭の小径を歩いていく。
その足取りはいつもと違って重い。
「……大変な思いをして産んだのに、わたくしは上手く育てられなかったわね……」
その呟きは小径に落ちて、誰にも拾われることがないまま土に染み込んでいった。
そしてくるりと向き直り、今度は少し軽い足取りで来た道を戻って行く。
戸締りが終わりそうな庭師小屋に、高貴な方は身を滑らせるように入った。
先ほどまで橙色に染まっていた王城を、藍色が包み込もうとしていた。