q45「出産とは」
灰谷君から連絡を受け、僕はダッシュで目的地に向かった。
そして、とある一軒の住宅前で立ち止まる。彼の説明通りなら、たぶんここだ。
“すまん、手が離せないから勝手に入って来てくれ”
メッセージの文面からも、切羽詰まっているのが伝わって来る。
もし間違えて別のお宅に入ったら目も当てられないが、だからといってモタモタしてもいられない。覚悟を決め、僕は見知らぬ他人の家のドアを開けた。
「お、お邪魔しまーす! すみませーん!」
そう叫んでから、チャイムを鳴らすべきだったかと後悔する。
しかし既に手遅れだ。僕はジッと返事を待つ。
「……」
誰も、何も返事がない。
もしかして違う家に入ったのかと不安になった……その時だった。
「おーい。こっちだ、入って来てくれー」
遅れて、中から灰谷君の声がした。
どうやらこの家で合っていたようだ。まったく、ヒヤヒヤしたよ。
玄関で履物を脱いだ僕は灰谷君の声がした方に向かう。
すると、リビングらしき場所で無事に灰谷君を発見した。
「おう、サンキューな。この家の飼い主さんが仕事の間だけって頼まれたんだが、タイミング悪く出産の兆候が表れてさ。俺一人だと対処しきれない可能性があったから、助かったよコーメイ」
そう話す灰谷君の近くには、犬用の囲いが置かれている。中には可愛らしい小型犬が一匹、足を伸ばして横になっていた。可愛さではポンちゃんといい勝負だ。
「そんな、いいよ。それにしても可愛いね。これ……ポメックスフンド?」
「なんだそりゃ? 確かにポメラニアンっぽさとダックスフントっぽさがあるが、それらのミックスじゃなくて雑種ってやつだ」
「ミックスと雑種って違う意味なの?」
「まあ、ほとんど一緒の意味なんだけどな。意図して使う場合は親の血統が分かってる場合がミックス、分からない場合が雑種かな。雑種だとイメージが良くないから、主にブリーダーとかペットショップが使う用語らしいぞ、ミックスは」
「へえ、そうなんだ。勉強になったよ、ありがとう。それじゃあ帰るね」
「いや、帰るなよ。来たばっかじゃねーか」
そんな冗談を交わしてから、僕は彼の隣に座ってドッグサークルを覗き込む。
すると警戒したのか、サークルの中にいた雑種犬が唸り声を上げ始める。
「わあ、凄く怒ってるね」
「まあな。急に見知らぬ人間が来たんだ、無理もない。ただでさえ今から出産だって神経質になってるしな」
「それもそうだね。えっと……こんにちは。はじめまして。僕は彼の友人の柳谷光明です。君の出産をお手伝いしに来ました。頼ってもらえると嬉しいです」
そうして犬に語りかける僕を、灰谷君がギョッとして見つめる。
まあ、常識を疑うよね、普通なら。
「……ヒャン! ヒャン、ヒャン!」
「わあ、手厳しいね。精一杯頑張るから、僕と彼がいれば百人力だよ」
「……クゥーン」
「うん、よろしくね」
だが、一転して大人しくなった雑種犬を見て、灰谷君が目の色を変えた。
まるで僕と犬との間で会話が成立しているようにでも見えたのだろう。そんなわけないのにね、普通なら。
「おい、コーメイ。犬の言葉が分かるのか?」
「へっ? まっさかー」
「……そんなわけないか。けど、運よく落ち着いたみたいでよかったな」
「そうだね。ラッキーだったね」
嘘である。
実は、落ち着いたのは僕の持つ意思疎通/万能が発動したおかげだ。僕と雑種犬は本当に会話できていたのだ。
この機能の使い勝手は未だ微妙だが、こうして犬猫などの身近な動物なら充分に意思疎通が可能である。複雑な会話は無理だが、日常会話くらいならお手のもの。
ちなみに、さっき雑種犬が言った内容を翻訳すると、「事情は分かったけど、あんたなんか信用してないんだからね。私の子に何かしたら、ただじゃおかないんだから」と言っていて、その後は「ふん。べ、別に警戒を解いたわけじゃないんだからね。けど、一応ありがと。その……よろしくね?」と言っていた。どうやら彼女はツンデレ犬らしい。犬にもツンデレってあるんだね。
それにしてもツンデレって、日常会話なのだろうか?
「それじゃあ、真面目に説明するか」
「うん、お願い」
そう言って、灰谷君がこれからのことを説明してくれる。
流れとしてはたぶん、もう間もなく彼女が苦しみ出し、その直後に出産が始まる。そうなったら愈々僕らの出番だ。
とは言っても基本は見守るだけで、通常は母犬が自力で対処するらしい。僕らが手を貸す場合は灰谷君が判断してくれるという。経験豊富な彼なら安心だ。
そして、僕が呼ばれた理由は子犬の産声が上がらなかった時。そういうケースではタオルで子犬を包み、マッサージしてあげる必要があるのだとか。それが複数だと、それだけ人手が要るってことなのだろう。
まあ、万が一の時もアイミスがいるから大丈夫だと思うけどね。
「それにしても、コーメイがあんなにプレイボーイだとはな」
「誰がプレイボーイだって? 僕はそんなんじゃないよ。たまたま女の子の友達が二人できたってだけでしょ」
「いやいや、普通の男子高校生はクラスの女子と友達になってすぐ、海水浴になんて行かないぞ。しかも二人とも美少女じゃないか」
「あれは遠野さんが気を遣って誘ってくれただけで、そんなんじゃないって。僕もビックリしたけどさ。それにしても灰谷君も美少女とか言うんだね」
「それは言うだろ。女の子が美少女かどうか判断するのと、その美少女に興味を持つかどうかは別物だからな」
「……それ、暗に二人には興味ありませんって言ってない? あの二人の前でそんなこと言っちゃ駄目だからね?」
「俺が興味あるのはコーメイと美少女たちのラブコメだけだぞ。イベントの人数合わせなら、いつでも呼んでくれ」
「ラブコメのコメの部分、要らなくない? 普通にラブだけでいいでしょ。いや、ラブでも無いんだけどさ」
そうやって、くだらない話で盛り上がっていた時のこと。
急に、ツンデレ犬が細い悲鳴のような声を上げ始める。
「おっ? コーメイ、そろそろだぞ」
「本当に? 分かった、何か準備する?」
「いや、それはもうやってあるから大丈夫だ。指示があるまで見守っていてくれ」
「了解。頑張れ、犬さん」
「この子の名前はラッピーちゃんだ。あんまり呼ぶと気が散るだろうから、頑張った後にでも呼んでやってくれ」
「う、うん。分かったよ」
ツンデレ犬、改めラッピーちゃんに目を向けると、か細かった声が段々と大きくなり始める。そして明らかに苦しそうだ。
動物の出産を見るのは初めてだが、なんだが自分まで苦しい気さえする。
そうして見守ること一時間とちょっと。
遂にラッピーのお尻の下から液体が流れ出し、一匹目の子犬が産み落とされた。
「わあ! 産まれた!」
「よし! よく頑張ったな、ラッピー」
「わあ、ペロペロ舐めてるね。僕たちが産まれた時もこうだったのかな?」
「そんなわけあるか。人間の母親がペロペロ舐めてたら、軽くホラーだ。病院の人たちもドン引きだろうが。戸惑うのは分かるが、落ち着けコーメイ」
そんなやり取りをしている間にも、ラッピーは懸命に子犬を舐めて刺激し、その甲斐あってか初の産声が部屋に響く。
キューンという鳴き声を聞き、ラッピーも幸せそう。そして僕らもデレデレだ。
「うわわわァ、超可愛い。ヤバいよ、マジヤバい。ねえ、ヤバくない?」
「語彙力が死んでるな。遠野さんっぽいぞ。けど同感だ、可愛いが過ぎる」
すると灰谷君が子犬を取り上げ、テキパキと作業してからラッピーの下へ戻す。
僕では何をしているのかすら分からず、こっそりアイミスに教えてもらう。
〖母犬が産後の胎盤を食べて誤嚥を起こさないよう処理し、子犬をタオルで拭き、ついでに体重測定も行っていました。相当手慣れていますね〗
(灰谷君、こういうので結構呼ばれるらしいからね。犬友とか猫友って言うの?)
〖知識だけではなく、度胸と場慣れのおかげで非常に冷静です。それによって母犬も安心できているようです〗
(流石は灰谷君。人間以外にはモテモテだね)
〖……それは褒め言葉なのでしょうか?〗
それから少しして、再び母犬の様子が変化した。
そして間もなく、第二子が。その後も第三子、第四子と無事に産まれる。
今回は前もって動物病院の検査を受け、全部で五匹いると分かっているらしいので、残りはあと一匹だ。
「よし、最後も順調にいってくれよ」
「頑張れ、もう少しだぞー」
……だが、第四子の誕生から一時間が経過しても、もう一匹が産み落とされることは無かった。ラッピーも、素人目で見ても辛そうだ。
すると、灰谷君が「マズいかもな」と呟いてポケットからスマホを取り出す。
「コーメイ。俺、家の人と動物病院に連絡してみるから。少しの間、この子たちを頼む。何かあったらすぐに呼んでくれ」
「うん、分かった。任せて」
ラッピーを不安にさせないよう配慮したのだろうか。灰谷君は部屋の入り口から出て、玄関の方で電話をし始める。
彼が離れることでラッピーが不安がらないかと心配したが、当のラッピーは苦しくてそれどころじゃないという感じだ。
「……ラッピー、産めそう? 苦しい? お腹、摩った方がいいかな?」
「ヒャン。クゥーン」
「え? 全然産める気がしないって? それってマズいんじゃ……」
「ヒャン、ヒャン」
「自分が駄目な時は、子犬たちを頼むって? 不安なのは分かるけど、諦めるのが早いよ。大丈夫、絶対に大丈夫だから安心して」
そうは言ったものの、素人の僕では役立たずである。
いざとなったらアイミスに助けてもらうつもりではいるが、どのタイミングで判断すればいいのかすら分からない。
もしかして術理/治癒の機能が役立つかと期待してみたが、それでは疲労回復はできても出産の手助けにはならないようだ。僕だけでは本当に役立たずである。
そうしているうちに、ラッピーの表情が一段と険しくなった。
僕が灰谷君を呼ぼうと、その場で立ち上がった――――その時だった。
「えっ? なに、これ……」
突如、僕の眼前に不思議な色合いの光球が落下して来たのだ。それはゆっくりと宙を漂い、やがてラッピーのすぐ上までやって来る。
すると次の瞬間、それは彼女の腰の辺りに吸い込まれるように消えてしまった。
「ええっ⁉ 今の何? ラッピー、大丈夫?」
「ヒャンッ‼」
「ラッピー⁉」
彼女の言葉にならない悲鳴が聞こえた直後、その腹部が不自然に蠢く。
そして彼女が一段と苦しんだ後、突然尻尾の下から何かが流れ出て来た。
「……産ま、れた……?」
それは、待ちに待った第五子であった。
本来なら喜ぶところだろう。だが、不可思議な現象のせいか素直に喜べない。
いや、喜べない理由はもっと他にあるのだ。それは……
「……グ、ゲェ……」
産み落とされた何かは、既に目を見開いていた。
そして、その目で僕を見据え、ニタリと笑ったのだ。
「……コノ、町の、中学校。二日後……大時計、童、下敷き。死、死、死」
「えっ?」
「キャハハハハハハ! キャハ……グベッ!」
僕の目の前で、それは絶命した。
異様な、あまりに異様な光景に、僕はただ茫然とするしかないのだった。