EX-6「誾乃観人の絶望」
番外編です。読み飛ばしても本編には関係しません。
私は観人。誾乃観人。
ごく普通の20代の女性である。
親戚や近所からは美人だとか才女だとか言ってもらえるけれど、そんな大したものじゃない。名字が凄く珍しい以外は至って普通だと自分では思っている。
子どもの頃から比較的なんでもできたけど、あくまで普通の範囲での話。
天才や神童と言われるような人たちには遠く及ばず、だからといって私自身、そういう才能が欲しいとは思わなかった。そこが普通たる所以なのかもしれない。
――――そんな私も、今や一端の社会人である。
仕事でも一人前と認められ、同僚や先輩とも肩を並べて働ける程度には成長できたと思う。初心忘るべからずと言うから、慢心は駄目だけど。
私に春は未だ来ないが、社会人生活も悪くない。
努力は必要だけど、休日にテスト勉強や友達グループの付き合いに参加しなくていいし。私にはこっちの方が性に合っているみたい。
どうやら私の会社は見事にホワイト企業ってやつだったみたいで。
同僚との付き合いもあるけれど、基本的に休日は自分優先。アフターファイブも無理に付き合う必要はない。
定時でさっさと解散するのは寂しい気もするけれど、他の会社で働いている友人や同級生たちの愚痴を聞く限り、これが最善みたい。
それに給料も比較的いい方だから、親孝行や趣味にも使えるお金が多いのはありがたい。将来のために頑張って定期預金も組むぞぉ。
……そういえば、弟のような彼と会うことは滅多に無くなってしまった。
高校生と社会人になって、彼は弟ですらなくなってしまった気がする。最近はまるで赤の他人、ただのご近所さんになってしまったようだ。
けど、それでいいのかもしれない。
私の初恋モドキの相手、彼とは距離があった方がいい。私のためにも。
私の理想は私を守ってくれる人。彼のようにオドオドしていて頼りなく、私が守らなければ何もできなそうな人ではないのだから。
まさか彼が――――私に向かってきた暴走トラックから助けてくれたり。
ビルから落下してきた鉄骨から庇ってくれたり。
たまたま入った銀行で、銀行強盗に襲われたところを救ってくれたり。
山中で遭難しかけた私を見つけてくれて、お姫様抱っこで……なんて妄想をたまにしてしまうけど、それはあくまでストレス発散の妄想。
ホワイト企業で働いていても、多少のストレスはある。だから、決して彼に未だ未練があるとか、そういうことではないのだ。
……そんなある日、私にも遂に春がやって来た。
取引先の男性から遊びに誘われたのだ。彼は私の男性恐怖症のことも分かってくれて、なにかと配慮してくれる素敵な人で。
ああ、やっと私の悪夢も終わる。そんな気がした。
私は彼を含めた数人での小旅行に同意し、愈々一歩を踏み出すことにした。
景色のいいスポットを巡り、料理の美味しい旅館に泊まり、海でちょっとだけ遊んで、最後は大人な時間を――――
「観人!」
「いやあああ! 観人!」
――――だから、こんなのはおかしい。
全身から力が抜けていく。
最初は苦しかったのに、段々と苦しくなくなってきた。
波の音も聞こえなくなって、少しずつ静けさが増していく。
光も、少しずつ見えなくなって、暗く、暗く……。
まさか、初体験もしないうちに海の藻屑になるなんてね。
水着を持って来てないからって、着衣で海に入るなんて無茶だったか。ちょっと青春しすぎちゃったみたい。
あーあ、お父さんとお母さんを泣かせちゃうな。
仕事は……まあ、私がいなくても何とかなるか、ホワイト企業だもん。でも迷惑は掛けちゃうよね、申し訳ない。
葬式の時、友達はどのくらい来てくれるかな。
彼氏いたことないって、バレちゃうかもな。別にいいけど。
弟のような彼は――――光明くんは、泣いてくれるかな?
こんなことなら、告白しておけばよかったかな?
私、彼のことが好き……とは少し違うけど、やっぱり大切だったのかな。
だよね。ずっと一緒に育ってきたんだから、変に意識しないでもっと大切にすればよかったんだ。たまにはこっちから会いに行って、連絡先も交換したりして。
……来世は、彼の同級生とかだったらいいかも。
一緒に青春できたら、きっと今とは違う未来が待って――――
「まさか、癸姫の父親に会いに行った帰りに、こんな拾い物をするとはね。本当にビックリしたよ」
「あたしも驚いたわよ。面倒事になるまえに、どっかに置いて帰りましょ」
「そうだね。観人さんには悪いけど、このまま目を覚ましたりしたら質問攻めに遭いそうだもん。どうやって海底からここまで、とか」
……どこからか、あの子の声が聞こえる気がする。
けれど、私と違って彼はまだ死んでいないはずなのに。あの世って、望んだ相手の声が聞こえたりするのかしら?
「じゃあね、観人さん。また何処かで」
「もう溺れるんじゃないわよ。間抜けなご近所さん」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
……ふと目を開けると、そこは砂浜だった。
どうやら私は運よく打ち上げられ、死なずに済んだらしい。
その後、よろめいているところを地元の人に見つけてもらい、すぐに救急車のお世話になった。水を飲んでしまっていたけど、命に別状は無いとのこと。
一緒に旅行していたメンバーには多大なる迷惑をかけてしまったが、みんな笑って許してくれた。約一名を除いて。
「観人が溺れた後、あの男、なんて言ったと思う?」
「え? 俺は死んでもいいから、観人を助けに行く……とか?」
「真逆よ。俺は悪くない、あの女が勝手に死んだんだ、俺の出世には影響ないはずだ、そうだよねママァ……だってさ」
「…………うわぁ」
「本性現れるわよね、緊急時って。それにしたってアレは酷かったけど」
そんなわけで、私の春は再び遠ざかったらしい。
まあ、とんでもない男に引っかからずに済んだのは非常に幸運だったのかもしれない。命と引き換えになりかけたけど。
そうして私の日常はまた、社会人としての平穏なサイクルに戻った。
「おはよう。光明くん」
「あ、おはようございます。観人さん」
「これから学校?」
「はい。観人さんは……」
久々に会った弟のような彼は、なんだか以前より堂々としているように見えた。気のせいかもしれないけれど。
「うん?」
「……元気そうで、何よりです」
「え? あ、うん。そうね……」
一瞬、彼と海で出会ったような気がした。
そんなはずはないのだけれど。
「あのさ、光明くん?」
「はい?」
「もしかして、私のこと……」
私を助けたかと、意味不明なことを口走りかけて。私は慌てて口を閉じ、出そうになった言葉を誤魔化した。
「……ううん、なんでもないわ」
「そうですか? 何か言いかけませんでした?」
「そうね。もしかして光明くん、私のこと……私のこと、とっても好きなんでしょって聞きたかったのよ」
「はへぇっ⁉」
間抜けな声をあげた彼を見て、私はクスクスと笑い声を漏らした。
咄嗟に出た言葉だったが、私の心はなんだかスッキリと晴れていた。
「フフッ。私ね……私も、光明くんのこと、すっごく好きよ。弟として、家族みたいに大切に思ってるの」
「きゅ、急にどうしたんですか?」
「ううん、なんでもないの。もしよかったら、今度デートしましょうね」
「もう。観人さんってば、大人になったからって僕のこと揶揄ったりして」
「フフッ。じゃあ、またね」
そう言って、私は彼と反対の方向へと歩き出す。
けれど、仕事が終わればまた彼の方へと歩き出すのだ。だって、私と彼はご近所さんなのだから。
私の足取りは軽かった。
何故なら私の頭の中は、今度の休みに彼をどんな場所にデートに誘おうかということで満たされていたから。
これまで疎遠になりかけていた分、これからは私から彼に歩み寄ろう。
折角ホワイト企業に入れたんだし、休日は自由なのだから。時間ならたっぷりあるはず。きっと、このために用意された時間だったんだ……なんてね。
これから頑張って、こどもの頃を上回るくらい仲良くなりたいな。
将来、あの子の結婚相手に姉だと紹介してくれるくらいには親密になりたい……って、それは流石に無理かな?
そう考えた瞬間、何故だか胸の奥がチクリと痛んだ気がした。
まだ溺れた時の後遺症が残っていたりするんだろうか。そんなことを考えつつ、私の頭は再びデートプランへと舵を切った。
この時の私は、微塵も考えていなかった。
まさか彼が、本当に――――
――――暴走トラックから助けてくれたり。
――――ビルから落下してきた鉄骨から庇ってくれたり。
――――銀行強盗に襲われたところを救ってくれたり。
――――山中で遭難しかけた私を見つけてくれて、お姫様抱っこで家まで連れて帰ってくれるなんてことが起き得ようとは。
私は観人。誾乃観人。
隣人が改造人間と神様だなんて知りもせず、自分の本当の気持ちすら知らずにいた、ごく普通の20代の女性である。
観人さんのエピソードはこれにて完結となります。
主人公と彼女がどういう関係になるのかは、ご想像にお任せします。
777チャレンジ、4/7本目。残り三本、間に合うか?