4話 伊吹涼香の災難
馬鹿、馬鹿馬鹿。
本当に馬鹿。
アホ、ボケ、間抜け、考え無しで能無しで、それから…………ああ足りない。
自分を責める言葉が、貧困なボキャブラリーじゃ見当たらない。
アタシはどこまで馬鹿なんだ。
ピンが壊れていて、ポケットにしまっていたらうっかり落とすなんて、間抜け過ぎるにも程がある。
気づいた時には、いつ落としたのかも分かっていなかった。
あのブローチは大切な人から貰った大事な物なんだ。
もし、無くしてしまったら、もう自分は駄目かもしれない。
あれだけが、アタシの心の依代なんだ。
友達も家族もいない、アタシの唯一絆を感じられる物なんだ。
絶対に見つけないといけない。
考えられるとしたら、学校への通学路。
歩いている途中に落としたのかもしれない。
こうなったらもう学校に行ってる暇なんてない。
一日かけてでも探さなきゃ。
アタシの朝は、焦燥と自分の不甲斐なさから始まった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
無い。
無い。
何も見つからない。
道路の脇、草むらの影。
どこにも無い。
実は落としてなくて、別の所にしまっていたかも、そう思って何度もポケットやバッグを物色したけど、意味はなかった。
近くの交番にも行って聞いてみたけど、ブローチどころか、落とし物一つも届けられてはいなかった。
「はぁ……」
思わず溜め息が漏れる。
あまりの自分の自己管理能力の低さに、嫌気が差す。
ナーバスになってる暇なんてないけれど、気が落ちてどうしようもない。
チラっと目に映った太陽は、もう既に西に沈んでいた。
夢中になっていたせいか、そんな夕焼けを見て思い出す様に空腹を痛感する。
食事すら忘れていたせいで腹が鳴りそうだ。
パンの一欠片だって朝から口にしていない。
もう無理だ。
今日は帰ろう。
第一、学校で落とした可能性だってある。
今からわざわざ行くのはちょっと気が引けるし。
時刻はもう放課後を迎えているだろうか。
ウチの制服を来た生徒がいるって事はそういう事なんだろう。
きっと、クラスでまた噂されてるに違いない。
調子乗ってるとか、不良だとか、別にどうでもいいけど。
邪魔者、腫れ物扱いにはもうとっくに慣れた。
一体自分の人生はどんな意味があるんだろう。
今の所、アタシの人生は正直言って″無″だ。
山あり谷あり、と言うよりも、ずっと谷底にいる様な人生。
人付き合いも下手くそで、持ち得る器量もない。
他人に期待されないし、アタシも期待しない。
無駄に時間を消費した結果、嫌いな親に楯突く為のファッションを磨いて、家が金持ちなのをいい事に、毎日街に出ては暇潰しをしている。
そんな人間が、何を偉そうに生きているのだろう。
時折思う。
アタシは生まれなかった方がいいんじゃないかと。
もしも、アタシという人間がいなくなった所で、誰も困りはしない。
悲しみもしない。
社会と言う歯車に噛み合う余地のない、余り物のパーツの様な存在。
そんな奴が、この世界から一人いなくなったって……
やめやめ。
そんな考えはガラじゃない。
アタシみたいな人間が、この世にどのくらい居る?
他人に迷惑だけかけて死んでいく人間が何人居る?
別に自分が最低な人間だったとして、それは誰のせい?
アタシのせいなの?
親が片親なのも、何もしてなくても陰口を叩かれるのはアタシが悪い?
下らない、下らない、下らない。
アタシは何も悪くない。
だからこのままでいい。
何も生み出さないクズのままでいたって、誰が文句を言えるのだろう。
ホント、ムカつく世界だ。
歩いていると、仲睦まじそうな親子やカップルの姿がやけに目につく。
どいつもこいつも呆けた面で、良い環境に恵まれただけのろくでなしの癖に、自分達こそがこの世のカーストの上位だと勘違いしている。
こいつらも、アタシと同じ境遇ならああはなってない。
そうだ、きっとアタシと同じになっている。
同じ様なクズに……
いや、それも違う。
普通に生きてるからって、それが立派?
ちゃんと勉強をして、偉い奴等に媚びへつらうのがまとも?
全員、最初から終わってる。
みんな最初からクズなんだ。
この世に良い人間なんてのは一人も存在しないんだ。
無尽蔵に苛立ちが募る。
腹が減って、思考が纏まらない時は特に始末が悪い。
その場から離れる様に住宅街の方向へ角を曲がると、不愉快な雑踏が少し止む。
人嫌いが過ぎるせいか、たったそれだけで心が落ち着く。
そう、この静かな道なら……
「ん……?」
違和感を感じたのは路地に入ったその後だった。
人通りが全くない事に気がついた。
この時間になるとやたらうるさい鳥の声も聞こえない。
それどころか、車のエンジンの音一つも聞こえない。
さっきまで大通りを通っていたというのに。
元々ここらは閑静な住宅街だけど、それにしても静か過ぎる。
まるで世界にたった一人だけになった様な奇妙な感覚だった。
なんだか怖い。
それに寒気すら感じる。
気温が安定しない季節だけど、そうじゃない。
温度ではなく、もっと精神的な寒気だ。
夜の砂漠で、肉食獣に何処かで見られている様な感覚。
いや、それはきっと勘違いだ。
これはアタシがたまたま遭遇してしまった奇妙な感覚で、あくまでこれは『感覚』なのだから、心の中に捏造したまやかしだ。
この先の道を行けば大通りにまた出る事が出来る。
この先に行けば、またいつもと変わらない日常の雑踏が耳に入る。
嫌悪感しか感じない人の営みを感じる事が出来る。
そう、それが現実。
意外と、妄想や夢って奴は後になると馬鹿馬鹿しい。
そういう感想が出てくる予定だった。
誰もいない。
どこにもいない。
あそこにもいない。
あっちにもいない。
ここに、ただ一人、たったの一人だけ、アタシが存在している。
消えればいいなんて思っていたアタシだけが確かにここに居て、それ以外の何者もいない。
ここはさっきまでの路地じゃない。
人が行き交う道路の交差点。
夕焼けが見えるって事は、まだ夕飯時でもない。
帰宅途中の大人や学生も、一切見当たらない。
ここは首都圏、バスが一時間に一回しか来ない様な田舎じゃない。
目が痛くなるくらい、人で溢れかえっている筈なんだ。
「何……これ……」
うわごとの様に口から出た感想は、紛う事なき心の声。
きっと誰しもがこう思うだろう。
『何だこれは』と。
それ以外の語彙が見当たらない。
そして、次に思った事は自分の脳味噌の事。
頭がおかしくなってしまったんじゃないかと疑い始める。
少し頬をつねってみて、痛覚を感じながら、やはりこれが現実かと、諦めに近い感情が顔を出す。
この不可思議な状況は抗えない現実。
明らかな異常事態だとしても、目の前で起きている現実。
「……誰か」
恐怖が心を覆う。
「だ、誰か……! 誰かー! いないの!? 誰もいないの!? なんなのこれ!?」
次は焦り。
とても普通ではいられない。
怖い、怖い、怖い、とても、感じた事のない恐怖。
この状況はなんなのかと気になる気持ちより、早くこの場所から帰して欲しいと言う純粋な気持ち。
もうこうなったら一秒でもここにはいられない。
周りに人がいなかったとしても、道は変わってない筈。
とにかく家に帰ろう。
そうすれば、何かが変わる。
「家に、家に帰る……! こんな気持ち悪い所、早く抜け出さなきゃ……!」
家が嫌いだ。
大嫌いな父親と同じ空気を吸わなくてはならないから。
目にするのも、ほんのちょっとした息遣いさえも、耳障りで腹が立つ。
そのせいで、家の形を見るのすら嫌な時がある。
でも、今だけは、そんな家路に着く事を心から望んでいる。
他人が嫌いだ。
理不尽でデリカシーの無い、人間と言う存在そのものが気持ち悪い。
なのに、そんな他人の存在を今は欲している。
いるだけで邪魔だと思っていたのに、そこにいて欲しいと感じている。
心の中で念じながら、帰り道の方向へ大きく踏み出す。
その瞬間だった。
人はいた。
周りを見渡してもいなかった人が、そこにいる。
アタシの真後ろに。
気配で分かってしまった。
踏み出した足をそのままそこに固定して、体を動かさないでいる。
まだ振り返ってはない。
でも確かに分かる。
さっき感じた感覚はそういう事だ。
誰もいない。
なのに見られている様に感じる。
それの答えだ。
こいつはアタシをずっと見ていた。
この誰もいない隔絶された世界の中でずーっと。
ここには二人だけ。
アタシとこいつ。
何故こんな状況になっているのか、聞いてみたいけど、怖くて振り向けない。
もし、もしこの異常な状況を生み出している奴がいるとすれば、それはこいつな気がする。
「……はぁ……はぁ……」
怖い。
自然と息が荒くなる。
駄目だ、振り返るなんて絶対に無理だ。
全てアタシの妄想かもしれない。
それでも、ここに居たら本当に命が危ない気がする。
「なぁ……」
その謎の人物は、肩で息をするだけのアタシに話しかけてきた。
声は男の声だった。
まだ若い男の声だ。
やっぱり怖い、でもこいつがどんな奴なのか理解する必要がある。
そう思ったアタシは、意を決して振り返った。
そこに居たのは、長身の男だった。
ウチの制服に似ている学ランを来た男。
何故かフードを被っていて、どんな顔かはよく見えない。
でも、制服を来てるって事はこいつは学生かもしれない。
だったらアタシみたいに巻き込まれてここに居るのかも。
そう思ったら少しだけ親近感が沸いてきた。
もう、この状況の事を聞くしかない。
どの道、他にこの状況を知れるすべが無い。
「……あ、あんたも、ここに迷い込んだの?」
「……」
「な、なんで誰もいないの……? あんたは何か知ってんの……? ここは一体どこなの……!?」
溢れる様に言葉が出てきた。
でも、男はその問いに応じなかった。
アタシの質問が耳に入ってすらいない様にも見えた。
そして、男は一歩ずつこちらへ近寄ってくる。
「……別に、喋らなくていいよ」
「……え?」
そう言いながら段々と距離が近くなっていく。
冷や汗が流れ出してくる。
この男はやっぱり、何か知っている。
それでいて、何か危険な雰囲気を肌で感じる。
「顔が確認したかっただけなんだ。だから別に会話はいらない」
「は? ど、どうゆう事?」
支離滅裂な言葉を放ちながら、男は懐から黒い塊を取り出した。
「え……?」
それは、漫画や映画なんかに出てくる、非現実的な物で、実際の物を目にした事は今までにある訳が無い。
恐らく、これからも目にする事は無い筈だった。
でも、実際のそれはもっと重厚感に優れていて、一目見ただけで人の命を奪う物だと理解が出来た。
それはまさしく銃だった。
「……何、それ……」
頭の理解が追いつかない隙に、男はゆっくりと銃口をこちらに向ける。
その動きでやっと理解出来た。
その引き金は、誰でも無い、アタシを殺す為のトリガー。
「……死んでくれ」
耳をつんざく様な大きな音が、静かな世界に鳴り響く。