12話 『いつまで』は『今』 2
「ふざけんじゃないよ」
以津真天を名乗り続けてきた彼がそう吐き捨てた。
だらんと力を抜いた青年の身体は、遠くても聞こえるくらいの音で骨を砕き、形をがらりと変える。
背中をミシミシと音を立てて突き破り、硬そうな羽が生えた。ボコボコと皮が膨らみ筋肉が変質した手は空を飛ぶ、本物の以津真天に劣らない鋭い鉤爪となった。
私は彼が変質していく様を睨みながら、彼の本質を見抜けなかったことを少々悔いていた。
本物がずっと側にいたから気づかなかった。二人で一つの亜種ではなく、彼自身が亜種だったなんても思わなかった。
音が混ざり合って聞き慣れなかったのも納得がいく。私は怒りに任せて地団駄を踏みたい気持ちをぐっと堪えた。が、歯ぎしりだけは我慢出来なかった。
とはいえ、私が負ける理由はもう無い。
彼は立派な鉤爪を横に振り回した。私が二、三歩後退してそれを避けると、苛立った青年の鉤爪が上から降ってくる。
私が地面を転がり避けて、足払いをかけるが、彼はそれを跳躍して避けた。
私は着物の袖から人型の紙をありったけ出し、風に乗せて彼を足止めした。無数の紙は、濡れ紙のようにぴったりと身体に張り付く。引っ掻いても糊で貼り付けたように破けて残る。
はがしてもはがしてもくっつく紙を、心底煩わしそうに引きちぎる彼を見ながら、私は離れた場所で地面に式神を置く。
「さーて、出来るかな······っと」
両の手を合わせて心を研ぎ澄ます。目を閉じて耳を澄ませた。
だが、聴こえたのはノイズ混じりの叫び声だった。空を見上げると、星空を覆い尽くすほどの亡者が私を見下ろしていた。闇より黒い色に染った彼らは、落窪んだ、既に無くなった目をランランと輝かせて私に奇声を発する。
ああ、そういえばここはそういう場所だった。
「霊域でそんなことするからだよ」
「あ〜······やっぱり?」
青年が歪んだ笑みを浮かべた。空では本物の以津真天が鳴いた。それを合図にしたように亡者たちが私に襲いかかった。
私は目を閉じた。窮地に陥っているというのに、私はとても冷静だった。耳を澄ませ、胸に眠る水の音を手繰り寄せる。
亜種の青年がそこにいる。空からは大量の亡者が襲ってくる。一秒でも遅れたら、なんて不安もよぎる。それでも私は······
──自分のやるべき事をしよう。
「龍神の祝詞」
水音が地面から聴こえた。
波打つ音に身を委ねた。
暖かい感触が私を包み込む。
蒼い龍に乗り、私は空高く舞い上がった。
龍の雄叫びが夜空を震わせた。辺りに漂う亡者を喰らう龍に歌うように祝詞を唱え、力を増幅させる。私はその力を使って、探しものをする予定だったのに······。
龍は逃げる亡者まで追いかけ回し、私の行きたい方向へは連れて行ってくれない。与えた分の力も使い尽くさん勢いで、龍は星空の川を駆け巡る。
「言うこと聞けよ。私の式神だろ」
龍は私の言葉に従いもせず、亡者を捕らえては腹の中へと飲み込んでいく。時折、満足そうに吼えては一層加速した。
(······あっそ。わかったよ、自分でやるよ)
私は諦めて深呼吸をした。大きく息を吐いて肩を回す。
「さぁて、どこかな〜っと」
私は龍の背から、はるか下にある廃墟に目を落とす。ここのどこかにあるはずのものを探した。
月が出ているとはいえ暗いものは暗い。さらに走るよりも明らかに速いスピードで空から眺めて、普通に見えるものか。
それでも目を凝らして、ようやく見つけたのは廃墟から離れた林の奥の小さな鳥居だ。
「あった」
私は狙いをしっかりと定めて龍から飛び降りる体勢をとった。しかし、私が心の準備をする前に、青年が私の背中を蹴り飛ばした。
冷たい風が耳元で轟々と響く。黒く見える枝が慌てたようにざわめく。
私は落ちながら青年の表情を見つめた。酷く怒っているような、恨んでいるような表情をしていた。
それでも何とか木の上に落ち、枝をボキボキと折りながら地面に着地した。空を仰いで位置を確認し、私は見つけた鳥居まで走り出した。
獣のような速さで近づいてくる青年に捕まらないように。木々が囁き、隠し、鳥居まで案内してくれた。
廃れ、色も剥がれ落ちた鳥居の奥に、潰れた小さな社があった。私は潰れた社に手を合わせ、心の中で問いかけた。どうか教えてくれ、私が探しているものはどこにあるのか、と。
──廃れた社は何も答えなかった。その代わりに大地が答えてくれた。
『私の腕の中。私の胸に埋まってる』
「··················マジかぁ」
私は手が汚れるのも構わず足下を掘り起こした。爪に土が食い込み、指先を小石が切り裂いた。 血が滲む指で、泥にまみれて、疲れて腕に力が入らなくなっても、私は無我夢中で地面に穴を開けた。
すぐ後ろから叫ぶような声がした。振り向かなくともわかる殺気が、私に牙を向いた。
青年の鉤爪が私の背中に傷をつけた。私の首筋に吹きかけられる邪気が、私を飲み込もうとする。
──でも、私の勝ちだ。
指先に固いものが当たった。引きずり出したのは若い人の頭蓋骨。青年は私の背に突き立てた鉤爪を引っ込めた。
震えながら後ずさり、言葉にならない感情を飲み込んだ。
私は頭蓋骨をじっと見つめた。
脳の中で再生された、この人の生前の記憶。それはあまりにも辛くて、苦しい記憶だった。
***
とある時代に少年が生きていた。
呪術系の霊能者の家に生まれたが、少年の霊力はとても強いとは言えず、数日間も力を蓄えなければ使いないような弱さだった。
そのため少年は、幼い頃からずっと恨みを募らせるように躾られた。
先の大戦の真っ只中で、親の言う通りに、国を守るために、敵国を呪おうと青年は力を捧げた。
しかし、敵国のミサイルがこの辺り一体を撃破した。
彼の努力と承認欲求は結果、誰にも認められず、知られもせず、この社の前で朽ち果てて哀れな一生を終えた。
***
己が運命も、命を奪う仕事も、世の中も、親も、恨みに恨み、霊能力のためだけに憎悪にまみれて散らした命は、胸が抉れるくらい悲しいものだった。
「······終わろうよ。──『印藤一太郎』」
私は彼の名前を呼んだ。後ろの青年は縛られたように動かなくなった。
「もう戦争も終わったし、恨む相手もいないんだ。これ以上、力をつけて何になる」
彼は全身の力を振り絞って叫んだ。生前から引き継いだ、強い感情を込めて。魂の底から叫んだ。
「僕は皆のためにやってるんだ! 僕の力が、この世を救う! 僕こそが、人を救った霊能者として生きた証を、ここにいた証拠を残すんだ!」
私は思わず笑ってしまった。本当はこらえるつもりだった。
──なんてどうでもいい理由なんだろう。
「死霊を貪り、私ら悪霊の掃除屋まで襲っといてなにが人を救うだ! なぁにが生きた証だ! 笑わせんな! てめぇもうとっくに死んでんだよ!」
腹を立て、怒鳴る私に彼は「うるさい! 黙れ!」と叫んだ。私は頭蓋骨を地面に置き、その近くに木の苗をそっと植えた。
現世で手に入れるのに手間のかかった代物だ。なんせ今の花屋に苗木なんて置かれていない。
彼は私が苗を植え、水をかけるまで静かに見つめた。私は植えた苗に手を合わせ、静かに祈りを捧げた。
わざわざ遠い樹林にまで入って貰ってきたのだ。効かないなんて言わせるつもりもない。
「······木にもな、花言葉があるんだよ」
聴こえてきた音に口を合わせ、私は優しく語りかけるように歌う。
「命育む恵みの大地 御霊ゆすぐ水の温情
生まれしものに祝福を 失われしものに慈しみを
全てのものに等しく唄う ブナの祝詞
彼の者に救いの葉風を」
苗はピクッと動いたかと思えば、みるみるうちに成長して大きな木となった。そのがっしりとした幹のさらに上、太く伸びる枝に優雅に腰掛け見下ろす女の姿があった。
「頼むよ。生羅」
生羅と呼ばれた精霊は、手にした鈴を高く掲げ、リンと一つ鳴らした。
「幸せを妬み、無垢なる魂を貪る者よ。その身を嘆き、道を見失いし者よ。我が力を以て、あなたを黄泉へと誘いましょう」
以津真天を名乗り続けてきた印藤はその鈴の音を拒み、耳を塞いだ。
私は苗の成長に巻き込まれ、幹に埋まった頭蓋骨に手を合わせた。
「────────辛かったよな」
印藤の目が私に向けられた。
私は構わず、頭蓋骨に話し続ける。
「認められたかったのは私も同じだ。どんなに頑張っても振り向いてもらえない。結局自滅して、死んで初めて気がついた。お前もそうだろ」
「家族が好きだから、『嫌だ』って言えなかった」
彼は耳から手を離した。小さい声で、そうだよ、と呟いた。
霊力が弱いから、頑張らなくてはいけなかった。
霊力が弱いから、親をも憎まなければいけなかった。
自分に力があったらどれほど良かっただろうか。
彼は苦しみを噛み潰したような笑みで、そう零した。
「親には冷たく当られた。皆を助けるのには時間がかかるから、誰も僕を頼らない。でも、力さえ溜め込めれば、僕は強いんだ。だから、戦時中は好機だと思ってたんだ。皆を助けられるって······思ってたんだけどねぇ」
彼も愛されたかった。
その実力に関わらず接して欲しかった。
ただそれだけの事だったのに、誰もそれを理解してくれない。
印藤は堪えられなかったように涙を一筋流した。
生羅はその涙を見つめると、静かに鈴を鳴らす。淡い光が彼を包んだ。
「泣きなさい。怒りなさい。世を恨み、苦しみを叫んで声を枯らせなさい。そしてまた、明日を望み、希望を抱き、この世のどこかにある幸せを願い、探しなさい。幸も不幸も、皆等しく与えられし道標。あなたが不幸だと嘆く今は、この先の幸せとなるのです」
「無駄死にだったかもしれない。失敗した人生だったかもしれない。けど、私が今を楽しむように、お前も必ず幸せを掴める」
意図したわけではない。打合せしたわけでもない。だが、私と生羅の呼吸はぴったり合って、ブナの木の、花言葉を口にした。
『生まれいずる喜びを』
生羅は印藤に手を伸ばした。拒みつけていた彼も、縋るように手を取った。
「あなたの魂に幸福を、黄泉路に我が身の加護を与えましょう」
生羅がそう言葉をかけると、彼は黒い球体となって地に落ちた。だが、生羅が放った淡い光は空へ高く舞い上がっていく。
月の光に導かれるようにそれはそれは高く、高く。
私は球体を拾って頭蓋骨に触れた。それは私の指が当たると、砂となって脆く朽ちた。生羅は空を見上げ、悲しげに呟いた。
「ここは霊域になったのね。彼がここに恨みを残したおかげで、霊の寄りつく地となった。ああ、可哀想に。何度だって道を変えられたのに。何度だって幸せになれたのに。どうして──」
生羅は辛そうに胸を押さえ、ほろほろと涙を流す。私は印藤に寄り添うように言った。
「子にとって親は絶対なんだよ。自分の世界を成す土台なんだ。だから、逆らえないし、のめり込む。私も──その一人だった」
生羅は哀悼の鈴の音を響かせた。空を彷徨う亡霊が淡く光っては、泡沫のように消えていく。
私は、どこかに落ちた自分の式神を拾いに行った。
生羅が私にも鈴を振った。しかし、私にはその音は何の効果もない。私はもう、ここに留まるしか出来ないのだ。それでも生羅は追悼の意を示し、私の背中を温かく見送ってくれた。
私は林を抜け、廃墟に出た。青い光に照らされ、寂しい世界がここにあった。
昼も夜も変わらない、誰も訪れない、誰かの記憶の跡。それでも今日は、いい満月だった。
「──ご冥福をお祈りします」
私の言葉は、冷たい風がかき消した。




