5話 過去と今の恨み合い
破り捨てた三桁満点のテスト。
埃をかぶった何かの賞状。
背中しか見たことのない家族。
これが『私』の世界。『私』を作り上げた世界の全てだ。
『私』が努力する傍らで家族は楽しそうに笑っている。『私』が出した成果に見向きもせずに、兄と妹の頭を愛おしそうに撫でている。
──羨ましかった。
『私』が得られない言葉を兄妹は容易く得られ、兄妹に向けられるのことない言葉の剣は、いつだって『私』一人に向けられる。それを『私』は一身に受けるのだ。
彼らが楽しそうに外出する間、『私』は努力の足りなさを自覚して、更に勉強に励む。
『私』の涙に、誰も気づかない。
* * *
「うっっわ!!?」
全身を巡る悪寒と体に張り付く汗の気持ち悪さ、それに加えてあまりの恐怖に飛び起きた。私がいたのは自分の部屋の布団の中だった。窓から月が覗いて室内を淡く照らしている。
荒い呼吸を整えて状況を確認した。
「──夢、ゆめ。ユメ? ······夢なのか」
激しい動悸と震える手。落ち着かせるように胸を叩くと部屋の戸が開いた。
「起きたか」
桶を脇に抱えた望月が静かに入ってきた。
望月はぬるま湯に手ぬぐいをつけて絞る。濡れた手ぬぐいを私に渡して、押し入れから着替えを探す。
「体を拭け。その、まぁ何だ。具合はどうだ?」
「これが良く見えるなら目の医者を紹介するよ。絶対腐ってるだろ。私知ってる」
「軽口を叩く元気はあるな。井戸に突き落とすぞ」
着替えを布団の横に置くと、望月は正座した。かなり真剣な面持ちで私と向かい合った。だから私も自然と背筋が正される。
「自分の体を見て違和感は?」
「は? 違和感?」
望月に言われて体を見た。
──ある。あった。とても大きな違和感が。
うっすらと透けた体に語彙力が消失した。窓に手をかざしてみると、手の向こう側から月が見える。
「マジか」の一言しか出なかった。望月が深いため息をついて腕を組んだ。
「千代いわく、妖術の類だと。恨みを媒介に、狂わせて魂を喰らうと言っていた。生馬も少し透けていた」
「恨みを媒介にねぇ······。遠隔で霊力が喰われるのはちょっとな。とりあえず霊域にいて、飯食っとけば霊体は何とかなる。ちょうどいいや。腹減ってたんだ。あの野郎、焼き鳥にしてやる」
「そうもいかん。恨みが強ければ強いほど、妖術の効果は絶大だ。現に、お前の方が生馬以上に酷い」
望月にぴしゃりと言われて反論の術を失った。自覚があったからだ。それは望月も知っている。
望月は「大人しくしていろ」と言って私に背中を向けた。それはとても大きな背中で、迷いのない堂々としたものだった。
そして、その背中は、夢に出たかつての家族と重なって見えて······──
『 イ ツ マ デ モ 』
私は耳を塞いだ。私の中に、消えかけていた恐怖が戻ってくる。心臓の音がうるさかった。体の芯から冷えるような寒気と、全身に垂れる汗が、私の吐き気を引き起こす。
(やめろ。やめてくれ。来ないでくれ。頼むよ。───お願いだから)
そう願ったところで、『私』は無情にも現れる。
地元の高校の制服、下ろしたストレートの黒髪、血塗れた胸と虚ろな表情。くすんだ山吹色の瞳は、この世の全てを睨めつける。
全てすべてが、かつての『私』と同じだった。だからこそ、余計に怒りが掻き立てられ、憎らしい気持ちが抑えられなくなる。
『消えちまえばいいのに。居なくなってしまえばいいのに。家族に愛されない『私』なんて要らないんだろ? 家族にさえ愛されなかった『私』が、ここでは愛されるなんて妄想抱いてんじゃねぇよ』
「························うるっせぇな」
反射的に出る言葉。望月が異変を感じて私に向き直す。私よりも辛そうな眼差しで見つめていた。しかし、今の私に、望月なんて眼中に無い。
『さっさと消えろよクズ。お前みたいな奴なんざ、いない方が世間様のためだろ』
「たかが過去のくせして偉そうに。努力しても無駄だったお前が何言ってんだよ。誰にも愛されなかったのはお前の責任だろ」
『未来は違うなんて思ってんじゃねーぞ』
「自分を守ってんじゃねーよ」
『お前なんて最初からいなければ良かったんだ!』
「お前なんて最初からいなければ良かったんだ!」
────憎い。憎い。恨めしい。
過去の自分が、愛されない自分が、この身を焦がすほど······。どうしてお前は、『私』は、存在そのものを消さなかったのか。どうして死んだ後も、こうやって『私』がいるのだろうか。
「奏!」
目の前が暗くなった。目元が温かい。望月の手が私の目を隠していた。望月の震える声が耳元に降ってくる。
「きっと、きっとお前には、過去の自分が見えているんだろう。お前の恨めしい相手は、過去の自分なんだろう」
──そうだよ。
「いくら恨んでも、いくら憎くても、『居なければ』なぞと言ってくれるな」
──それは無理だ。
私は生まれたことも死んだことも、自分の存在自体にすら後悔してるんだ。どうして誰の望みも叶えられず、邪魔にしかなれず、迷惑ばかりを振りまく私がこの世にいるのか、と。
「少し眠れ」
望月の優しい声がそう言った。普段聞かない声に、私は意識が逸れた。
望月が何かを小さく呟くと、私は深い深い意識の底へと誘われた。とろんと甘く、心地の良い重みに私は体を預ける。そして再び訪れた夢の中で私はまた、胸を締めつけられた。
繰り返される悪夢の中で、何度も何度も繰り返される叱責の中で、私はぽつりと零した。
──私は、どうして生まれてしまったの?
そう問いかけてみたが、誰も何も教えてくれなかった。




