1話 仲間の帰還
土の匂い。
風の肌触り。
水の囁き。
炎の舞。
樹の恵み。
それが私の世界だ。それだけが私の内にある全てだ。
今まで生きた現し世でも、今を過ごす霧の里でもそれは変わらない。どこにいても彼らは私のそばにいる。だがこんな私にも最近、『変化』が起きた。
***
「お富さん、リンゴ一つ」
下らない理由で勃発する冷戦がまた開始されていた。たしか今日で四日目だ。
私は喧嘩する度に里の八百屋に顔を出す。
人との関わりを極力避けたい私にはストレスでしかないのだが、なにも食わぬのは霊体の消失に繋がってしまう。必要最低限の食事のためだけに、こうして里の人たちとコミュニケーションをとるのだ。
お富は私を見ると、珍しく瓦版を置いて店に出て、リンゴを渡して「65円ね」と言った。
私はポケットからお金を出してリンゴと引き換えに渡して店を出た。お富はじっと私を見つめて店の奥に消えた。
「お待ち。奏さん、コレ持っていきなさいな」
店から数メートル離れた所でお富に声をかけられた。振り向くと、お富が走ってきて、桃が数個入った袋を私に持たせる。
「望月さんと喧嘩中なんだろ?」
「まぁそうだけど、返すよ。これ買ったわけじゃないし」
「いいのよ、持っていきなさい。リンゴ一つじゃ足りないでしょ」
「えっと············ありがとう」
半ば強引に桃を手渡すお富は、私が受け取ると満足そうに店に戻った。私と距離を置く里の住民にしては珍しい行動に、首をかしげながらもリンゴをひと口齧った。
「朝日野の嬢ちゃん! おはようさん!」
しばらく歩いていると、今度は魚屋の前で呼び止められた。店先でシシャモを焼くおじさんがいた。
七輪の上でこんがりと焼ける魚の匂いは食欲をそそる。匂いに釣られるように魚屋に足が向いた。
「平吉郎さん······おはよう」
「食っていきな。どーせまた、夜来の野郎と喧嘩してんだろ?」
──そうだよ。何でみんな知ってんだよ。
「ほぅれ、包んでやるから持ってきなぁ」
「待って、それ何円だっけ?」
「金はいいから! ちゃんと食って力つけな!」
「······ありがとう」
ちょっと歩くだけで、ほいほいと戦利品が増える。
どうやら詩音の一件から、里の人との距離が縮まったらしい。あちこちから声をかけられるなんて、死んで初めての経験だ。生きていても無かったことなのに。
こんなことなら、生きているうちに人と仲良くする方法くらい、学べば良かった。
私は驚くほどに、人との接し方が分からなかった。
「朝日野 奏!」
突然、後ろから声をかけられた。その四文字だけで、私のスイッチは『困惑』から『苛立ち』に切り替わる。
案の定後ろに立っていたのは里の荒くれ者だった。なんでこんな奴らまで未練を残すのか。さっさと成仏してくれたら良かったものを。
「なんだよ。ゲス」
ピアスつけたり髪を染めたりと、妙に現代かぶれした荒くれ者が三人、私を見下ろしていた。私にそう呼ばれるとゲラゲラと笑い出す。私は黙々とリンゴを食べ続けた。
「お前最近いい気になってるらしいなぁ? ちょっと強い悪霊倒したからって英雄気取りか?」
シャクシャク。リンゴは半分食べ終わった。(──悪霊退治はおろか、浮遊霊さえ成仏させられないくせに。随分と偉そうな奴だなぁ)
「周りにチヤホヤされたところで、お前は所詮変わり者なんだよ」
ショリショリ。リンゴの芯だけが残った。(──頼んでチヤホヤしてもらってる訳じゃないし、変わり者の何が悪いんだ。お前らの方がよっぽど変わっているのに)
「何か言い返してみろよ! 聞いてんのか!」
リンゴの芯を近くのクズかごに捨て、私は荒くれ者に向き直した。そんなに何か言って欲しいなら、いくらでも言ってやろう。
──勝手に堪忍袋の緒、切るんじゃないぞ。
「弱い犬ほどよく吠える」
たった一言で、怒り狂った荒くれ者たちが刀を抜いた。周りがどよめき空気が凍りつく。
まだ斬りかかっては来ない。それでは困る。襲いかかって来なければ、私が正当防衛にならない。望月とケンカの種を増やしたくもない。······少し畳み掛けてみた。
「結構派手な見た目をしてるけど、私の時代でもその格好はダサいよ。あと、鼻に輪っかのピアスつけてるけど、牛になりたいのか?」
あちこちからクスクスと笑う声が聞こえてきた。そのお陰で、荒くれ者は奇声をあげて襲いかかってきた。ようやく私も手を出せる。
太刀筋を読み、掠りそうな距離で避けた。一人の懐に入り、左手を固く握った。だが、私の渾身のボディーブローは繰り出されなかった。唐突に働いた第六感が私をその場に伏せさせたのだ。
刀が私の背中に迫ってくる。しかし、刀が背中を刺すことはなかった。
「破ッッッ!」
金色の牡鹿が私を飛び越えて、荒くれ者を突き飛ばした。長い角に弾かれた刀は真っ二つに折れ、荒くれ者は地面に倒れて、鹿に踏まれ続けていた。
しまった。どう反応すべきか分からない。笑えばいいのか、助けたらいいのか。でも助けたくはない。
「女の子いじめちゃダメだよ〜。優しくしなきゃね」
近づいてきた茶髪の侍がニコッと笑い、泥まみれの荒くれ者を見下ろした。
呆然としている私を、誰かが横から腕を引いて立ち上がらせた。派手な着物に対し、髪のまとめ方が雑な花魁が煙管を咥えていた。
「全く荒々しいったらないねェ。奏、大丈夫かい? あんなの相手にすんじゃないよォ」
「ああ、うん。······ごめん。千代姐」
逃げていく荒くれ者を見送り、牡鹿を札に変えた侍が私の元に戻ってきた。私の前に立ち、腕を組んで望月のように頬を膨れさせる。が、全く怖くない。
「奏ちゃん! どうしてあんな危ない人に近づくの! ダメだって望月も僕も言ってるよね。知らない人には近づいちゃいけません!」
「生馬まで説教すんなよ」
深く溜息をつきながら、私はポケットから伝言札を引っ張り出す。
真っ白い紙に字を連ねるように語りかけた。
「望月に知らせよ。『祓い屋が二人、御影千代と八神生馬、無事帰還』と」
空に札を放り投げると、札は鳩に変じて祓い屋の屋敷に飛んでいった。生馬は私の手を引いて屋敷へと急ぐ。私は生馬に合わせて走った。千代は私たちの後ろを悠々と歩いてついていく。
千代の吐いた煙が、霧に混じって消えた。




