愛夢
――京城は生き馬の目を抜くところだと聞いてはいたけれど。
「何処に目ぇつけて歩いてるんだ、気をつけろ!」
そこで彼は気付いた。自分が地に転がされ、罵声を浴びせられていることに。のろのろと目だけを上げれば、自分の倍以上はありそうな巨体が、眦を上げて肩を怒らせている。腕に覚えがない者ならばたちまち後ずさり、何度も額を打ちつけ土下座する状況であろう。
だが、まだ目元に幼さの残る彼は、ぼんやりと自分を見下ろす男を見たまま、動かなかった。いや、男を見ているのではない。ただ虚ろにその姿を映しているだけだ。彼はしばし呆然と自分を睨みつける男を眺めていたが、おもむろに視線を外した。のっそりと前のめりに身を起こすと、その勢いで立ち上がり、乱れた歩調をどうにか整え、先に進んだ。ぶつかったのは「男」ではなく「木」でしかない、といわんばかりな場違いな対応に、彼らの様子を遠巻きに見ていた群衆がひやりとする。虚仮にされた形の男が、彼らの予想通りに「ふざけるな」と唸り、彼の前に回り込んだのだから尚更だ。
だが彼は何も聞こえず、また見えていないかのようにただ足を進めている。狗のように唸る男に肩を掴まれ、小突かれ、そのたび足が縺れる。だが歩いた。彼はただ前を見て歩いた。まるで何かに憑りつかれでもしたように前に進む姿に、周囲は怖気を感じ始めた。男も例外ではなかったようで、大げさに舌打ちをすると「これぐらいで勘弁してやる」と声を張り上げ、立ち去った。人々の視線もほどなく彼から離れた。
彼の目に映る朱色の明徳門が、次第に大きくなっていった。あの南大門をくぐり、京城一の大通りであるこの朱雀大路を胸躍らせ歩いたのは半月前のこと。城内の最北には官公街と皇帝のおわす宮城のある内城が厳かに建ち、残りの空間を東西南北に走る大路が碁盤の目のように区切る。そこに整然と建てられたありとあらゆる建物。なんて美しい、さすがは唐都だと感激したものだ。老頭に連れられ、京城を縦横に走る大路を、今日はこちら、明日はあちらと歩き回り、様々なものを食べ、買い、聴き、見ては驚嘆の声を上げていた。西明寺の牡丹は艶やかに咲き誇り、大慈恩寺の浮図は雲を突き抜けた。――西市には珍奇な物品が溢れ、碧眼の異国人たちが宝珠を手に音楽のような言葉を交わしていた。葡萄酒の芳醇な香りは優しく酔いを誘い、白磁のごとき肌を持つ胡姫の軽やかな舞は天仙のよう。何もかもが新鮮で楽しかった。「こんな贅沢な毎日、いいのかい?」思わず老頭に訊いてしまったほどだ。
なのに。
そんな彼が今、持つのは染みが色濃く散らばる粗衣のみ。全てをむしり取った彼を追い出す際に、宿主が「情け」と与えてくれたものだ。
それからどこをどう歩いたのか――気付けば彼は朱雀大路を歩いていた。道行く人はもちろん、休憩所として道端に整然と植えられた楡の木陰で休む人でさえも、街を体現したかのように活気づいている。京城全てが生命体のように息づく中から零れたように、彼は空っぽだった。やがて日が翳りだし、背後から鼓の音が鳴り始める。すると皆が諮ったように一斉に足を早めた。北の承天門で叩かれる『暮鼓』八百声。日が落ちるまでには止み、なお大路を歩く者は「犯夜者」として杖打ち刑が待つのだ。
誰もが帰路を急ぐ。皆が、碁盤の如くに区切られた京城内の、碁盤の目にあたる一〇八の「坊」内どこかしらにある居所を目指して歩くのに、彼は宛てがないまま歩くことしかできなかった。目の前には京城を囲う城壁が高くそびえ、その上を行き来する兵士の姿が次第にはっきりとしたものになる。間もなく道は尽きる。もう前を歩く者はいない。東から夜が迫り、西日が終焉の輝きを放つ今、暮鼓が止むのは、間もなくだ。
そこへ突如、一陣の風が砂塵を巻き上がる。ギイィと、行く手にある門が開いた。
薄闇、背丈の倍ほどの高さの壁に、『延祚坊』の扁額が斜めにかかる、というよりぶら下がる門があった。門扉は鈍い音をあげながら開閉を繰り返している。
気付けば暮鼓の最後の一声が消えかけていた。坊の出入口である坊門が次々と閉じる音が響く。坊門が閉じてなお大路を歩けば、あの兵たちに罰せられてしまう。相も変わらず開閉する門は、まるで招くかのよう。惰性で歩き続けていた彼の足が、自然と速くなった。
バタンッ!
彼がくぐるのを待ちかねたように、その背後で門扉は閉じる。
「これは……」
彼が絶句したのも無理はない。駆け込んだ坊内にはまるで人気がなく、鬱蒼とした草が一面を覆っていたからだ。京城城内の縮図でもある坊内は、通常、一本ないし二本の小路が東西に走り、路沿いに整然と家や商店といった建物が並ぶものなのだ。暮鼓が打ち終わっても坊内での行き来は自由なので、この時分にこんなにひっそりとするものではない。何より、こんなに何もない坊内など、見たことがない。
辺りに目を巡らすと、いつしか昇った月光に白々と輝く一面の草の中、建物跡らしきものが一つ、ポツリ建っていた。足を向けると、風に揺られたか草は道を示すかのようにざざと引き、おかげで彼はなめらかに進むことができた。
それは廃寺のようだった。すでに屋根は崩れ落ち、僅かに柱と壁が残っているのみだ。
彼は確かに残っている石壇に座った。涼やかな風が渡り、火照った身体を冷ましてくれる。当面の居所ができたことで、彼はやっと人心地がついたようだった。嗚呼、なんて心地いいんだろう――。立ち止まることができたことに安堵した彼は、重苦しい心身を下ろすように、そのままゆっくりと身を横たえた。歩きどおしで火照った彼の身体を、石はひんやりと冷ましてくれる。今日の何もかもを押し流す抗いようのない疲労感のなかで、いつしか彼は、目を閉じていた……。
ピタリ。
冷たいものを額に感じ、彼は目覚める。
「あら。やっと目が覚めたのね。ご気分はいかが」
聞き慣れない声を辿ると、見慣れぬ女が自分を覗いている。よい香りがした。
いまだ張り付きそうな目をこじ開けて、周りを見る。羅の帳ごしに見える高い天井に見覚えはない。ここはどこだろう。家でも、宿でもない――。
もう一度目を女に戻すと、彼女はにこりとした。志学の自分より、十は年上に見えた。
「貴方、もう三日も眠り続けていたわ」
さすがに驚いた。ふと動いた手が、なめらかに滑る。見れば清らかな衾がかけられており、やはり染みひとつない白い単衣を着せられていた。
「ここは?」口が粘ついて、うまく声にならなかったが、女には通じたらしい。
「ここは私の家。貴方が高熱を出して廃寺に倒れていたものだから、連れてきたの。起きられる? お水を飲むといいわ」
女は彼の同意を得ると、その背に手を差し込み、彼の身を起こす。もたれかかった身体の柔らかさと芳香に胸がざわめいたのも束の間、強張った体が悲鳴を上げ、杜叡は思わず呻いた。女は彼の腰にそっと綿入りの枕を差し入れ、床台にもたれさせた。
「どうぞ」そう渡された水の清清しさ。一気に飲んだ。注がれた水もすぐに干した。体中に行き渡るのが分かる。爪の先まで活力が注ぎ込まれた気がした。
「少し落ち着かれたようね。今、食事をお持ちしますわ。召し上がるでしょ?」
それに応えるように、腹が盛大に鳴った。「まあ」彼が頬を赤らめるのを 女はふっくらとした口元に長い指を添えてクスクスと笑い、
「すぐお持ちするわ。お待ちになってね」軽やかに、その細身を翻した。
衣擦れの音が遠ざかっていく。彼は気を取り直して、先ほどよりはしっかりと辺りに目を投げる。
床台が中央に据えられた室内は、決して広くはなかったが、床台周りも適度に配された調度品も、瀟洒な作りのものばかりだ。大きく開け放たれた扉の向こうは中庭で、篠竹の葉擦れ音が涼やかで心地いい。清しい香りはこれだったのかと合点する。
手にしたままの玉杯に残った水を口にする。杯に窓からの日があたり、白々と品よく光った。有金の家なのだな、ぼんやり思う。もう何杯も飲んだというのに、水はまるで一口目であるかのような爽やかさだ。
身体に入る全てが清らかだ。しかし――これはどういうことだろう。確かあの日、僕は石壇に眠った。坊内の建物といえば柱が辛うじて残る廃寺しかなく、あとは一面、草に覆われていた。どこか違う坊に移されたのだろうか。だがあの時すでに坊門は閉じられていたはず。それにすでに日のあるこの時分に、こんなに静かなのも妙だ。まるで人里離れた地にいるかのような……。
思考はそこで止まった。風に、温かく鼻をくすぐる匂いが紛れてきたからだ。またしても腹が鳴る。衣擦れの音が近づいてきた。「お待ちどうさま」
女が運んできたのは粥だった。手渡された白い粥は熱く、よく煮とけており、美味そうな匂いに喉が鳴る。なにせ四日ぶりの食事なのだ。
「落ち着いて。取り上げやしないから、ゆっくり召し上がって」
女の声はやや低めだが、優しい響きを耳に残す。彼は頷いて、できるだけゆっくりと匙を口に運んだ。粥はほのかな甘みのある優しい味で、確かな熱を持って臓腑を満たし、身体に染みとおっていく。食にはまるで困ったことのない彼だったが、こんなに美味い粥は食べたことがない、と思った。何口食べても変わらず美味く、いつまでも食べ続けたいほどだ。
何杯かお代わりするうち腹も落ち着き、ようやく人心地がついた。彼は空になった器を床台脇の小卓に置くと俄かに居住まいを正し、
「遅ればせながら――お助けいただき、本当にありがとうございました。僕は杜叡と申します」
そう言って、深々と頭を下げる。それを見た女は優雅に笑い、
「困っている方をお助けするのは当然のこと、お元気になられて安堵いたしましたわ。私のことは、どうぞ花生とお呼びになって」
と言った。瓜実顔のなめらかな額に施された梅花の花鈿は、唇と同じ鮮やかな紅色。白い肌によく映え目に残る。柳眉が沿う杏型の目はいつも柔らかく細められ、傾国の美女とまではいかないが、側にいて心癒される美しさが彼女にはあった。
「それにしても、どうしてあのようなところでお休みに? 三日も所在不明では、家の方は大層ご心配されていることでしょう。よろしければ私がお伝えに上がりましょうか?」
花生の言葉に、温まったばかりの杜叡の心身は、すうっと冷えていった。何か言わなければ――思うものの、思うほどに言葉が出ない。
「どうかして?」
小首を傾げ、まるで娘のように邪気無く訊いてくる花生。胸が苦しい。
言わねば、「自分で帰れるから」と。立ち上がらなければ。「お世話になりました」と。僕に行き所がないことなど、この人には何の関係もないんだから――そう自分を叱咤する。だけど唇はただ震えるばかりで、身体を床台から押し出そうとする腕にはまるで力が入らない。
ごまかそうと笑った。いつものように。だけど花生の無邪気な笑顔にたちまち険が走る。黙って杜叡を見つめることしばらく。花生は言った。
「貴方もしかして……行くところがないの?」
杜叡は何も言えなかった。首を横に振ることさえできなかった。ただこれ以上無様な姿をさらすまいと固く奥歯を噛み締めた。
強く衾を握る手に、そっと手が重ねられる。柔らかく、心地いい冷ややかさだった。
「どうぞ本当のことをおっしゃって。ここには私一人しかおりませんもの。遠慮なんかいらないわ」
慈しみのある笑顔だった。その温かさに引き込まれるように、彼は思わず言ってしまった。ずっと打ち消し続けてきた思いを。「厄介払いされてしまったんです。母と――父から」
言葉にしたとたん、留めていた感情がどっと噴き出した。強張った身が軋むのも構わず身を折り、両手で顔を覆う。せめて声だけはと思ったが叶わず、引きつる喉が、縮こまった身体を無様に震わせる。
ふいに、丸めた背にふわりと被さるものがあった。そのまま廻ってきた手が杜叡を包む。余りの驚きに、息が止まった。それにより乱れていた呼吸が次第に正されていく。異様に火照った身体の熱が、少しずつ引いていく。
「お気の毒なこと」
背後からポツリと聞こえたのは、涙声だった。と同時、廻った両腕に一層の力が篭った。
「かく言うこの私も――訳あって会えぬ子がおります。お互い欠けたものを持つ身でございますね。でしたら、こちらにずっといらして。一人は寂しゅうございますから……」
低いささやきが、耳に優しい。花生の手が、杜叡の手に延びる。濡れたそれを躊躇うことなく取る花生の白い手を握り返すと、温かな涙が新たに頬を伝った。
それから。
杜叡はそのまま、花生の家でやっかいになることとなった。
微熱が続き、床台でひたすら眠る。目覚めると外が明るいことも暗いこともあった。明るいときは時折、ぼんやりとしたまま開け放たれた扉から見える中庭を身動ぎもせず眺める。そうしてるといつしか瞼が重くなり、そのまま目を閉じる。そうやって一日が終わった。ただ寝てばかりいるのに、どうしてこんなに眠ってしまうんだろうと不思議でならない。家にいた頃にはありえないことだった。継母に認めて欲しくて、弟が生まれてからは居場所を確保する為に、朝早く起きて、夜遅く寝る日々だった。常に次に何をやるかを考え、いつもぬかりなく辺りに目配りをしていた。少しでも隙を見せないよう気を張っていた。そうやって溜め続けた疲れを今、癒すかのような日々だった。こんな生活はありえない、と頭の片隅にふと浮かぶこともあったが、長くは続かない。それ以上ものを考えられなかったのだ。考えると、どうしても悪い方向へ、まるで救いのないことだけしか浮かばない。それに耐えるだけの気持ちが彼にはなかった。
花生は、そんな杜叡を叱ることも煩わしがることもなく、彼の世話を焼いた。彼が目覚めると、それがどんな時間であっても暖かい食事にたくさんの薬、清潔な衣を手に、せっせと部屋へやってきた。置いてもらっているうえ、さらなる面倒をかけるのが申し訳なく、杜叡は何度か詫びた。無理に起きようともした。だが、
「私が今一番望むのは、貴方に本当に元気になってもらうことです。だって元気になっていただかないと、楽しくお話したり、一緒に庭を散策したりすることができないでしょう? ですから今は無理せず、どうぞゆっくり休んで。回復されたら色々お願いすることがありますから、今は心身ともに元気になることだけを考えてください」
花生はそういって、起き上がろうとする杜叡を優しく留めた。そういうことが何度かあり、「だからいいのよ」と花生が眉をひそめるのを見たとき、「そうか、本当にいいのか」と杜叡は思い、それ以降は無為の日々を送るようになっていた。
「さあ、召し上がれ。今日のお粥の味はどうかしら? 気に入ってくれるといいのだけど。それと、今日は薬を替えてみましょうね。苦いけどよく効くそうだから」
そう言って湯気の上がった椀を差し出す。毎日少しずつ味の違う粥を用意して、杜叡の食べる量に一喜一憂している。花生は、ろくな反応を示さない杜叡と接することにウンザリするどころか、どこか嬉しそうでさえある。だからつい甘えてしまう。心のどこかに「それはいけない」という思いがあるものの、うやむやのままにしてしまう。そんな杜叡の心持を知ってか知らずか、彼女はかいがいしく世話をしてくれるものの、出過ぎたところはなかった。彼が一人になりたがっているとみるや絶妙の間で席を外す。逆に、彼が心細さを感じるときには静かに側に寄り添う。穏やかだった。少なくとも今、思い悩むことは何もなかったのだから。
そんな毎日を重ねるうち、杜叡は少しずつ食も増え、やがて床台から起き上がれるようになった。時折部屋を出て、中庭に下りられる階に座って庭を眺めるまでになるころには、次第に口数も増え、顔に表情が出始めた。諾否だけで会話をしていた花生と言葉を交わすようになると、彼は、ぽつりぽつりと自分の身の上を話すようになった。
地方でそれなりの商家の長子であること。ただし実母が下働きの女であったため、長く子が出来ずにいた正妻からは疎まれ続けていたこと。ただし彼を可愛がる祖父母の存在もあり、つつがない日々を送っていたこと。
だが。
「五年前に弟が生まれたんです」
正妻が子宝祈願にご利益があるという寺の存在を聞きつけ、隣村にせっせと通うようになった努力が、ついに身を結んだのだ。この頃から父が寝込みがちになり、正妻が商売を切り盛りし出した。実母は彼を産んですぐ亡くなっており、彼を可愛がった祖父母も相次いで世を去ったため、後ろ盾を失った杜叡の立場は一気に脆弱なものとなった。彼が店の雑用を言いつけられる傍らで、名高い老師がつけられた弟は高級官吏の登用試験である科挙合格を目指し、勉学に励むようになった。そのあからさまな処遇の違いに、家人たちの中には杜叡と距離をとり、正妻に擦り寄る者が増えた。だが乳兄弟でもあり、幼馴染ともいえる家人の威だけは変わらず彼の味方だった。杜叡の遠縁ということもあり、威が若さに任せて周囲の変心に憤りをみせるのを、「僕は、衣食住に困ることなく生活させてもらっている。それ以上を望むなんて、恐れ多いことだよ」そう言って宥めながら、杜叡自身が慰められた。多忙な父に代わり幼少から彼の面倒を見続けた老頭が、杜叡の好きなものをこっそりと部屋に置いてくれることがどれほど嬉しかったか。人前ではよそよそしい態度を取られたが、老頭にも養う家族があるのだから、それは仕方ないことだと思っていた。
ふた月前のことだった。
「見聞を広げるために、今回の仕入についておいき」正妻が杜叡にそう言ってきた。普段まともに口をきかぬ継母が、笑顔さえ見せてくれたのだ。
「やっと認めてもらえたんだ、って有頂天でした。おめでたいですよね、僕」
京城では仕入そっちのけで名所を巡り、名物を食べた。あまりの贅沢な毎日に、「いいのかい?」と同行した老頭に訊くと、「奥様のご命令です」と答えた彼の声に力がなかった。幼少の頃から面倒をみてくれた老頭の様子が気になったが「少々疲れました」という言葉を信じた。まさかその翌日に、自分を置いて姿をくらますなんて思ってもいなかった――。
「次の日の昼過ぎでした。宿主に叩き起こされたのは」
「連れが逃げたぞ。どういうことなんだ!」という宿主の怒号は、起きぬけのうえ、昨夜の酒も消えていなかった杜叡にはすぐざま理解できなかった。だが、昨夜まで愛想のよかった宿主は酷薄な笑みを口元に刻みながら、畳み掛けるように「出てってもらうよ。宿代はきっちり払ってもらうからな」と杜叡を身包み剥がし驢馬を取り上げたうえで、往来に放り出したのだ。
もう大丈夫だと思っていたのに、話すと目が潤み、声が詰まる。何も言えなくなる。だが花生はそんな杜叡の言葉を辛抱強く待ち、時に「もういいのよ」と留めてくれた。そうして一緒に涙してくれた。
やがて床台から出る時間が長くなると、花生から別室での食事を勧められた。そこに行くまでには、庭を廻る回廊を渡ることになる。部屋で見ていたより多彩で多様な植物に、温かな陽光が降り注ぐ庭。余りの美しさに立ち止まることもしばしだった。そうしてたどり着いた先に用意されているのは、粥、饅頭、野菜たっぷりの湯……。驚きばかりあった宿の豪華な料理にはない素朴さ、そして家ではありえなかった温かさだった。料理の前には笑顔の花生が座っている。「さあ座って。どれから盛りましょうか?」どれも食欲をそそる色と匂いだった。そしてどれも全て美味しかった。そう告げると、花生はたいそう喜んでくれた。
「庭を、拝見してもいいですか?」
食後の茶を頂きながら、杜叡が言うと、花生は笑顔で頷いた。
杜叡が廊下の階段を下り庭に出ると、花生も後からついて来る。そして「そちらは足元が悪いから気をつけて」だの「そちらは行き止まりになるわ。こちらから回りましょう」だのと道を示しながら、時に歩調を緩める杜叡に合わせ、「これは海棠」・「あちらは楝」と多彩な草花をさりげなく説いた。道なりに進んでいくと、強い芳香が漂ってきた。現れたのは紅・紫・黄といった色鮮やかな大輪を開く多種の牡丹。そんな中、杜叡が足を止めたのは、薄緑の叢の中、見事に咲く白牡丹の前である。
「美しいですね……」
しなやかな花片が幾重にも重なり、黄色の蕊を抱くように柔らかく花開く牡丹を、杜叡はしげしげと眺め、そう呟いた。
「まあ珍しい。世間ではあちらの紅や紫の花が珍重されているのに」
この頃の京城では、人々は貴賎問わず牡丹に熱狂し、春になるとより美しい牡丹を見んがため京城中を駆け回った。珍奇な牡丹を競わせる「闘花」も盛んで、名花を買い集める者も多かったという。中には一株が成人奴隷数人分という高額な牡丹もあり、身上を潰す者は後を絶たなかったそうだ。
「僕は白い牡丹が好きです。清楚で、凛としていて、見ていて心が落ち着きます。なにより――どんなに人が集まる名所でも白牡丹なら静かに見られますから」
しかし紅や紫といった華やかな色合いのものがそれほどの人気を誇るのに対し、白い牡丹は見向きもされなかった。白居易も「白花冷淡にして人の愛ずるなし」と詠っている。
「まあ」花生は軽やかな笑い声を上げる。
「私も同じ。白が好き。佇まいに品があるもの。ね、私たち、やっぱり気が合うわね。嬉しいわ」
なるほど、それで白牡丹が一番多く咲いているのか、そう思ったとき、急に牡丹が強く香った。気付いたら花生が側に寄り、白い指が腕にそっと添えられていた。杜叡は思わず花生を見る。「あら何か?」とばかりに小首を傾げて自分を見上げてくる彼女。白日の中、彼女の白い肌は透き通るようで、額の花鈿と唇の紅さが一層目を引く。目を離せなくなる。
「どうかして?」
さらに身を寄せて花生が訊く。腕にかかる柔らかな重みに胸がざわめいた。杜叡は興をひかれた態を装って彼方に目を投げることでその身を離し、
「あちらも綺麗ですね。あちらには何があるんですか?」
ぎこちない笑顔を浮かべると、その場から歩き出した。
花生は気がつくと側にいて、何かと気にかけてくれる。「何か食べたいものはある?」「何か読む?」「碁でもやりましょうか?」等々。親しげに語りかけられ、柔らかい笑顔を向けられると、自分を憎からず思ってくれているのではないかと思ってしまうこともしばしばだ。だがその度、杜叡は己の愚かさを哂う。そうして自らに言い聞かせる。
この家には見たところ他に人がいないようだ。子があるとはいえ妙齢の女性である。それでなくて厚意に縋る身なのだ、近しくなりすぎてはいけない。節度をわきまえなければ。ほんの一時、やっかいになっている身なのだから――。
「あらまあ、こんなところで」
そう声をかけられて気付いた。自分が楡にもたれかかって眠っていたことに。
「もう日も落ちてくるわ。風邪を引くといけないから」
花生は笑顔でそう言うと、だらりと地に落ちていた杜叡の手に握られた書を取り、パタパタと表面を払った。こんなところでだらしなく寝ていたなんて……恥ずかしさの余り赤面する。だが花生は開かれた頁を見て言った。
「猛浩然の『春暁』ね。確かにこんなに麗らかな日に、鳥の声を聴いていたら気持ちよくて瞼が落ちてしまうわね――さあ、行きましょうか。温かいお茶を入れるから」
そう言って花生は踵を返すと、「春眠不覚暁」といい調子で歌い始めた。とても綺麗な声で、足取りと同じく軽やかに。楽しげに。
こんなこともあった。
杜叡は花生の後に従い、やはり庭を歩いていた。甘い香りの漂う花の上で、二羽の白蝶が絡み合うように飛び交っていた。それを目で追っていたら足が縺れ、尻餅をついてしまった。すると、
「大丈夫!」
少し前を歩いていた花生が、血相を変えて戻ってくる。なんとも気恥ずかしく「うん、平気」と立ち上がろうとしたら、「さあ」と手を延べられた。その手を取って立ち上がり、「ごめん、着替えたばかりなのに」尻を叩きながらそう言うと、花生は目を大きく見開き、「何言ってるの! そんなことより、怪我してない? どこか痛みはない?」言いながら、杜叡の周りを何度も廻る。目ざとく見つけた袖の埃を丹念に払う花生の姿を見て、杜叡は不思議な心持がした。家で同じようなことがあったことを思い出したからだ。
「洗ったばかりの服なのに、何をやってるのよ!」
それが継母の第一声だった。追随するように、「年少の弟君はしっかり歩かれてますのに……大爺がご不快の今、少爺にはもう少ししっかりしていただかないと」と家宰が苦笑する。「これだから下賤な女の子は……」と続くお決まりの台詞は、打ちつけた体よりもさらに心を痛めつける。自分のせいで既に亡い実母が悪く言われてしまうことは、辛いことだった。無様な自分に顔が熱くなり、杜叡は「申し訳ございません」と消え入りそうな声で俯く。それが当たり前だった。不注意で未熟な自分が悪いから怒られるのだと。弟には甘い声で語りかける継母が、眦を上げ、肩を怒らせて自分に対峙するたび、「自分がこういう顔をさせているのか」と胸が苦しくなる。悪いことをすれば謗られるのは当然だが、皆に褒められることをしても喜ばれないどころか苦い顔をされるのだ。要するに、自分という存在が疎ましくてならないんだろうと。分かっていながら「いや、だけど」という思いが捨てられなかった。いつかは分かってもらえる、と思いながら、自分を律し続けてきた。その結果が、「これ」なのだ。今となっては自分の愚かさを、哂うしかない。
それなのに花生は、何かあるとまず何より杜叡の身を気遣う。その後、「もう、子どもじゃないんだから」と笑うのだけれど、それが、自分を馬鹿にしているのではなければ、責めているわけでもないのは分かる。なぜだろう、慣れないことに戸惑いを感じてしまう。
――いいのか?
まるで不可解な夢を見たかのような感覚。
だけどそんなことは何度も繰り返され、これが、花生にとっては当たり前のことだと分かってきた。失敗や無知が、花生の杜叡に対する評価に微塵も影響を及ぼさないのだと。
――いいんだ。
男のくせに涙しても、鬱々としてぼんやりしていても、彼女は時に一緒にいて、時にほっておいてくれるのだ。「こんなことをしたらまた言われてしまう」と思うことなく、気ままにいることを許してくれるのだ。驚きだった。こんなこと、今までになかった。涙と洟水でぐちゃぐちゃになった顔を撫で、拭ってくれた彼女に、無様に泣きじゃくる自分を優しく抱いて、優しい言葉をかけてくれる彼女に、いまさら取り繕う姿などなかった。自分の弱さを晒しても哂わず、拒まず、変わらず慈しんでくれる存在がこの世にあるなんて、知らなかった。いつも誰かに一挙手一投足を見張られ、何かあると「下賎な女の腹からは」と謗られた。だから、決して何事をも言われぬよう慎重に行動し、言葉を紡いだ。一歩部屋から出るときには、気合を入れていた。かといって下手に賢すぎても嫌な顔をされるので、時には無知を装う必要さえあった。だけどここではありのままでいられた。こんな何も考えずにいられるところがあるなんて――。
それから。
杜叡は、花生に促されるままに日々を過ごした。
日が高くなって起き、顔を洗い、用意された衣に着替え、用意された美味い食事をした後は、庭でぼんやりと過ごしたり、書を読んだり、花生と碁を打ったり、茶を飲んだり。
時に彼女の舞や歌を鑑賞してうっとりとした。彼女の身のしなやかさ、声の美しさといったら、京城でたくさん見てきたどの妓女たちにも、まったく引けを取らない見事なものだった。思わず、「好!」と何度も手を叩くと、艶やかな笑みを一転、花生は子どものように嬉しそうに笑うのだった。そうして夜には甘くほろ苦い竹葉青を勧められるままに飲んで、酔いにまかせて心地よく眠る。そんな、夢見心地の毎日だった。
とはいえ、ふとした折にかつての生活を思い出すこともあった。
食卓に、家でよく出ていた料理が出てきたとき。用意された服が、かつての自分のものと似ていたとき。そして、手首にあるはずの白玉の腕輪がないのを見たとき――追い出される際に、娘の命で宿の下男に奪われたのだ。「母の形見なんだ。そればかりは」と哀願する杜叡を「だったら宿代払ってよね」と言って嘲笑し、「これ狙ってたんだ」と小躍りした娘。その前日までのにこやかな様子は、同じ顔をした別人のものだとしか思えなかった。
心が落ち着かないとき、そっと右手を左袖に差し入れ、ひんやりとした腕輪を触っては心を慰めてきた。この腕輪をもらったのは弟が生まれてしばらく。それも京城の仕入れから戻った父からもらったのだ。弟が生まれてから、弟にはある京城土産が自分にはなくなっていた。継母が父に何事かを言っているのは明白だった。だからあのときも、山のような土産に囲まれて笑っている弟と継母から身を隠すようにして、父からそっと渡されたときには嬉しいよりも驚きが先にきた。実母が亡くなって、もう十年近く経つというのに、何故今頃? 不思議に思い、杜叡は父に問うた。すると父は、「もう渡していい年頃だと思うてな」と口早に言うと、腕輪を杜叡に押し付けるように渡し、そそくさとその場を去った。継母は父と杜叡が二人きりで語るのをことのほか嫌がっていたので、杜叡にとってそれはいつもの父であった。妻の癇癪には心底うんざりしており、それを回避することを第一とする、その姿が。
だから実母のこともほとんど訊いたことがない。他人が言うには、母は貧しい山村の生まれで、幼い弟妹を養うためにこの家へ若くして奉公に来ていた、という。美しい娘で、来て間もなく杜叡を身ごもり、産み、そして亡くなったと。そんな貧しい生まれの母が、白玉を? それもどこで? と疑わしく思った。突然土産を買わなくなったことを心苦しく思っていた父が、とってつけた言い訳でもって買ってきたと考えるほうが自然だ。だけどそれを正す手段はない。だったら、父の言う通りなのだと思うことにした。きっと、母が稼いだ金を溜めていて、いつか子に何かを買ってやってくれと父に預けていたに違いない。これは母が僕に残してくれた唯一の形見なのだ――。
以来杜叡は、それをずっと身につけてきた。実の母親似だという姿を見ると血の気が増えて苦しくなるから、と継母は自分に近づこうとしないのが幸いして、特に咎められることもなかった。心が苦しいとき、じっと左手首を握り締めた。そうして何度も「大丈夫」と自分に言い聞かせた。そうすると、少しずつ心が静まる。そうやって日々を送ってきたというのに。
いいじゃないか、この生活には憂いがない。白玉が必要なことなんてないんだから。
右手で左の手首を何度もさすりながら、杜叡は白牡丹の前で、ひとりごちていた。だが心に浮かんだ言い訳に、知らず苦い笑いがこみ上げてくる。
この生活? 見知らぬ女の情けで生かしてもらってるこの生活が、いつまで続くと?
それを考えるとどうしようもなく苦しくなった。思わず杜叡は、目の前の牡丹に手を翳した。それを何度も何度も撫でさすりながら、「大丈夫」と言い続けた。強い芳香に包まれ、春日に照り輝く高貴な白牡丹を見ていたら、自分の憂いなど下らないものだと思えた。以来、杜叡は心落ち着かなくなると白牡丹の前に立つようになった。曲がることなく凛と立ち、高貴な香りを放ちながら可憐に花開くそれを見るだけで、心の濁りが失せるのだ。
だからなのか、夢のような毎日の中でふと、心が焦る。たらふく食べて、遊び、挙句酔いのまま眠る、こんな自堕落な生活があってよいのかと。朝、身支度を整えようと覗く鏡に映る、顎の肉がついた顔を見るたび暗然とする。一体、自分は何をやっているんだ、と。すでに床台に伏せることはないのに、いまだになにくれと自分の面倒をみる花生を見るたび申し訳なく思い、杜叡は何度も自分にも仕事を割り当てて欲しいと申し出た。しかし花生は、杜叡の「置いてもらっているなら、何かしら手伝わせてくれ」という言葉を全く受けつけようとはしなかった。「私の無聊を慰めてくれているじゃない、それが立派な仕事よ」と笑うのだ。では、無聊を慰められなくなったらどうするのだ――その言葉は、喉の奥で呑み込んだ。
そんな杜叡の心など知らぬように、花生はひたすらかいがいしく彼の世話を焼いた。「この餅、すごく美味しい」などと杜叡が言えば、毎日それが出される具合だ。それどころか、「何か食べたいものはない?」だの「何かして欲しいことはある?」だのとしきりに訊いてくる。「何もないよ」と答えると、「遠慮しないで」、「私にはちゃんとして欲しいことを言って欲しい」と詰め寄るので、ささやかな要望を伝えたら、大喜びで杜叡が望む以上のことをやってくれるのだ。
「ちゃんと椎茸も食べないとダメよ」と妙に嬉しそうに言ったかと思えば、花生が落としたものを杜叡が拾い上げただけで「何て優しい子かしら」と泣き出さんばかりに感激している。まったく子ども扱いだ。たかだか十歳程度にしか歳は変わらないのに――そう不満を感じた自分を、杜叡は哂った。彼女に養われている分際でそんなこと思うこと自体、おこがましいってもんだ。何の力も縁ももたない自分を、彼女が一人前の男として見られるはずがないのに。
僕なんかに関わったって何の得にもならないのに――酔ったふりをして言ったことがある。もう地縁も血縁もない自分は、これだけのことをされても何も返せないのにと。そしたら、「そんなことはどうでもいいのよ」と花生は笑うだけだった。
何の見返りも求めない。
世にいう母親はこういうものだと聞くけれど、本当なんだ、と杜叡は思う。嫌な気持ちを抱く暇もない。余りにも大事にされすぎて、慣れない心地よさに戸惑いさえ覚える。だけど花生が本当に尽くしたいのは、僕なんかじゃない――。
そう考えると、気持ちが沈む。申し訳ないという思いが強くなる。さりとて他に行く場所はない。そして、いつまでもこんな生活が続くわけがない。「役に立たない」と父にクビを切られた家人を、子供の頃から大勢見てきた。今の僕は、会えぬ子を思う余り盲目になっている彼女に生かされてるにすぎない。でも僕は彼女の子供ではない。これから老いていけば、それは如実に現れるだろう。そう、いつまでも続くことではないのだ。彼女の目が覚めるまでの「今」なのだ。夢でしかない今にいるこの僕には実体なんてないも同然だ。
自分の身をどうすることもできないのだから。だったら、過去を嘆いたり今後を恐れたりするなんて、まったく意味のないことだ。
だから杜叡は、考えないことにした。これまで以上に何も考えないように花生が勧める酒を飲んで、彼女の芸を観て、好きなものをたらふく食べて、美しい花を愛でて、起きたい時に起き、寝たいときに寝た。昼夜構わず飲むようになり、鏡は見なくなった。素面で白牡丹の前に立つことはなくなった。いつも心地よい軽やかさの中に身を置き、それは実の家でさえ味わえなかった気楽さだった。花生が望むんだからとひたすら彼女に甘え、ただただ流される日々を送った。
「何不自由ない生活とはこういうことをいうんだろうな」
「彼女がいいというんだからいいんだ、こんな生活も。実際、彼女の言うとおりにして、間違いはないんだし。後のことは、もうどうにでもなればいい。僕にはどうすることもできないんだから」
そんなことをぼんやりと思いながら。ほどなく、杜叡は自分がこの家に滞在して何日になるのか、数えるのをやめていた。
ある日のこと。
いつものように杜叡は庭を歩いていた。昨日は余り飲まないうちに早々と眠ったからか、早朝の目覚めだった。外気は清涼で、そのせいか珍しく頭がスッキリしている。いつもは霞がかって見えていた庭が、くっきりとした輪郭を持って鮮やかに、多彩に目に飛び込んでくる。見慣れた庭の異なる様子を楽しみながら、いつものようにあちこちをゆっくり廻ったあと、最後に白牡丹を愛でに行った。
気品ある香りを求めていくと、柔らかな白牡丹に下りた露が日の光を受け、花に輝きを与えていた。杜叡はため息混じりに花を眺める。本当に美しい。こんな美しい花を他で見たことがあっただろうか……。
そこまで思い至ったとき、たちまち何ともいえぬ違和感にとらわれた。
よく見ると、花の数が減っている気がする。最初見たときは、紅紫の倍は咲いていた白牡丹が、今や同じくらいの数になっている。よく見れば、手折られたあとが複数あった。何故だろう、どこかに飾っているのだろうか。だけどこの家の部屋殆どに入ったとは思うが、そのどこにも飾られているのを見たことはない。
だがそれ以上に強い違和感がある。だがそれがなんなのかは、分からない。
なんだろう? なにか、違う気がする。ほんの僅かだけど、なにかがおかしい。
「またここなのね」
背後からかけられた声に、体が跳ね上がった。
「何を驚いているの? おかしな人」
花生だった。花を見ていて声をかけられることは日常で、向けられる笑顔も見慣れたものなのに、何故か胸が激しく打っている。押し隠すように杜叡は慌てて笑顔を作ると、
「牡丹の朝露が美しくて魅入っていたものだから、ちょっと驚いてしまって」
「そうだったの。確かに、こんなに貴方が早起きなのは珍しいものね。さあいらして、朝餉の用意ができましたわ」
言いながら手を取る花生の指は、冷たい水でも触ったかのようにひんやりとしていた。まだ肌寒い早朝の気のなか、その冷たさは随分と染みた。たまにそっと触れる白い指の冷ややかさは、陽気の中では気持ちよいものだったので気づかなかったが、どうしてこう、いつもいつも冷たいのだろう。
――そういえば。
箸を動かしながら、杜叡は考えていた。
この家は花生一人暮らしのようだ。訪ねてくる者さえいない。となると誰がここまで僕を運んだんだろう。着替えさせたのは? 確かに僕は男にしては小柄だと思うけど、それでも細身の花生一人では無理だ。不思議に思って、実際何度か訊いたこともあった。そのとき、なんて言われた? そういえば、きちんと答えてくれたことは一度もない。「そうそう、訊きたいことがあるんだけど」だの「そんなことより」だのと話を変えられ、竹葉青をどんどん勧められて、いつもうやむやにされてきた……。
「どうしたの? 今日はなんだか変ね」
気がつくと花生の白い顔が間近にあった。紅が、目を捉える。いけない、咄嗟に思った。
「なんだかぼおっとして。早起きしすぎたのかな」
「そうね。確かにいつもより眠ってないものね。食べ終わったら少し寝直したら?」
花生は手近にある膾を、小皿に取り分けながら言った。それを杜叡に差し出す。
「ありがとう。でも僕だけそんなのは悪いよ。せめて後片付けくらいしてから休むよ」
「いいのよ、そんなことは気にしなくて」
「だけど」
「――じゃあ正直に言うわね。私、他の人に厨房に入られたくないの」
普段は穏やかな花生が、珍しく語気を強めた。これ以上の言葉を拒否しているのは明らかだった。その不自然さがいっそう心を騒がせる。
「じゃあ、ゆっくりお休みなさいね」
「うん。ごちそうさまでした」
食後の茶を済ませると、杜叡はあっさりと席を立った。部屋に戻るふりをして――花生を見届けようと思っていたのだ。こっそりと後をつけてみようとさえ。だが。
杜叡は回廊の途中で足を止めた。目線の先には、白牡丹――そこで彼は違和感の正体に気付いた。
――なぜ、この牡丹はいつまでも開いているのか。
初めてここの牡丹を見たとき、すでに蕾が一つもなく、満開状態だった。牡丹の見ごろは五日くらいだと聞いた覚えがある。僕がここに来てそれ以上経っているのに、何故この花は、枯れるどころか、花片一枚散っていないのか。
ふと振り返ると、花生が今しがた出てきた部屋の前に立ち、ずっとこちらを見ているではないか。彼の魂胆を見透かし、それを阻止しようとするかのように……。向けられているいつもの、いやそれ以上に美しい笑顔に、ぞっと背筋が凍りつく。取り繕うのも忘れ、杜叡は小走りに寝室へ向かった。
爽やかな風さえも拒むように、日中はいつも開けている寝室の扉を閉めた。
――ここは一体。
杜叡は床台に倒れこみ、激しく打つ胸を落ち着かせようと、襟元を握り締める。
ここに来てからの日々を思い出す。毎日平穏だった。何の不自由も不満もないほどに。だけどここまで平穏な毎日などありえるのか――。
目を閉じた。だけど頭を何度振っても、花生の鮮やかな紅が脳裏を離れない。
「こっちも行き止まりだ」
額の汗を拭いながら、杜叡は溜息をつく。風のない庭は、植物の湿気が立ち上るからなのか妙に蒸し暑い。いつにない嫌な重さを衣に感じ、思わず袖を払ったときだった。
「何をしているの」
背後からの鋭い声に、杜叡の身体が固まる。意を決し、ゆっくりと振り返ると、そこには険しい顔をした花生が居た。
「どこへ行くつもりかしら」
普段の笑顔はどこにもなかった。冷ややかな声にも表情にも「怒り」の感情が滲んでいる。ひそかにこの場にいたから、杜叡には後ろめたさがあった。だがそれを押し隠し、まずはぎこちない笑顔を作る。そうして努めて平静に杜叡は言った。
「少し外に出ようかと思って。声をかけようと思ったんだけど、姿が見えなかったから」
「何か必要なものでも? おっしゃいな、私が用意しますから」
「そういうことじゃないよ。ただ本当に、天気がいいからちょっと散歩に行こうって……」
「貴方!」
少しずつなめらかになる繕いの言葉を、ピシャリと遮られた。
「貴方、自分がどんな目に遭ったか忘れたの? 金も人脈も土地勘もない貴方が今、呑気に街へ出て無事に戻れると思ってるの? 貴方みたいな世間知らず、簡単に人を信じて騙されて、奴隷として十把一絡で売られるだけよ。そして牛馬の方がマシと思うほど酷く虐げられて、惨めに死ぬに決まってる。そんなふうだから、継母に足元を掬われるのよ!」
花生の口からとは思えない言葉に、何もかもが凍りついたようだった。華やかな庭も、春の陽気も、穏やかなこれまでの日々も。杜叡は瞬き一つできずに立ちすくんだ。
「分かった? さあ戻りましょう。そんな顔しないで。大好きなお餅も用意しているわ」
先ほどまでのキツい口調が一転、それはいつもの優しい花生だった。
「分かってね。私は、あなたが本当に心配なのよ。――貴方は本当に素直で優しい、いい子だわ。だけどその人の良さにつけこむ輩が世の中にはたくさんいる。頑張っている貴方を利用しようとする輩がいっぱいいるのよ。そんなところに、貴方を置きたくないの。もうこれ以上、貴方に傷ついて欲しくないのよ」
諭すような口調。そこに諂いはなかった。
花生はそっと手を延べてきた。いつものように。
「さあ行きましょう。ね?」
だけどその白い手が掌に触れたとき、杜叡は反射的にそれを跳ね返していた。
手が、ジンと熱い。それだけの力で彼女を打ったのだと思うと胸がチクリとする。花生が驚きの表情を見せているのをみればなおさらだ。だけど。
「……そんなのはいやだ」
「え?」
「このまま甘やかされてたら僕はダメになる。そんなのはいやだ。病気でもなんでもないのに、いい歳をして何もせずに人に養われているなんて、立派な男子の有り様じゃない。僕が堕落してしまったら、継母の思うツボじゃないか。僕は、理不尽な継母に我侭な義弟を見るにつけ、自分は正しくあろうとしてきた。「嫡子ではないが立派なものだ」そう言われる僕であることが、あいつらへの最大の復讐だと思ってきた。あんな継母や義弟には絶対に負けるかって生きてきたのに、ここであいつらの思うような人間になるわけにはいかないんだ。何も持たない僕を拾ってくれて、信じられないくらい平和な日々をくれて、花生には本当に感謝してる。だけどこのまま、餌を与えられるだけの籠の鳥にはなりたくない。たとえどんな目に遭っても、命を賭して僕を産んでくれた母さんに恥ずかしくない自分でいたい」
もっと言いたいことはあったが、それ以上の言葉は出てこなかった。自分でも信じられないような後先をまるで考えていない言葉の数々に、杜叡はどうとでもなれ、と思いながら顔を伏せた。一人では何もできないくせに、一人前の口をきいてしまった自分の愚かさを哂いながら。
ひやり、と額に触れるものがあった。
思わず顔を上げると、花生の細い指が、汗ばんだ額に張り付いた産毛をそっと剥がしていた。いつものように。その手がそっと下りてきて、杜叡の目元をなぞる。
「何も泣くことじゃないでしょう? 本当に、貴方って人は、もう」
呆れ口調だが、笑顔は優しい。気恥ずかしくなって曖昧に笑った。それを見て、花生も目を細める。だがその表情が、ふと陰る。
「でも……そうね」
指が、そっと離れた。
「貴方も、もう子供じゃないんだものね。もう男の子では――ないのよね」
風が吹いた。枝や葉がざざと鳴る。まるで波のようにそれは鳴り続け、杜叡の昂ぶった心を一転、不安にさせた。花生はどこか寂しげに目を伏せたままだ。
「花生?」
思わず声をかけた。すると花生は面をあげる。いつもの笑顔だった。
「風出てきたわね。さあ戻って、温かいお茶でも飲みましょう」
そう言うと、さらりと腕を絡めてくる。戸惑う杜叡は動けない。分かってくれたのでは、ないのか? そんな心を知ってか知らずか、花生は杜叡を見上げ、上目遣いで、
「どうかして?」
額と口元の紅が強く目を引く。どうしようもなく引き寄せられる。「さあ」という言葉とともに身体を押された。反することはできなかった。
その夜は、随分と飲んだ。花生も珍しく杯を何度も傾け、陽気に歌っていた。杜叡は竹葉青だけでなく、白酒や高価な葡萄酒などまで、勧められるままに煽った。このまま籠の鳥か、と自嘲しながら。いい気分になって大声で歌った。だがいつもの倍量は飲んだのではないか、というあたりで、杜叡はいつもの自分にはない違和感を覚え、「もういい」と杯を手で覆った。だが花生は「そう言わないで」と彼の手を払いのけ、すぐに杯を満たした。「それくらいで」と止めるのはいつも花生だったから、珍しいことだった。注がれた酒を断るのは無礼だからと、杜叡は更に杯を重ねた。
そのうち、天と地がぐるりと廻った。
気づいたら天井を見ていた。
花生の声が耳の奥から聞こえた。
「もうそれくらいにして、部屋でお休みなさいな」
そうしていつしか、床台に寝ていた。
目の前がぐるぐるした。身体の奥で異物が踊っていて、息をするだけで吐きそうになる。頭がズキズキと痛み、身体が熱い。とにかく苦しかった。全部終わらせたくなるくらいに。
額に、ひんやりとした手が当たった。その指が、何度も何度も杜叡の髪を梳いている。
「仕方ないわねえ。でも貴方がいけないのよ……」
赤い唇がきゅうっと横に広がるのが見えた。あれ、彼女の口ってこんな……そこで意識が途切れた。
そして。
鳥の声に目が覚めた。今度はハッキリと。あの苦しみがウソみたいに消えていて、夢だったのかと思った。だがこの天井、この床台、この部屋――夢の全てはこの家の中でのことだ。では、やはり夢ではないのか――。
杜叡は起き上がろうとして、思いとどまった。起き上がると、待ってましたとばかりに漱ぎの水を持った花生が現れることを思い出したからだ。
目を閉じて、ここに来てからのことを思い出す。ゆっくりと。
行き倒れて拾われた先は、清潔な部屋・整備された庭・美味しい食事・優しく美しい、たった一人の女主人……なんて出来すぎた話なんだ。見事すぎて怖いくらいに。
うまい話には気をつけろというのは誰の言葉だったか。
「嗚呼」
思わず声が漏れ、両手で顔を覆った。そこへ叩扉の音。
「お目覚めかしら」
「どうぞ」それ以外の言葉はあるだろうか。まして知らぬ顔でまた衾を被るなど。
女は晴れやかな笑顔で入ってきた。体調を尋ねる言葉や雑談に、短くそつのない返事をしながら、杜叡はぼんやりと思い出していた。まだ弟も生まれず、父も元気だった頃、存命だった祖母が語ってくれた、いくつかの昔話を。
異界に迷い込み、そこの物を口にしたため、二度と元の世界に戻れなかった男の話。
花の精に魅せられて、吸い尽くされ、枯骨と成り果てる男の話。
亡者と懇ろになり、棺に引きずり込まれる男の話。
恐ろしいと思いながら、聴かずにはいられなかった。
「では支度をして、いらっしゃいね。朝餉を用意していますから」
曖昧に頷き、のろのろと床台から下りた。花生は着替えを置くと、扉を開け放っていく。顔を洗いながら ふと顔を上げると、伏せたままの鏡が傍らに置かれていた。ずっと手に取ることのなかったそれを、裏返してみる。
ぞっとした。
水滴の中に映る顔は、口角がだらしなく下がり、目は虚ろ。覇気ある青年のそれではない。この部屋も庭も彼女も美しい。だのにこの、自分の醜さといったら! たまらず杜叡は、鏡を床台に投げつけた。
今となってはここの生活が、恰も桃源郷のようだとどうして思えるのだろうか――?
「最近食が細いわね? 同じようなものばかりで飽きてしまった? 少し痩せてきたみたいだし、心配だわ。何か食べたいものがあったら言ってちょうだい。用意するから」
「そんなことないよ。どれも美味しい」
花生の言葉に首を振り、杜叡は手近の皿に箸を伸ばす。だが――どうしても掴んだものを口にもっていくことができない。花生がこちらを見ている。その目が語っている――もう僕は、ここから逃れることができないのだと。
杜叡は箸を取り落とした。「まあ、大丈夫?」花生が優しい声でそれを拾う。いつものことだ。そう、いつもの。そしてこれからもずっと。ずっと――。
杜叡は自分が立ち上がっているのに気がついた。床にかがんだままの花生が怪訝な顔をしている。
「ごめん、気分が悪いんだ。少し休ませてもらう」
言うが早いか杜叡は身を翻す。後ろは見なかった。どうせどこにも逃げられない。この家のどこにいても彼女は見ている。僕を。ずっと見てる。
杜叡は日差しに輝く庭に目を向けず、足早に部屋に入り、扉を閉じた。そのまま床台に転がり、衾を被った。そうして固く目を閉じ、思い出す。京城に来てからのことを。家族に見捨てられ、宿の主人に放り出された末に行き着いたのは――。
「お似合いだ」
うっすらと目を開けた杜叡は呟き、喉で笑った。誰からも省みられなかった僕を、誰が大事に思うというんだろう。どうしてまっとうな生活を送れるなんて思ったんだろう。そんな日が来ると思い続けて、このザマだ。自分の馬鹿さかげんがホトホト嫌になる。情けなくて消えたくなる。もう、どうにでもなるがいい。人殺しに胸を突かれようとも、野犬に食いちぎられようとも、化け物に血を啜られようとも――そういう結末が、僕にはお似合いだ。
「じゃあ、出かけましょうか」
ある日のことだった。いつものように味の分からぬ食事が終わってそう花生に声をかけられたとき、杜叡は何を言われているのか理解できなかった。呆然とする杜叡に、花生は、
「だいぶ元気になったようだし、いつまでも家にいてばかりでは鬱々とするばかりでしょう。外出着を部屋に用意してあるから、着替えていらっしゃい」
そう言うと卓上を片付け、食堂を出て行ってしまった。
どういうことだろうと思いながら、杜叡は言われたとおり部屋に戻った。いつのまにか用意された外出着は真新しいものだった。それに随分と上質だな……そんなことを思いながら袖を通していると、自然、心が浮き立つ。軽やかな足取りで再び部屋を出ると、花生が庭に立つ姿が見えた。白牡丹の前だった。
思わず回廊途中で立ち止まった。というのも彼女が、随分と思いつめた顔で牡丹の前に立っていたからだ。その表情のまま、彼女は一輪の牡丹に手を伸ばす。愛でるため――ではない。そう気づいたとき、杜叡は小走りで庭へと駆け下りていた。
「あっ!」杜叡は思わず声を上げた直後、小気味いい音が耳に届く。
こちらを振り向く花生の手には、手折られた大輪の牡丹があった。それは、杜叡が密かに「唯一花王」と名づけていた、数ある白牡丹の中で最も可憐で、最も凛然とした、最も愛すべき高貴な一輪だった。
「あら、ちょうどいいところに。これを髪に挿していただけるかしら」
「……うん」
どうにか笑顔を作り、牡丹を受け取る。生花で髪を飾るのは女性の装いの一つだし、ましてここは花生の家なのだ。僕に何が言えるんだ。杜叡は花生の隣に立ち、結い上げた彼女の髪にそれを挿した。
花生は薄青の上着に濃紺の長裙姿で、大ぶりの白牡丹がそのいでたちをより清楚なものにする。微笑む姿が、いつも以上に優雅に見える。
並び立てば痩身の杜叡より一回りも小さい花生である。僕はやはりどうかしていたのかもしれない。彼女を疑うなんて。僕にこれだけ気を配ってくれる彼女を、まるでこの世ならぬもののように思うなんて。彼女は今まで会った誰より、僕に優しくしてくれているのに。それを素直に受け取れないほど、僕は荒んでしまったのか。
「支度はいいようね。覚悟はできてるかしら?」
杜叡を見上げる花生の目に、強さがあった。意味が分かりかねて、目で問うてみる。
「この家を一歩でたら、外はただ魍魎たちが跋扈する世界よ。覚悟はいいかしら?」
花生の言葉は、先日、庭で諍いをしたときに自分が発した言葉を受けてのものだということはすぐに分かった。杜叡はしっかりと頷き、
「勿論だよ」
「結構だわ。では参りましょう」
花生は軽やかに歩き出した。
花生の後をついて庭の小路を抜けていくと、あっという間に門が見えた。先日はあれだけ歩き回っても見つけられなかったのに。黙って出て行こうとしたことにどこか後ろめたい気持ちがあって、目が曇っていたのだろうか。
小さな門を出ると、他の坊と同じように小路に出た。ただし見渡す限り草が生い茂り、他の建物はないようだった。草で路は本来より細くなっている。
初めてこの坊に入ってきた時の風景と同じ、といえば同じだ。そういえば、あの廃寺はどこにあるんだろうと辺りを見回すが、それらしいものは見えなかった。そうこうしているうちに坊門にたどり着く。その向こうには見覚えのある往来が見え、人のざわめきが聞こえる。久しぶりに感じるこの猥雑さ。忘れかけていた心の躍動を感じた。
花生は迷いのない足取りで、思いのほか早足で、朱雀大路を北上していく。
どこに行くのだろうと最初こそ胸を躍らせていた杜叡だったが、こちらを振り向きもせずどんどん進んでいく花生の姿に、少しずつ戸惑いを感じ始めた。それは、花生が突如左折し、ある坊門をくぐったときに確信めいた不安になった。杜叡は思わず声をかけた。
「ねえ花生。どこに行くつもり?」
その声で、花生はピタリと立ち止まった。そこでくるりと振り向き、にっこりと笑って言うには、
「貴方には分かっているでしょう?」
「……分かってるって、まさか……」
「さあ、行きましょう」
踵を返した花生は、一層足を早めた。
花生が再び足を止めたのは、一軒の宿屋の前だった。見るだけで心が凍りつく。ここで杜叡は栄華と地獄を見たのだ。
「花生、どうしてここを」
固い声で問う杜叡に、花生は「覚悟はできているんでしょう?」と言って婉然と笑う。そうして軽やかに身を返すと、「ちょっとごめんなさいね」と中へ入っていってしまった。
後に続こうとしたものの、足が竦む。とにかくはと俯きがちの顔をぐっとあげ、自分が滞在していただろう部屋の窓を見上げたとき、杜叡は違和感を覚えた。杜叡の部屋だけでなく、あらゆる部屋の窓が、まるで春の賑わいを拒むかのように固く閉じられていたからだ。よく見れば、入り口さえ半分閉じられている。更に見れば、毎日掃き清められていたはずの店先には塵がたまり、看板も煤けていた。小奇麗な宿だったはずだが、随分と廃れた雰囲気を醸し出している。
一体どうしたことだろう――不可解さは、嫌悪感に勝った。花生のことも気になる。杜叡は心を決めて、中へと足を踏み入れた。
杜叡が中へ入ると、まるで人気のない屋内はやはり寂れた様子である。そこへ奥から宿の主人が出てきた。それは確かにあの主人であったが、あの恰幅のよさはどこへやら、あたかも病人であるかのようなやつれようで、足取りも重い。
だがその主人が、杜叡の姿を見るやいなや一転、飛び上がるように身体を換え、文字通り踊りかかってきた。突然のことに避けようもないまま、杜叡は襟を締め上げられた。
「お前、お前か! お前、お前一体何てことをしてくれたんだ! 娘を元に戻せ!」
「な、んのことで――」
襟を締め付けられながらも、ようやく声を絞り出す杜叡だったが、「いててててっ! 何をする!」という悲鳴とともに、いきなり突き放され、地に転がった。止まっていた呼吸を取り戻そうと息を忙しく継ぎながら見上げると、花生が主人の右腕を捻り上げていた。
「それはこちらの台詞ですわ。行き所のない人を身包み剥いで追い出しておいて、今度はいきなり掴みかかってくるなんて、どういうおつもりなのかしら?」
「何で知って――いや、見ず知らずの、無一文のヤツを置いとけるほど、うちは裕福じゃないんでね! 宿代を払えないって言うなら、品物でいただいて、何が悪いってんだ!」
「まあ。そんなにがめついくせに、一見の客から、全く宿代も取らずに半月も置いておいたんですか? そんな馬鹿なこと。宿代を先にいただくのが常識でございましょう?」
「そ……それは、もらってはいたさ。でも足りなかったんだ!」
「あら。有り金全部取って、衣装まで剥いで、挙句彼の足である驢馬まで奪い取るくらいに足りなかったと? 一体どんな豪勢なお宿なのかしら。そうは見えないけれどね。何でしたら、出るところに出てきっちり話をつけますか?」
うっ……と言葉に詰まる主人。花生は畳み掛けるように、
「田舎育ちで世間知らずの坊ちゃんを騙しただけでしょ? 彼が死のうと生きようと、どうなろうと知ったことじゃないってね。なら、そちらのお嬢様が死に掛けるのも道理よね」
花生の言葉に、主人の表情が凍りついた。
「どうして分かる? お前、占師か?」
「まあ、そのようなものですわ」
花生は嫣然と微笑んだ。すると主人は花生の足に縋りつくように跪き、
「頼む! 娘を助けてくれ! このままでは本当に死んでしまう!」
涙を流しながら、何度も何度も地に頭を打ち付けた。割れてしまうのではと思うほどに。
「ですって、どうします? 貴方」
二人のやり取りを、呆然とただ眺めていた杜叡に、振り向いた花生が訊いてくる。どこか楽しげに。と、いきなり足に主人がしがみついてきた。
「頼む、娘を助けてくれ。老いてやっと授かった、大事な一人娘なんだ!」
主人はそう言うと、身を引こうとする杜叡にはお構いなしで、おいおいと泣き始めるのだった。
それから。
ようよう落ち着いた主人に、花生と共に奥へと導かれる。
進むほどに、宿の廃れ具合がいっそう強くなった。客もなく、ただどんよりとした気が辺りを覆っている。立ち止まった花生が辺りをぐるりと見回し、「宜しくないわねえ」とまるで歌うように言った。釣られるように足を止めた主人は、情けない声をあげ、
「どうしたら元のようになるでしょうか。幾らでもお支払いしますから、どうか……」
「どうもこうも」
花生は呆れたように鼻で笑うと、
「元通りにしたければ、そちらも元通りにしないと。当たり前の話じゃない。ねえ?」
そう言って、花生は隣の杜叡を振り返った。主人も彼女の目線を追い、杜叡をしばし凝視する。そしていきなり駆け出した。
ほどなくして、杜叡の前に、見慣れた上衣と褌子、財布が集められた。「驢馬は店先に繋いであります」そう声を震わせたのは、主人の妻である。だが、
「あら、足りないわ」
にべもなく花生が言った。その一言に、足元で跪いている夫婦はピクリと身体を弾かせ、お互いを責めるように見合う。だが両者とも首を振り合い、そこで主人が言う。
「そのようなことは。そちらさまから、お預かりしたものはこれで全てでございます」
「そんなはずはないわ。他に白玉の腕輪があるはず」
「花生、どうしてそれを――」
杜叡の言葉は、主人の恫喝めいた声に遮られた。
「あれはお前が……、いや、あなたさまが娘に差し上げたものでしょう? それを今さら返せなどとは」
「あら、おとぼけになって。娘が彼から強引に奪い取ったのを知らないわけはないでしょう? ほらあの、身体だけは立派な下男を使って。今はご病気のようだけれど」
「そんなことまで……」
絶句する夫妻に、花生は軽やかに笑いかけ、
「ええ、ですから隠し事は無駄ですのよ。話題のお嬢様はどちら? この上かしらね」
そう言うと、花生は傍らのするすると階段を上がっていく。慌てて三人は後に従う。
上に上がると、夫妻が先立って小走りに進み、突き当りの部屋の扉を開ける。ほどなく「ほら早く、腕を出せ」「イヤよ!」という父娘が争う声が聞こえてきた。
その声に、笑顔で自分の世話を焼いていた彼女と、小馬鹿にした表情で腕輪を取り上げた彼女を思い出し、杜叡の胸がぎゅっと詰まる。
「もう、仕方ないわねえ」花生のあの、甘い呟きが聞こえた。
「ちょっと、ごめんなさいね」
花生がそう言って部屋に入るのに杜叡も続いた。そこには目を疑うほど、別人のように痩せこけた娘が床台で身を起こし、こちらに血走った目を向けていた。
そして夫妻が押さえつけた娘の、袖がまくりあがった右手を見て、杜叡は言葉を失った。
細い娘の手首に、あの腕輪が食い込んでいたのだ。健康的な肌色だった娘の腕はどす黒い紫色に変色しており、もはや人のものとは思えなかった。
「あらあら、悪行の報いって恐ろしいわね。このままだとその腕は落ちちゃうわね。落ちた腕を切って、その腕輪を返してもらってもよろしいのだけれど。どうしましょうか?」
花生の言うことに、夫婦は揃って顔を青ざめ、
「どうぞそればかりは。これから嫁ぐ娘です。ご容赦を!」
「さあ早く、お詫びしてお返しするんだよ!」
「イヤよ、これは私のモノなんだから。絶対渡さないわ!」
言った娘が、この世ならぬ悲鳴を上げた。
腕輪が、ぎりぎりとその手首を締め上げるのが誰の目にも確かに映った。
夫は獣のように吠え、妻は卒倒する。娘の腕は千切れんばかりに締め上げられ、痛みからか遮二無二暴れた娘は、床台から転げ落ちた。落ちてなお、もんどり打って苦しみ、どこから発しているのか分からない声を上げ続けた喉は嗄れ、息も絶え絶えである。
「か、返す、返すーっ!」
しゃがれた声がそう絞り出されたとたん、その腕から、ポロリと腕輪が落ちた。
それは床をころころと転がり、一直線に花生へと向かう。
花生はそれを、まるで舞うように拾いあげると、
「あらやだ。悪い気を吸ってしまったのかしらね、少しくすんでるわ。一度、清めないといけないわね」
花生はそう言って腕輪を自分の手にかけると、
「さあ行きましょうか、貴方」
それは柔らかく笑う彼女の背後では、親子三人が恐怖と驚愕を顔に滲ませながら重なり合って倒れている。
杜叡は、黙って頷いた。
「せっかく外に出てきたんですもの。嫌な気を祓う為に、少し歩きましょう」
そう花生に連れて行かれたのは、京城の東南部にある「楽遊原」と呼ばれる台地であった。京城城内で最も地勢が高く、皇女が別邸を構えて以来、大変賑やかな行楽地となった。
息を切らしながらようやく高台に登った杜叡は、何度か深呼吸した後、来た道を振り返った。随分と登ってきていた。額の汗を拭いながら、
「京城って、本当に碁盤みたいな街なんだね」
城壁で矩形に区切られた城内を縦横に走る大路が区画する京城は、まさに碁盤といえる。碁盤の目にあたるのは、坊。高さ一丈ほどの土壁に囲まれた内部を小路がやはり縦横に走る。坊内を折り重なるように埋める瑠璃や黒の屋根が、天上の日を集めてキラリとしていた。人々はその屋根の下、さらにほんの一部の空間に居るのだ。
「いい風ね」
花生の言葉どおり、初夏を思わせる爽快な風が吹き渡っていた。杜叡は何度も深呼吸をして、清爽な気を取り込み、胸の澱みを吐き出す。
ようやく心が落ち着き、眼下を望む。
百歩もの幅のある朱雀大路には、小さなものが蠢いていた。あの大路を意気揚々と歩いた自分も、ボロボロになりながら歩いた自分も、ここからみたら何なのか分からないくらいの、塵芥のようなものでしかない。その小さきものの心の内など、なんて――。
「よく見えるでしょう? ここは節句になると人々が殺到するの。京城を一望しながら大宴会よ。ほら北を見て。真ん中に大きな屋根が並んでる広い空間があるでしょう? あそこが皇帝のお座します宮城よ。その南にあるのが官公庁街の皇城」
花生は、風に後れ毛を躍らせながらも涼やかな顔をしていた。汗一つかかず、まるで近所を歩いてきたというような余裕のある様子だった。彼女からは牡丹の高貴な香りがした。
「あれが? すごいな、ここから見ても凄く大きいね。瓦の照り返しが眩しいくらいだ」
そう目を細めていた杜叡が、ふと気付いたように左へと目をむける。すると南側の坊は建物が密集する他と違い、内部が閑散としていた。このころ京城の人口は百万を数えたが、それでもこの広い城内を埋めるには足りなかったのだ。皇城や、繁華街である東西の市に遠いこともあって、南の坊は余り人が住まなくなり、次第に荒廃した。中には犯罪者が隠れ住んだり、無縁仏が葬られたりする坊もあるそうで、ますます人は遠ざかったと聞く。
「僕らがいる坊は、明徳門の……」
言いながら、陽光を避けようと目元に手を翳した杜叡が視線を定めると、花生が袖を引いた。「ここは暑いわ。少しあの木陰で休みましょう」
そちらに目を向けると、台地に点在する中でもひときわ大きい楡の木があった。人々が座ったり、水を飲んだりと思い思いに休む様子が見える。杜叡は頷き、二人は歩き出した。
そのとき。
「おやまあ見事な牡丹だこと。しかも生花じゃないか。大慈恩寺の牡丹も散ったっていうのに、姐さん、それどこで手に入れたんだい?」
恰幅のいい女性が、突然花生にそう声をかけてきた。「いやまあ」などと言いながら驚きを隠せないように無遠慮に、自分の髪をしげしげと眺める初老の女に、花生は笑いかけ、
「実は新種なの。来年あたり売り出そうと思っているのだけれど、よろしければいかが?」
「新種! いやいや、そんな金はあたしにはないね。いや貴重なモンを見せてもらったわ」
拝みながら彼女は去っていった。杜叡は笑いながら、
「新種なんだ、それ」
訊いた。すると花生もやはり笑って、
「まさか」
その後二人は、西市で珍しいものを眺め、寺院の境内で行われている剣舞などを楽しみ、存分に外を楽しんでから帰宅した。
『延祚坊』の門をくぐったとき、高かった日は、西に傾きかけていた。家に戻り、花生に言われたとおり着替えを済ませた杜叡は、庭に出た。
目指したのは白牡丹。相変わらず花片一枚落とさず見事に咲く大輪の花たち、しかしもう、そこに『唯一花王』の姿はない。ただ手折られた枝先が残るだけだ。だからなのか、残りの牡丹はどこか精彩を欠いているようにもみえる。痛ましささえ感じるほどだ。
散ることのないこの花を、日ごと数が減るこの花を、恐ろしいと思っていた。この平和すぎる毎日も。だけど金も驢馬も戻り、ここに居る意味が薄れた今、もっと恐ろしいのは――。
「本当、貴方はその花が好きねえ」
いつの間にか花生が背後に立っていた。もう驚きはなかった。
「今日は色々あって疲れたでしょう? まだ早いけど食事を用意したわ。お酒もあるから、ゆっくり楽しみましょ」
言われるまま連れて行かれた。食卓には杜叡の好きな料理が所狭しと並んでいた。帰ってきてまだ間がないのに……とチラリと思ったものの、もう驚かなかった。
勧められるまま美食に舌鼓を打ち、注がれるまま竹葉青を飲む。やがて花生がいい声で歌いだし、杜叡はうっとりと耳を傾けた。いい気持ちだった。そっと目を閉じる。色々なことが目の裏を過ぎって行った。
楽遊源から見た明徳門近くのこの坊は、剥き出しの柱が何本か見えるだけで一面の緑だった。
大慈恩寺の牡丹、京城一遅咲きのそれが終わると、牡丹鑑賞は来年の楽しみとなると聞いた。
「まさか」笑った花生の顔は、本当に美しかった――。
自分に背を預ける花生の爪弾く琵琶に酔いしれながら、杜叡は肩越し振り返り、
「ねえ花生」
「なあに?」
花生は手を止め、こちらを振り返った。
「僕、あの金を元手に、何か始めようかと思うんだ」
「あら、あれは貴方のものじゃないじゃない。親のものでしょう?」
「そうだけどさ、僕の始末代のつもりだったわけじゃない? だったらそれをどう使ってもいいってことだろ。後で倍にして返してやるって」
「大きく出たわねえ」
花生は声を上げて笑う。
杜叡はいつしか花生の膝を枕にしていた。花生の手が、額の産毛をそっと撫でる冷ややかさを心地よく感じながら、
「地方にはさ、金の使いどころがない連中がいっぱいいるからさ、西市で西域のものとか、物珍しいものを手に入れて持っていけば、喜んで買ってくれるよ。御用聞きみたいなことするのもありだな。見ててよ、すぐに軌道に乗せてみせるから。これでも一時は跡取り息子だったんだぜ? しっかり稼いで、世話になった分、きちんと返して見せるから。今のうち欲しいものがあったら考えておいてよ」
「あら頼もしいこと。さあ、どうしようかしら……」
思案顔には嬉しさが滲んでいて、杜叡も嬉しい。そしてしみじみ思う。もう何を守れない情けない自分ではいたくないと。だがその反面、自分の数々の発言が、ただ大言壮語で終わることもどこかで知っていた。でもそれでいいと思う。
目を閉じると、昼間見た風景が鮮やかに浮かぶ。楽遊源からみた明徳門近くのこの坊は、ところどころ土が見えるだけで、あとは一面の緑だった。そういう、ことなのだ。
細い指が、額の髪を撫で付ける。ひんやりと優しいこの感触は、心を落ち着かせる。
「なんだか楽しそうね」
いつしか閉じていた目を開けると、花生が優しい目をして彼を見下ろしていた。
「それはそうだよ。これだけ満たされて、今の僕には他に何にも望むものがない。これ以上のことがあるだろうか」
そう言って、杜叡は再び目を閉じた。
心優しいと思っていた宿の主人と娘の仕打ちを、「宿代を踏み倒したのだから仕方ない」とは思いながらも、「何もそこまでしなくても」とも思ったことも、また事実。「憎い」・「この手で殺したい」とまで思っていたのに、今日、彼らの「狡猾さ」と「非情」を目の当たりにしたにもかかわらず、悲しくも腹立たしくもなかった。ただ、「なるほど、そういうことだったのか」と合点した自分がいただけ。
思えば、京城に来てありとあらゆる人から見放され、何一つ持たない僕は、悲惨な末路を迎えるしかなかったはずだ。だのに僕が今こうして、心安らかに生きているのは、彼女がここに僕を呼び寄せてくれたからだ。彼女が、枯れた僕を満たしてくれたおかげで、僕は今、こうしている。一体他の誰が、これだけのことをしてくれるだろう。ならば……。
額にひんやりとしたものを感じて目を開けたとき、杜叡はいつしか床台に横たわっていた。花生が床台に座り、彼を見下ろしながら、先ほどと同じようにその白い指で何度も何度も彼の髪を梳いている。
「仕方のない子ねえ。本当に甘ったれなんだから」
甘やかな声。なんて心地いい響きなんだろう。杜叡は夢見心地で答えた。
「そうかな?」
「そうよ。いつまでもそれじゃあ、いけないわ」
「大丈夫だよ。これからは僕が、花生の面倒を見るから」
返答の代わりに、衾がふわりと持ち上がった。細身が寄り添うのを感じながら、杜叡は再び目を閉じる。
無慈悲な継母を見返したい、実母に恥じない生き方をしたい、何より、一人の男としてきちんと身を立てたいと思い続けてきた。だけどふと、その一切が意味のないことだと思うことがあった。何にも固執せず、自分を取り巻く何もかもから身を引きたいと。そんな自分を叱咤したこともあるが、そうまでして無理に維持しなければならない思いを抱えることこそが不自然なのではないか。ただ気の向くままに、自然のままでいたい。
だから、詐欺でも地獄への使者でも男の気を吸い尽くす精でももう何でも構わない。今後どうなろうと知ったことではない。
頬を優しく撫でる花生の手をとる。「相変わらず、冷たい手だね……」言いながら杜叡は、温もりを分けるようにその指先を握りしめた。冷ややかな手。だけどこれ以上に優しい手を、自分は知らない。いまさら、花生なしで生きるなんて、とても考えられない。ならば、彼女にどうされようと、僕は喜んで受け入れるだろう。それを彼女が望むならば。
こんな気持ちを、僕は今まで知らなかった。だからもう――充分だ。
「花生、ありがとう」
次第に意識が遠ざかっていくなかで、杜叡は自分が温かく、柔らかい何かに包まれていることを感じた。そうして耳に流れる、少し低めの甘やかな声。
――歌っている……。
頬に冷たいものを感じて、目が覚めた。
そこには緑があった。驚いて身動ぎした杜叡の体が軋む。覚えのない硬さを感じて下を見ると、そこは石だった。起き上がって仰ぐと、何にも遮られない青空が見えた。振り返った背後には、剥き出しの柱が数本。あの廃寺だった。柱に繋がれた驢馬が、あくびをするように鳴いた。彼は宿で剥ぎ取られた衣装を着ていて、手首には白玉がかかっている。懐は銭で重かった。
立ち上がって辺りを見回しても、この廃寺以外に建物は見つけられない。
「そんな……」
杜叡は口中に呟き、その場に立ち尽くした。しばし呆然と辺りを見回していたが、突如基壇を飛び降り、叢に飛び込んだ。腰まである草を掻き分けてあちこちを歩く。だが家どころか小さな建物一つ、見つけることはできなかった。
汗ばんだ額には、あの冷ややかな指が何度も撫でた感触が残っている。震える指でその軌跡を辿ると、微かに高貴な香りが立った。
「夢だ……」
そうとしか思えなかった。目を覚まさなければと、石壇に駆け上がり、再び身を横たえた。次に目を開けるときにはきっと――。だが、それは長い時間ではなかった。頭上から照りつける陽光が強すぎて、とても眠れなかったのだ。日差しには夏が色濃く滲んでいた。
再び起き上がった杜叡が目を巡らせると、映るのは、一面の緑。ところどころに点在する土盛りである。建物どころか人気さえなかった。
杜叡は驢馬を引き、坊を出た。当てもなく歩いていると、前から威勢のいい声を上げて、振り売りの男が歩いてきた。とたんに腹の虫が鳴る。杜叡は男を呼び止めた。
男が売っていたのは餅を見て、杜叡は驚いた。この形、匂い……間違いなく杜叡が好んで食べた餅だったからだ。彼は男に銭を渡し餅を受け取ると、その場でかぶりついた。やっぱりそうだ。あの味だ。
気がつくと、男は杜叡から受け取った銭を日に翳しながらためつすがめつしている。だけでなく、銅銭に歯を立てた。
「何をしてる?」不思議に思って、杜叡は訊いた。
すると男は、
「いえね。夕べ家で売り上げを勘定してたら、驚いたことに紙銭が混ざっていたもんだから。これまで受け取ったのは全部ちゃんとした銭だったのにさあ。全く困ったもんだよ」
紙銭とは紙を銅銭形に切ったもので、死者を埋蔵する際に同葬するものである。
「最近さ、やたらいい女が毎日買いに来てたんだよなあ。時期外れの白い牡丹を簪にしてね。『新種だ』って言ってたけど、それにしても今時分までねえ……考えてみたらヘンな話だったんだけどサ。これがまたいい香りがしたんだよなあ。しかも他にも通ってた店があったみたいで、あちこちで紙銭が出たと騒いでるよ。あれは鬼だったのかねえって、みんな話してるよ。おっ、旦那食いっぷりいいね。もう一つどうだい?」
男に同じく紙銭が出たという店を聞き、杜叡はそこへ向かった。するとどの店も、彼が好んだ料理や茶、竹葉青を出すところだった。彼らは口々に言った。
「いつも決まった量を買いに来てたねえ。ちょっと低めの声が色っぽくてさ。しかし何でまた、饅頭なんか……。子供でも育てていたのかねえ」
「ウチの常連さんがさ、店先であの女を見初めて、この間こっそり後をつけたんだと。そしたら明徳門の手前あたりでフッと姿が見えなくなったとか。あそこらへんの坊は地方から来た身寄りのない人たちが葬られてるっていうからなあ。常連さんは寝込んじまったよ」
茫然と、杜叡は最後の酒旗を出た。のっそりと店先に繋いだ驢馬の手綱を解いていると、
「少爺、少爺じゃありませんか!」
振り返ると、家人の威が、転がるように駆け寄ってきた。幼馴染でもある彼は涙を浮かべ、
「少爺が京城で行方不明になったって老頭さんが……。『京城は生き馬の目を抜くところだから、もはや生きては居ないよ』と奥様は言うんですが、俺、どうしても信じられなくて。仕入れに来る度、お探ししてました。本当によかった。大爺も喜びます。少爺が居なくなってから、ますます具合を悪くされてるんです。早く帰って元気な姿をお見せしなければ」
「――帰る?」
「ええ、家に。皆待ってますから」
瞼の裏に、浮かぶ風景があった。あの部屋の調度品も、庭に咲く花も、そこに佇む女主人も、一つとして漏らさず絵に描けるほど確かに覚えているのに。確かに昨日まで、僕はそこに居たのに。
「少爺、どうされたんです? どこか痛むんですか!」
威が慌てふためいている。行き交う人々が怪訝な顔をし、哂う。だが知らず頬を伝う涙を止めることはできない。威は涙ぐみ、
「お気の毒に……さぞや辛い目に遭われたんですね。でももう大丈夫ですから、うわっ」
一陣の風が吹いた。春の黄砂が立ち昇り、辺りが黄土色に煙る。誰もが砂塵を避けようと目を閉じ、口を閉じる。そんなときだった。
嗅ぎ慣れた高貴な香りが強く立った。
「覚悟しないとね」
聞き慣れた甘い声が耳の奥に響いた。
だけど風が止み、杜叡がゆっくりと目を開いたときに、見慣れたその姿は、ない。
「ひどい黄砂だな、参りますよね。さあ、少爺。行きましょう」
「うん」
――そうだね。
杜叡の姿を見た家中皆が驚き、また大いに喜んだ。継母と老頭を除いては。
「まあ、お前、無事だったんだね。そうかい。無事で、ねえ……」
病床の父を見舞いに行くと、そこには継母が居た。彼女が悔しさを隠そうともせずに杜叡に声をかけたとき、彼は静かに言った。
「継母上、堂按寺の男は変わらず息災ですか?」
その言葉に、継母はたちまち顔色を失う。
「堂按寺? あの、隣村にある子宝寺のことか? 確かにそこで祈祷してもらったおかげで弟を授かったが……。その男とは、どういうことだ?」
怪訝な顔をする父に、杜叡は、
「昨夜、そちらで宿を借りたのです。毎月三と五のつく日にそこで祈祷をする僧が、義弟と同じ顔をしていますよ。威も見ております」
父は驚き、すぐさま威を呼び出した。彼は継母に遠慮を見せながらも、きっぱりと杜叡の言を認める。二つの証言を得た夫の詰問に、妻は無言を貫いた。それが、答えだった。
立腹した父は彼女を離れに閉じ込め、翌日の五日に寺に家人を行かせた。半ば強引に連れて来させた男は、杜叡たちの言うとおり、嫡子であるはずの次男と瓜二つ。もはや言い逃れのできない事実であるのは、誰の目にも明らかだった。
継母はすぐさま離縁を言い渡され、僅かな荷物と弟と共に家を追われた。
家を去るとき、継母は杜叡に激しく掴みかかり、
「お前! お前のせいで私は散々苦しめられてきたのに――この恩知らずめが。あげく幼い弟にまで辛酸を舐めさせるのか。人でなしめ、恥を知れ!」
そう叫んだが、杜叡はゆっくりとその手を解き、冷ややかに笑うだけだった。
継母が去ると、父はたちまち快復した。継母が手配していた薬師は堂按寺の者だった。継母が去ったあと新たに手配された薬師が、これまでの処方を見て驚愕し言うには、「なんということだ。これは健やかなる人から生気を奪うもの。毒ではないか」と。薬を換えた父は見る間に回復した。治癒した父は元気に働きだし、杜叡はそれを手伝う。老頭はいつの間にか姿を消した。
「老頭はあの女に京城でお前を殺すように言われたらしい。そればかりはできぬとお前を置き去りにして、行方知れずとしたらしいが……。長年置いてやったのに、なんと情のない。おまけにワシまで殺して、店を乗っ取ろうなどとは。お前の母は、優しい女だったのになあ」
継母が去り、杜叡は父と初めて差し向かいで酒を飲んだ。そこで初めて母のことを聞いた。そこで、初めて知ることとなる。実母が産後すぐに亡くなったというのがウソだったということに。口減らしでこの家に奉公に来ていたという母は、正妻の悋気に触れて彼を産んですぐ実家に帰されたが、その後すぐに京城の妓楼に売られたという。ほどなく母の実家も離散したため、その後のことは分からないという。
「見目もいい女だったから、それなりの男に身請けされたのだろう」
父がしみじみと言うのを、杜叡は黙って聞いていた。そしてふと思い出したように、
「……あの白玉の腕輪は――」
言いかけると、父が「何だって?」と訊き返してきた。杜叡はゆるく首を振り、ただ「いいえ、何も」とだけ答え、うっすらと笑った。
やがて父が亡くなり、杜叡が後を継いだ。彼は冷徹に、時に冷淡に店を切り盛りし、そこそこ店を繁盛させた。
若主人のやり手ぶりに、家人たちは驚嘆と畏怖の溜息を漏らしながら、
「昔は、騙されないか心配になるほど人が好かったのにねえ……」
「ちょっと優柔不断で頼りない感じだったが、今は、なあ」
「帰ってきてから、人が変わったわよね。よっぽど京城でお辛い目に遭ったんでしょうねえ」
「確かに、いつもなら強く自分の意見を推したりしないのに、あの日は違ったんだよな。急げは夜には家に着くからと何度も言ったのに、少爺、いや大爺は『どうしてもここに泊まる』って強引に堂按寺に上がりこんだんだよな。今にして思うと、『見えていた』としか思えない。あの紙銭のせいだろうなあ」
立派な口髭をしごきながら、今や家宰となった威は言う。すると隣の男が怪訝な顔で、
「何のせいだって?」
「いや、あの、京城のせいだろうなと」
京城で杜叡を見つけたとき、彼は酒楼から出てきたところだった。再会に涙した主人はいざ出発という段になって酒楼に舞い戻り、何故か紙銭を買い取ってきた。理由は教えてくれなかった。それを大事そうに懐に入れた主人が道中、胸に手を宛てる姿を何度も見た。時折、「大丈夫だよ」と誰かに聞かせるかのように唱えていることもあった。一人佇み瞑目するその姿は、まるで何かに祈りを捧げているかのようだった。
そんな主人は、家に帰るとすぐ庭に白牡丹を植えた。その根とともに紙銭を埋めているのを威は確かに見た。それから――主人はどんなに忙しくても手ずから水を遣り、剪定をし、翌年の春には見事な大輪の花を咲かせたのだ。
その頃からだろうか、彼が左腕で鈍く光る腕輪を触らなくなったのは。あれだけ涙もろかったのに、決して涙を見せなくなったのは。いたいけさ、というものが主人から失せた今、若い頃は平気で口にしていた「弟のようなものだから」という台詞を、もはや軽々しく言うことはできない。
「今年もまた随分立派に咲いたよなあ、白牡丹。あれだけの腕があるなら紅紫の牡丹を育てればいいのに。きっと良い値で売れるだろうに……もったいない」
「そうだよねえ。いつもなら損得に厳しいのに、それだけはいくら勧めても頑として聞き入れないんだよねえ」
はあ、と家人たちが揃って溜息をついたとき、背後からつい先日店にやってきた新顔が、
「大爺はお出かけでしょうか? 店も家もお探ししたんですけど、いらっしゃらなくて」
あちこちを見渡しながら、こちらへと近づいてきた。
「ああそれなら」家人たちは声を揃える。
「庭に行ってみるといい。姿が見えないときは、まず庭に行かないと」
果たして杜叡は庭にいた。そこでは、普段は見ることのない優しい表情で白牡丹を愛でる彼を見つけることができたという。
(終)