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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第二章
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  春の訪れ3

 シナリオ通りなのに、ちっとも嬉しくない……。


 ヘンリーはつまらなそうに、通りに面したカフェのテーブルに新聞を置いた。


「ロレンツォ、月曜日にグラスフィールド社以外の空売りをいったん全部買い戻せ」

「なんだ、もう終わりか? 潰れたのはマーレイじゃないぞ」


 卓上に置かれたフィナンシャル・タイムズの一面トップには、『米投資銀行ポーラーズ社破綻』の文字がでかでかと印刷されている。

 新聞の内容はよく知っていたので、ロレンツォは納得いかない面持ちで眉根をしかめた。


「終わりの始まりだよ」

 ヘンリーはテーブルを指先で小刻みに叩きながら、淡々と説明を始めた。

「だけど、まずは米政府が救済処置を出してくる。これでいったん、市場は落ち着くよ。株価は反発する。七、八月にもう一度全力で戻りを叩く」

 ロレンツォはますます訳が判らないといったふうに、畳みかけて訊ねた。

「根拠は?」

「7月の銀行の第二・四半期決算前には売り直したい。間違いなく巨額損失を出してくる。住宅市場の崩壊が実体経済に波及するまでには時差があるんだ。今はまだ前奏曲、本編は夏以降だ。うちのコズモスがはじき出した数字は八月だ。コズモスは決して間違わないよ」


 説明は理に適っている。ロレンツォはそれ以上何も問わず、黙ったままヘンリーをじっと眺めた。

 彼は、いつもと変わらずロレンツォには目もくれない。優雅にティーカップを口に運び、退屈そうに通りを行き交う人の流れを眺めている。

 傍からみたら、こんな生々しい話をしているとはとても思えない静寂が、二人のテーブルを覆っていた。



 ロレンツォが知っているだけでヘンリーの行った株取引には、すでに一億ポンド以上の利益が乗っているはずだ。


 これだけの成功を収めているのに、何だってこんなにつまらなそうな顔をしているのだ? と、ロレンツォは我慢しきれず、納得のいかない奇異な疑問をヘンリーにぶつけた。


「英国貴族は金儲けが嫌いなのか?」

「そんなことはないよ。うちはもともと商家だしね。ただね、米国だけじゃなく欧州という木箱の中の林檎が、ポーラーズ社という腐った林檎一つ取り除いて、自分たちは違うとばかりに装っているのが滑稽でね。どいつもこいつも、いくら表面を磨いてみせても芯は腐りきっているくせにってね」


 ヘンリーは、テーブルに飾られたラッパ水仙の花びらを、指先でそっと撫でている。


「ゲームが楽しいのも始めた時だけだな。どの林檎も、もう取り除かれるのを待つだけ。腐っていくさまを眺めて楽しむほど、僕は酔狂じゃないんだ」


 おもむろに顔をあげ、彼はロレンツォを一瞥する。そして、「ああ、失礼。きみも同じ金融屋だったね」、と口の端を上げて皮肉に嗤った。



「アスカ!」

 だがロレンツォは、そんなヘンリーをとおり超え、道一つ向こうを行く飛鳥を大声で呼び止めた。振り返った飛鳥とウィリアム・マーカスに、こちらへ来るように合図を送る。


 道を渡ってきた二人に休んで行けと促した時、ウィリアムが、ヘンリーにちらりと視線を送ったのをロレンツォは見逃さない。


「どうぞ」

 ヘンリーは傍らの椅子を引いて、二人に座るように勧めている。


 ヘンリーのフットマン……。

 こいつのせいで、随分と出遅れてしまった。アデル・マーレイの件にしろ、飛鳥の扱いにしろ、余りにも鮮やかにこなしてくる。


 ロレンツォは冷ややかにウィリアムを睨め付け、尊大な口調で聞いた。


「お前、ヘンリーの親戚かなにか?」 

「いいえ」

 ウィリアムは、柔らかく微笑んだまま首を振る。

「その瞳、ソールスベリーの家系のものだ」

「偶然ですよ」

「僕も、最初驚いたよ」

 ヘンリーも素知らぬ顔をして否定してくる。


 きょとんとしている飛鳥に気づき、ヘンリーは軽く肩をすくめて説明する。

「ソールスベリー家の当主は、代々ウィリアムみたいな明るい黄緑の瞳なんだよ。僕は久々の異端なんだ。残念なことに母親似でね」

「へぇ、どこの家が何色の瞳とか、そんなことまで知られているの?」


 飛鳥は驚いたようにヘンリーと、ウィリアムを見比べる。


「うちは特徴的だからね」

「ヘンリーの瞳の色もかなり珍しいと思うけどなぁ」

「米国の親族は、皆、この瞳だ」

 ヘンリーは自嘲的に唇を歪めていた。


「そういえば、コンサートに来ていた妹さんもそうだったね」

「妹? 妹が来ていたのか?」

 怪訝そうな顔をするロレンツォに、飛鳥は「ほら、きみの前にヘンリーに花束を渡していた子。ヘンリーにそっくりな」、と説明する。


「あー、なんとなく覚えている。似ていたか? 全然違ったぞ。いくら兄妹でも、こいつみたいなのがそうそういる訳ないじゃないか」

 ロレンツォが大真面目な顔で言うので、みんなして笑い出した。



 確かに、ヘンリーみたいな人が二人といるとは思えない。存在感が違う。纏う空気が違う。モノクロの世界の中で、彼だけが色が付いているみたいに人を惹きつける。



 飛鳥は、テーブルに置かれた新聞にふと目を止めた。


 ポーラーズ社破綻……。世界は今混乱の最中なのに、ここは時間が止まっているみたいだ……。

 日本は、お父さんたちは大丈夫なんだろうか? 裁判は、進んでいるのかな……。


 信頼できる友人たちとテーブルを囲みながらも、飛鳥は、カフェテラスを吹き抜けていく未だ冷たさの残る春の風に、心を揺さぶられ不安を巻き戻されていくような気がしていた。





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