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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第二章
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  波乱の幕開け8

 ヘンリーのロンドンのアパートメントに招待された。飛鳥は困りはて、断る理由をいろいろと探している。

「でもきみ、いつもマナー・ハウスに帰るんじゃ? それにもう大丈夫だよ。頭痛も収まったし、めまいも起こさなくなったし」

「きみは、絶対安静って単語を知らないみたいだからね。僕が傍にいて教えてあげるよ」

 ヘンリーは有無を言わさぬ態度で、ぴしゃりと言った。

「エドやデイヴも来るから、気楽に遊びに行くくらいに考えてくれたらいいんだ。それとも僕の方からラザフォード家に、きみを絶対安静にさせるように、よく頼んでおく方がいいのかな?」


 ハーフタームの間、寮は閉鎖されるのだから、どちらにせよ誰かの家に行き、世話にならなければならない。事情を知らないアーネストたちに心配をかけるよりは……。

 飛鳥は渋々ヘンリーの申し出を受けることにした。選べるほどの選択肢など、初めからそれほどないことに思い至ったのだ。ラザフォード家か、ヘンリーか、あるいはロレンツォ……。

 さすがに幾らか親しさは増してきたとは言え、ロレンツォの家に世話になる、という選択肢は飛鳥にはなかった。それならまだヘンリーの方がマシだ。ヘンリーは、ロンドンの自宅は別荘のようなもので、家族の団欒を邪魔する訳ではない、そう飛鳥に説明したからだ。飛鳥は過剰に心配され、友人の家族に世話をかけてしまうことが、何よりも嫌だった。



「ロレンツォも家に招待してくれているんだよ。ロンドンで会えるかな?」

「きみは絶対安静、外出禁止だよ。だけどきみが望むのなら、ルベリーニを招待してもかまわないよ」

「ありがとう、ヘンリー」


 ヘンリーの柔らかな口調とは裏腹に、彼とロレンツォの間の寒々とした関係は相変わらずらしい。見舞いに来てくれたロレンツォが、いつものように愚痴っていた。ヘンリーを見ている限りは、そんなふうに見えないのに。


 飛鳥は物憂げに苦笑する。みんな、放っておいてくれればいいのに、と、そうは思っていても口に出すことは出来なかった。困っている相手に手を差し伸べる。これも彼らの、紳士のたしなみ(ジェントルマンシップ)の内だからだ、と。


 


 




 一歩足を踏み入れたロンドンのナイツブリッジにあるヘンリーのアパートメントは、ヴィクトリア朝の外観からは思いもかけない、洗練された白とセピア色を基調にしたモダンなインテリアの内装だった。その室内装飾に、飛鳥は何故かほっとしている。だがそんな彼の様子に、ヘンリーは怪訝そうに目を細めている。



「やっと現代に戻ってこられた気分だよ。ウイスタンにいる間は、ずっと中世の時代に迷い込んでいるようだったから。それにきみは、お城に住んでいるのかと思っていたよ」

「城はこんな街中じゃなくて、領地にあるに決まっているだろう!」

 ヘンリーの視線に言い訳するように応えた飛鳥に、エドワードが大笑いしながら口を挟んだ。ヘンリーは、それも無視して飛鳥の肩を叩いた。

「きみの部屋に案内するよ。しばらく休むといい」





 案内されたのは、やはり白い壁にセピア色のベッドの置かれたシンプルな部屋で、机も椅子も垢抜けた北欧家具だ。


 ヘンリーの家って感じがしないな。でも、生活感がないところは、やっぱり彼らしい……。


 飛鳥は、ベッドに身を投げ出すとそのまま目を瞑る。


 寮にいる時よりもほっとする。ヘンリーの領域(テリトリー)だ、ってだけで安心できる……。僕は随分と弱虫になった……。


 奥歯にぐっと力を入れてみても、我慢できずに涙が滲んでくる。


 一人なら、もっと楽に耐えられたのに……。






 居間では、アーネストが心配そうにヘンリーを見つめていた。

「これはもう僕たちの手には負えないよ。父に頼む?」

 

 セピア色の毛足の長い絨毯の敷かれた暖かな室内で、ヘンリー、エドワード、アーネストは寒々しい緊張感を漂わせ、難しい顔を突き合わせいる。少し離れた暖炉の前の一人掛けのソファーでは、デヴィッドが輪から外れて携帯ゲームで遊んでいる。



 ヘンリーはアーネストの問には答えず、「年が明けてからアスカへの嫌がらせが増えたのは、うちの『杜月』への買収交渉が漏れているからだ」と、イライラとした口調で吐き捨てる。

「家族を傷めつけて圧力を掛けるなんて、とても上場企業のやり方とは思えないな。それで、そっちの買収交渉は進んでいるのか?」

「全然駄目だ。外国企業はまるで信用できないみたいだな。まぁ、想定内さ。買収はカモフラージュだしね。本筋の方は交渉成立だ。この休み中には新聞で詳細が読めるよ」


 エドワードはぐりっと大きな目を見開いて、「本気で祖父さんに喧嘩を売るのか?」と、探るようにヘンリーを見つめる。

「まさか! ちゃんと手は打ったさ」

 ヘンリーはすかした顔で笑い、これまでの緊張をほぐしてエドワードに向き合った。


「それにしても、きみにはまんまと騙されたよ。知っていて黙っているなんて!」

「国家機密だからな。ちゃんとアスカを守るように言っただろ? お前だって俺に何も言わないじゃないか。お互い様さ」

 エドワードは、にやにや笑いながら答えている。


「おかげで、随分と回り道させられたよ」


 単純そうに見えて、本当に、食えない奴……。


 ヘンリーは眉を寄せて苦笑すると居住まいを正した。そして改めてエドワードに率直な眼差しを向けた。


「それで、国防省は乗ってくれるのかい?」

「親父に聞いた分には、大丈夫だ。英国は今の均等が壊れることを望んでいない」

「英国自体が欲しがることは?」

 ヘンリーは慎重に質問を重ねる。エドワードは首を横に振った。

「あいつが英国内にいるだけで有利だしな。それ以上は、今は望まないそうだ。米国みたいに焦った真似をすると、全てを失う羽目になるからな」

「もっともな意見だな」


 ヘンリーはソファーにもたれて、くっくと声を殺して笑った。


「アーネスト、頼めるかな? これで後のことは大人が解決してくれる。そうだろう?」






 

 飛鳥はあてがわれた部屋の窓から、すぐ下方にある中庭を見下ろしていた。

 ここに来てもう一週間になる。のんびりし過ぎて、日にちや曜日の感覚が判らなくなる。食べて寝て、一日が終わる。その繰り返しだった。



「はい」

 ノックの音に、ドアを開けた。

 ペールブルーのシャツに、同系色のざっくりとしたセーターを着たヘンリーが立っている。

「おはよう。今朝は天気がいい。朝食は温室(コンサバトリー)で食べないかい?」

 その誘いに飛鳥は頷いて、後に続いた。


 

 このアパートメントの温室は、植物を育てているわけではない。中庭に面した暖かい室内から、ガラス越しに庭の緑を一望できる。石塀に囲まれた狭い庭を陽だまりが満たし、所々に植えられた常緑の植物の間には、ラッパ水仙やクロッカスが可憐な花を咲かせている。


「もうじき春だね。日が昇るのも早くなってきたね」

 飛鳥はのんびりと庭を眺めながら、紅茶のカップを口に運ぶ。


「クロッカスが咲くとスノードロップは終わり、春が訪れる。知っているかな? スノードロップは、辛い冬の終わりと春の訪れを告げる、『希望』と『慰め』の花なんだよ。今年も、無事その役目を果たして春を届けてくれた。午後から桜を見に行くかい? もう咲き始めているそうだよ」

「まだ二月なのに! こっちじゃ、こんなに早くに咲くんだ!」

「今年は暖かいからね。今咲いているのは、日本の桜とは種類が違うらしいけどね。日本種の桜はもう少し遅いらしいよ。それでも構わないなら」



 ヘンリーは先に朝食は済ませている。お茶だけ飛鳥に付き合い、今も新聞に目を落としたままだ。


「絶対安静、外出禁止はもういいの?」

「調子も良さそうだしね」

 顔をあげ、彼は飛鳥を見て微笑んだ。おもむろに新聞を差し出すと、「ここに、きみの家の会社の記事が載っている」と、しなやかな指先で、いささか唐突に、小さな記事を差し示した。


『日本の中小企業が、米ガラス最大手グラスフィールド社を提訴』


 飛鳥は、新聞を掴むと食い入るように目を瞠る。


「どういうこと?」

「法律用語が判らない?」


 ヘンリーの問いかけに、飛鳥は呆然としたまま小刻みに、何度も首を横に振る。


「どうして、こんなことをしたのかが……。僕は何も聞いていない」

「契約違反と特許侵害だろ。別に変じゃない。当然の権利だ」

「うちには裁判に持ち込めるだけのお金がもう……」

「勝てる裁判なら、やりたがるやつもいるってことさ。一億ドルの賠償請求だろ? 裁判費用ぐらいすぐ取り返せる」


 流れるようなその返答に、飛鳥は新聞から目を離し、信じられないものでも見るような不可解な面持ちでヘンリーを凝視した。


「きみ、何かした?」







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